10月4日の朝、尊い命が、その人の意思でこの世から消えました。まだ生命を授かってから13年の女の子です。 豊島岡女子中学の1年生。 教頭は「いじめは一切ない」と言ってました。 まだ学校現場ではいじめはなくなっていません。 なくなる訳がありません。日本人の特性がそうさせるのですから。表立ってではなく陰湿に異質を拒む気質が日本人には あるのですから、いじめはなくなることは決してありません。 そんな中、12月8日小田急座間駅で戸板中学校1年生の 女の子が電車に飛び込んで、自らの意思で命を絶ちました。 2学期からいじめは助長されると聞いてましたが、やはり そうだったのかと思い知らされます。2学期になっていじめが強まり、耐えて耐えて2ヶ月、3ヶ月が経っても現状が 変わらないから、この世に見切りをつけたのでしょう。中学生は小学生と違いホルモンバランスが崩れ子供から大人に 変わる時期なので感覚的に敏感になるために、そして親の枠から出て、自分で自分の方向を決めて動けるようになって 来るころなので、こういう方向に向かってしまうのだと思います。小学生は、いじめはあっても、まだ親の傘の下にいて 自分で命の灯を消すような行動は取れないのです。但し、そういう考え方、生き方を擦り込まれて来てしまった上で 中学生になって、自我が出始める周りの生徒たちの無意識のいじめの的になってしまうと前途を照らすはずの灯も目に 入らなくなってしまい、孤独の内に自分を葬ることになるのでしょう。 こういう事件の起こった後には、必ず、その学校、 警察、教育委員会は蜂の巣を突っついたような騒ぎになって、事の隠ぺいに走り、自分の責任回避に手を尽くすのです。  「いじめは一切なかった」と教頭が言い張るならば何故、その子は死んだのでしょうか? 教育者として不適任な方が、まだいるようです。 ならばどうすればいいのでしょうか?  この先は期待に反し、決して、いじめはなくならず、先生たちの多くは、隠ぺい工作、責任回避、見て見ぬふりの達人と なるでしょう。 それが現実ですし、その実態をそのまま受け入れるべきです。ここは日本なのですから。それが嫌なら 外国に移住するべきです。 それが出来ないならどうすればいいのでしょうか? 簡単です。いじめに負けない子供を 幼稚園や小学生のころから育てるだけです。いじめに対する免疫を付ければいいだけです。 そういう考え方をご両親が 持つだけで子供は救えるはずです。 すべては親の成す技、親の積み上げてきた結果なのです。原因は全て大人が 作っている訳です。ならば、その原因を変えるだけなのです。 教師や教育委員会、警察に頼る前に、子供を産んで 育ててきたお父さん、お母さん達が原因を取り払うことで全て結果は変わるように思います。子供は宝。そして親の後ろ姿 そのものが反映された人生を歩むのです。 その第一歩は人々に対する偏見を放棄することだと思います。するとその時から人々が示してくる偏見に穏やかに対処 出来るようになるはずです。人は人々を残酷に、しかも誤って評価することで、自分自身と人々の双方をより不幸せに する代わりに、人々の体験の中に侵入し、人々の心の内を理解し、人々のために感じ、人々と同調することで自分自身と 人々の双方に、より大きな幸せをもたらせるようになると思います。この心の姿勢の最大の敵は「偏見」です。それを心から 取り除くことが出来ない限り、自分がして欲しいと考えていることを人々にしてあげることは不可能です。「偏見」は優しさ、 思いやり、そして正しい判断の破壊者です。そして偏見の強さは残酷さ、不親切さの物差しです。偏見が心の中に出現 したが最後、人はもはや、理性的な生き物ではなくなります。軽率な行動や、怒り、その他の極めて有害な感情に身を 任せることになるはずです。この偏見に支配されてる限り、人の気分も、自由も尊重することがありません。偏見とは 個人が自分勝手に真実だと思い込んでいる、まったく誤った個人的見解にしか過ぎません。それに染まっていることを 認識しない限り、他人の立場を冷静に認識しようとすることもせず、悪意の罠からいつになっても逃れられません。 その結果、当然のごとく真の幸せも手に出来ないのだろうと思うのです。 こどものいじめにおける問題の全ては大人自身の仕業によるものだと断言できるのはそういう背景からなのです。

昨日、BSで録画した「小さな恋のメロディー」を見ました。 昔見たのと違う感じです。 中学校1年生の頃の映画。 トレイシー・ハイドがやっぱりいい。ジャック・ワイルドもいい。 そしてBEEGEESの歌も。マーク・レスターは、どういう訳か あまりーーー。 昔のロンドンの下町を、この映画で見ることが出来てとても懐かしく見ることが出来ました。私がイギリスを 好きになったのは、この映画とビートルズの音楽があったから。それとどちらかというとアメリカよりもイギリス映画が好き なんです。英語もアメリカ英語よりもクイーンズイングリッシュが本物だといつも思います。ロンドンやキース、インバネスは 20代後半によく訪れた街。そんな懐かしい思い出が小さな恋のメロディーには詰まっていました。でも、この映画、アメリカ とイギリスではヒットしなくてヒットしたのは日本だけ。アメリカ的ではないのは確かだけど、イギリスでも受けなかったのは 不思議です。 その中に出ていたジャック・ワイルドは6年前に53歳でガンで亡くなってます。私は今日が53歳最後の日。 明日9日はジョン・レノンの命日(日本時間)。 そして私が生まれた日。今日、あるお母さんからメールを頂きました。 「先生は、お誕生日のたびにお母様のことを思い出しますか?」と。 実は今まで、思いだしたことはなかったのです。 誕生日には必ず母から電話をもらってました。でも自分からは全く。今日が誕生日だったのかという程度で、母の「おめでとう」 の言葉にも、感謝の気持ちを表せず、「もうそんな誕生日を祝う年じゃ、ないんだから」という冷たい言葉しか返せなかった 自分がいました。 そして母がどんな悲しい気持ちかも全く気にせず「仕事で忙しいから、またあとでね」とつっけんどうな 会話で済ましていたのです。今日の、この稽古生のお母様からメールを頂かなかったら私は母に54年前のお礼もきっと 言えずにいたことでしょう。 今日、久しぶりに電話をしました。母は「昔はお父さんが痔で入院、それが治ったら蓄膿症でも入院したりして大変だった んだよ。それに男の子が二人でしょ。苦労したよ。」 電話の向こうの母は昔を懐かしんでいました。 「あっちゃん、風邪 引かないようにね」 また、こんな年になっても子供扱いするのかと思いながらも「お母さん、54年前にがんばって生んで くれてありがとう」と伝えられました。 小さな恋のメロディーの映画が流行った頃の母は38歳。私は13歳。 母は今は 一人でいます。たまには電話しないと。宝塚に行ったら肩も揉んであげたい。今日は素直に、そんな気持ちになりました。

憎しみ、敵意、闘争、非難、偽り、恨み、自己愛などに捕らわれている時、人は真実を見る目を失って、偏った見方をする ようになります。しかし、自分を盲目にする、それらの心の要素を克服した時、人は不動の真実の目を知ることになります。 たとえば、ある少年が非力で小柄な少年を虐待したとします。するとそれを見ていた男が非力な少年に何をするんだと 言って、その少年に鉄拳を振るいます。続いて、その様子を見ていた、もっと強い男が、無力な子供に何をするんだと 言って、少年を殴った男を殴り倒します。 そして3人が3人とも悪いのは自分ではなく相手であると考えます。最初の きっかけを作った少年でさえ、非力で小柄な少年に対する攻撃は、やむを得ないことだったと主張するでしょう。 このようにして無知が憎しみと不和を引き起こすと、その人は激しい感情と敵意の中に住み続けることになると思うのです。 憎しみは憎しみを生み、不和は不和を引き寄せます。殺す人間は殺され、奪う人間は奪われ、虐げる人間は虐げられ 責める人間は責められます。 そして同じ感情でも能動的なものと受動的なものは、お互いが補い合うように、どちらから ともなく引きあい、近づくようです。だます人間とだまされる人間。虐げる人間と虐げられる人間。そして攻撃する人間と 攻撃される人間が引き寄せ合うのは、その為なのでしょう。 世の中には、たとえ誰かにどんなにひどく扱われようと決して傷つくことがない人もいます。自分に何が起ころうと、それは 自分自身がそれ以前に作った原因の結果であることを知っているからかもしれません。自分に起こる全ての出来事を良い ものと捉え、そのすべてを喜ぶのです。自分を呪う相手さえも祝福します。盲目ではあるけど偉大な法則に対する自分の 道徳的負債の支払いを可能にしてくれた有難い存在であると捉えているかのように。 原因と結果は分離できません。 人間は一旦、何らかの原因を創ったならば、その結果は必ず憑いて回ると考えた方が 良さそうです。 そして原因を持たずに発生する物事は何一つなく、発生することの全てが、そうなる為の正当な理由を 持っていると考えるのが無理のない解釈です。 逆に考えると発生を運命づけられているものなど何一つないという考えに 行き着きます。 人間は何かを愛することで、そのことを必ず引き寄せてしまいます。いいことも悪いことも。 明日のあなたは、あなたの思いがあなたを連れていく場所にいるでしょう。 過去から思い続け、描きつづけた人間になる ように、あなたの思いの結果から決して逸脱することはありません。 心の表面でいくら願い事しても叶わないのは心の奥底 にあるものが、そうなっていない為ではないでしょうか? ソラマメの種からはソラマメしか出来ません。なのでソラマメの種 を蒔いて小麦が出来ますようにといくら祈っても無駄なことなのです。原因と結果の法則は絶対なのですから。 一人でも多くの人に、このことを伝えて行きたいとつくづく思っています。そうすれば冒頭の三人のたとえ話の原因と結果も、 おのずと分かってくると思うのです。

保木自治会館を見て来ました。 美しが丘西の住宅街にある平屋建ての建物で、何より駐車場が広い場所でした。 すすき野小学校方面から保木公園を通り過ぎると食品館あおばが左手に見えてきます。その「保木公園前」を左折。    ENEOSを通り過ぎると右手に入る道が見えます。そこを右折して一つ目を左折する。   50mほど直進すると消防団の倉庫とやぐらが見えます。そこを右に入ると保木自治会駐車場入り口です。    裏は広い駐車場。 余裕で20台は駐車できそうな広場があります。  今時、横浜では車を自由に停められて家族で過ごせる場所など、なかなか見つけるのは 難しいはずですから、よく、まあ、こういう場所を見つけて頂けたと山本さん、石橋さんに感謝する次第です。  12月16日の忘年会は多くの子供達と、そしてご両親方といろいろお話が出来ればいいなと思っています。 稽古中はお話をする機会も少ないので、こういう機会は大事にしたいと思っています。 

空手の先生方とお話をさせて頂くと、その道場ごとの特色があって、非常に参考になるのと自分自身が気にしてないこと にも細かく指摘されておられる先生方もいらっしゃって反省しきりです。 ある道場では見学すら認めてなかったり、見学者 態度にも注意をされたりしてるようです。 ですから挨拶などは非常に徹底されてる訳です。 私は、そこまで気が廻らな かったことを反省しています。 厳しすぎるのは意に反することですが、礼儀・挨拶は最低限教えて行かねばならないことで あったと思います。基本稽古の徹底ぶりも同じこと。 私は効かせる技を伝えていきたいという思いが先行していたために、 初歩的な挨拶、礼儀、しきたりにも目を向けて武道をお伝えしなければとあらためて思い直しているところです。 やれば出来る子供達なので、出来てないのは私が指導してこなかったためであると思っています。金的カバーの ファールカップの付け方については、私は道着の上から付けても問題ないものと思ってましたが道着の下に付ける べきだと言われる先生もおられるくらいです。女性がチェストガード(胸を守るもの)を付ける場合にTシャツの下に 付けるのと同じだという考えです。 確かに言われれば、その通り。でも移動稽古を終えてから道着の下を脱いで ファールカップを付けるようなことはことはする必要性がないと私は思っています。 一旦、自由にしてきた雰囲気でスタートして来た為に、急な方向転換は出来ないにしても、私自身が気を付けて 武道のルールをもう一度皆さんにお伝えして行かねばならないと考えた次第です。  子供達を見ていると 最初は出来なくても、続けて伝えて行くと出来るようになっています。 特に柔軟性において 顕著に表れて来ました。 今年の夏までは開脚して胸が床に着く子は数人。しかし、今は出来ない子の方が少ない ようです。多くの子供はそのままお腹までつけて、後ろに足を抜き、その後に足の裏で頭の後ろを触れるところまで 来ました。やり続けれれば出来る。 本当に素直な子供達です。もちろん大人の方々も徐々に柔軟性を高めて来られ ている方が増えました。 やり続ければ、必ず出来る。素直にやれば必ず出来るようになる。そのようにこれからもお伝え して行こうと思います。 12月から、また新たに武道のルールをお伝えしながら多くの方々が持っている潜在能力を引き 出せるよう、私自身も知恵を絞って稽古の在り方、稽古内容を工夫をして行こうと思っています。 また子供達の無限∞ の能力を信じ、それを引き出さずことが私の役割。まさにボクシングのセコンドのように一人一人を診て行こうと思います。  ただし、私の道場は子供達とその御父兄が中心です。 生徒の妹や弟たちが道場の中を駆けずり回ることも多々あります。 それは子供なのだから、しようがない。 「元気に走り回りなさい」という気持ちには変わりはなく、その子供たちの騒ぐ声も、 耳に心地いいものだと思っているくらいです。ということでこの子供たち中心の雰囲気を変えるつもりは毛頭ないのです。 

着陸体制に入ったあとにシートベルトをはずして通路に出たという違反行為について謝罪をされてるコメントがありました。 この行為自体も問題なのですが、その時の言動も大変なものであったようです。 これは 『Voice』2012年12月号に掲載 されてる内容です。これをもし中年男性が行っていたとしたら、即刻、警察の取り調べ室に直行していたかもしれません。 私は、この方のコメントにはどうしても引っかかってしまいます。行動的というか、アメリカ的というか、自分中心というのか。 昨年、大津で中学生が自殺しました。それが取りざたされてくる間に教育委員会や学校関係者の問題も露呈して来た のですが、それよりも気になったことは、その加害者のご両親です。 高学歴で、やや攻撃的な方々のように受け取れた その方々は加害者である息子は「被害者だ」と言ってました。 多くの場合、そのように映るようです。 そのご両親の 思いや行為と、今回のこの方の振る舞いに似たものを感じます。自分や自分の子供を大事にするあまり廻りが見えない 状況にあって、その原因はすべてその周りの環境にあるというお考えなのかもしれません。 そして何か問題があれば 訴訟で決着。 そこには廻りの人の「心」は勘定に入っていないのでしょう。子供がどんな状態なのか? その母親は どんなに居た堪れない気持ちで飛行機の中にいたのか? それは問題にされてないようです。 「お互い様」とは無縁 の世の中では、この先が思いやられます。わざわざ、警察に出頭し、自らの違反行為を記録に残し、またその行為を ブログで報告することなど必要ないはずなのに、何故、そこまでするのでしょう。 これからの世の中を創っていくのは 、飛行機で泣きじゃくっていた子供の世代。 しかしその方の行為は決して、そんな子供たちに参考になる心の姿勢では ないように感じます。クレームを付ける「クレイマー」の行為自体は決して悪いとは思いませんがモンスターになる必要は どこにもないように思えるのです。 頭のいい方々が目指す「高学歴、高収入でセレブな生活」も行きすぎると、ぎすぎすした 世の中になってしまうかもしれません。 人は穏やかになればなるほど、より大きな成功を手にすることが出来るのでは と思うのです。 心は創造の達人。そして私たちは心であり、思いという道具を用いて自分の人生を形づくり、その中で 様々な喜びを自ら生み出しています。 私たちは心の中で思い描いた通りの人間になります。 なので私たちを取り巻く環境は、真の私たち自身を映し出す鏡に他ならないのだと思って姿勢を正したいものです。

私たちの心の中に組み込んできた様々な思いの結果、私たちは今、ここにいます。 人生には偶然という言葉でくくれる ものはなく、自分たちの人生を構成しているあらゆる要素が機能した結果ではないかと常々思っています。自分の環境に 満足していようと、そうでなかろうと、心に蒔いた種は正確に花をつけるのでしょう。 また人間は常に進歩し、進化し続ける 生き物ですから、どんな時にでも自分が学び、成長を遂げるために最適な場所にいるように思えます。 まるで、ある環境 で必要な学習を積んだならば、その環境は間もなく閉じて、次の新しい環境が自ら取って代っていくように一歩足を踏み 出せば、その先に道が出来るように環境が整ってくるようです。 なので人間は環境の産物では決してないのだろうと感じて います。自分が進歩しようと思い続ける限り、成長のための環境が動き出して、思い描いた通りの自分になっているのでは ないかと思います。 心は、それ自身が秘かに抱いてるものを引き寄せるのかも知れません。 それ自身が本当に愛しているものを、または、恐れているものまでも、完全に引き寄せてしまうかのようです。 心の中に蒔かれた「思い」という種が、それ自身と同じ種類のものを生み出します。遅かれ早かれ、「行い」として花開き 、やがて「環境」という実を結ぶのでしょう。 良い思いは良い実を結び、悪い思いは悪い実を結ぶ。だから怖い。 人は自分が望んでいるものではなく、自分と同種類のものを引きよせてしまいがちです。 口先だけの綺麗事や単なる 夢物語などは、成長を阻まれてしまいますが、もっともっと心の奥に潜む真の思いや願望は、それがいいものでも、 汚れたものであろうとも、それは育まれ成長してしまいます。 私たちが手にするのは、私たちが願っているものではなく 祈るものでもありません。原因と結果の法則に即した妥当な報酬のみだと考えるのが適当です。あまりに都合のいいような 良い結果のみを願ってみても、その結果と調和しない思いを巡らしていては、その達成を自ら妨害するのみです。 トウモロコシの種からはトウモロコシしか生まれまないという事実は多くの方が知っておられるのに、個人の人生の中でも 同じことが繰り返されていることは、あまり認知されてません。 周囲の人々や状況に対する自分自身の姿勢を改めると、自分に対するそれらの姿勢も、速やかに改まるものであると いうことを私は身を持って体験して来ました。 今日、飛行機の中で泣く子供とその母親にキレて、降りてからも航空会社にもくってかかった女性がいたという記事を 見かけました。 いずれすべて自分に帰ってきてしまうことなのに何故、そんなことになるのでしょう。その行為は自分で 自分を傷つけるようものであるように感じました。子供は泣くもの。それも1歳の子供です。心が寂しくなりました。

東京大学医学部在学中、22歳の時に書いた小説が今頃、見つかり脚光を浴びてるようです。 私がこの作家に興味 を持ったのは20歳台半ばのころでした。カフカが好きで、その人のいくつかの小説を読んでるうちに日本にも、そういう 前衛的な小説を書く人がいると気づき、壁、砂の女、箱男、密会などすべて、漁るように読みました。その人の文体、 短編小説の末文の結び方、そして余韻の漂わせ方は、今でも好きです。阿刀田高さんの「ナポレオン狂」の短編も 同じような余韻の漂わせ方で綴った面白い作品で、よくそのような短編を見つけては読みふけっていました。 その方は中国で育ち極貧の中国東北部を視てきたから売血奴のことも実感を入れて書けたのでしょう。そして 自分自身も25歳のころには売血をして生きていた方。親が医者で、娘も医者。自分は医学部を出たけど医者には なれず作家の道に入ったという変わり種。その方が29歳から31歳のころに書いた短編を私は何度も読み耽りました。 何故だか書かれている主人公の思いや行動が、若かったころの自分のそれに近かったように思えたのと文章の切り口が 気に入ったのです。20歳台後半の私の生きざま。荒々しさ。粗暴さ。前衛的。超現実的な空想。私はそんな会社員でした。 パニック商事の社員の心得を探す自分がいたり、そんな警察官が本当にいたら面白いものだと思ったりしたものです。 30歳台半ばになって、また読み返すと「棒」になった父親の気持ちは私そのものでした。私が持っている、その方の単行本 は何度も読み返してきたので、すでに擦り切れてボロボロです。中でも気に入ってるのは「R62号の発明・鉛の卵」という 単行本。 それは「棒」・「パニック」などの短編が盛り込まれているからです。 しかし、自分では意外に思うのですが、この 2つの短編の評価はあまり高くないのです。言いかえればあまり知られてないという事かも知れません。 未発表の「天使」 が取りざたされたことで、少しは、この短編も陽の目を見るかもしれませんが、この大衆受けするものではないニッチな短編。  そして昔の自分の匂いを感じる単行本をまた時間を見つけて読んでみようと思っています。 この方の小説は、当時の自分の 空虚な人生を埋めてくれるものでした。 また自分のどこにぶつけるでもない爆発しそうな思いを、その小説は描いていて共感 を感じていたのです。そんなパワーや荒々しさを文字で表すことが出来る小説家は少なくなったように思えます。  昔「太陽の季節」を書いた作家が「太陽の党」を創って新たな道を進もうとしてます。 私には到底「太陽」があるようには 思えません。高年齢の方が集まった「斜陽の党」のように映ります。 今、日本の世の中に必要なのは、そんな高齢者が 率先するものではないはずという漠然とした思いが「太陽」という言葉を斜に読ませるのです。 有り余る活力を筆を通して 書きなぐる岡本太郎のような人を私は老人とは思いませんが、太陽の塔の陰に屯して「たちあがれ」などと言ってきた方々 は自分自身が実は立ち上がれない人達ではなかろうかと私は秘かに危ぶんでいるのです。 世間的には80歳も過ぎれば 棒のような杖が似合う年。果たしてその棒が棒として置き去りにされるか否かは12月16日に分かります。 という訳で白髭 の先生の裁断の成り行きを私は楽しみに待つことにしたのです。 

代々木第一体育館での新極真全日本は初めてだと思います。今までは千駄ヶ谷の東京体育館が改修工事中だからなの でしょう。しかし、毎回 新極真の全日本の全体の演出と子供の演武は、他の極真系団体の大会よりも頭一つ抜けている感 があります。また、今までは塚本先生の試合が、常に1本勝ちを狙う空手の醍醐味を味わうことができたので、技、スピード、 パワーから見ても他の極真団体よりも新極真は頭二つリードしていたというのが率直な自身の感想です。 私は毎年、 秋~冬にかけて行われる極真系の全日本大会には顔を出し、自分の空手センスを磨いたり、マンネリ化を感じる稽古 の中で刺激をもらったりしながら、自分の空手にかける意識レベルで維持するようにもってきていました。誰に指示された からでもなく、大阪での体重別全日本にも必ずと言っていいほど通ったものです。    今回は一緒に観戦したご家族は大人、子供合わせて28名、その他会場でお会い出来ませんでしたが2家族の方が 来ておられたはずですので、たぶん33名の方々と観戦させて頂いた訳です。この巡り合わせに本当に感謝の気持ちで いっぱいです。夏のバーベキューといい、こういう機会は大切にしたいと思います。また今後、お母様達からの声で何かが 出来ればといつも思います。 さて、肝心な試合内容ですが、2日目に残った方々の試合ということもあり、1日目よりKO シーンは少ないだろうと予測はしていましたが判定での試合決着ばかりに多少、面白みに欠けました。世界大会では、 こういう展開は少なくKO決着必死、空手の醍醐味がギュウギュウ詰めなので、あと3年待たないとならないかもしれません。 それと、やはり塚本先生が凄かったということでしょうか? 日本人同士だと相手を知り尽くしてるからなのか、見ていて ハラハラ感が少ないのです。やはり、極真空手は1本勝ちにこだわる空手でないとだめです。 そういう点から言うと去年 の世界大会の塚本先生の技・スピードは他を圧倒していたという事なのかも知れません。 もう当分、塚本先生のような 逸材はでないだろうと去年の大会を見た時に思ったものです。 今年の選手達はスピードは落ちてはいないものの、 ず抜けた技は見ることが出来ず残念な気がしました。ここに白蓮の内藤、北島選手が何故出て来ないのか?  何故連合会に甘んじるのか? 疑問でなりません。 主戦場はやはり技の最高峰で争ってもらって初めて日本一というもの。 今まで白蓮のトップ3は毎年新極真の体重別には参加すれども、3回戦に行くことすら出来なかった現実があります。 しかし、それでもトップレベルで戦って欲しいものです。また松井派の選手と新極真の選手もどこかで手合わせする場が 欲しいと思います。本当の日本一というには、分裂団体ごとに全日本大会としても真に一番かどうかはわかりません。 油の乗ってる時に、一同に会して雌雄を決する場を作らねばならないでしょう。緑代表と松井館長が同じ席につくことが 空手会発展の礎を築くことになるに違いありません。多くの空手ファンのためにも、そうあるべきです。そこで浜井派が 担うことがあるなら積極的に空手会全体の発展のために尽くさねばならないと強く思います。 今日の子供たちの素晴らしい演武を観て、そう思いました。

極真の黒帯は、百貨店やスーパーで買えるものではありません。確かに道着を買って自分で武道道具を扱う業者に 出向いて黒帯を揃えて、帯に名前と極真の文字を刺繡すれば恰好は整うでしょう。しかし、技はどこで買いますか? どこにも売ってません。本で読めば出来るというものでもありません。すべて目と耳と身体全部で体感して覚えるもの。 この対面で覚えるから身体も、ちょっとやそっとでは忘れないのです。何度も、何度も真似をしようと試みれば、その結果 自分なりの形が出来あがります。この真似をする過程で、徐々に感覚も研ぎ澄まされ、自信も生まれ、そして何事にも 動じない心が培われてきます。極真にはペーパードライバーはいません。「試験にあわよくば通って」、というようなラッキー は黄色帯の段階まで。 そこから先は力の世界。うまさは見ればわかるし、強さも見ればわかります。その逆に極真の 緑帯や茶帯で弱い人がいたら、それは可哀想です。極真の緑帯・茶帯クラスとなれば何よりも強いこと。それは身体が 強いこと、スパーリングが強いこと、試合に強いこと、そして心が強いこと。これらのことが備わってなくて緑帯以上に なっていたとしたら、いずれ下の帯の人にやられてしまうでしょう。たまにそういう方に出くわすことがありますが可哀想です。 極真の緑帯以上の帯は、心が強いという証です。黒は何色にも染まらない色。決して、何事にもふらつかない心の証。 そして、その人の生きた証でもあり、プライドなのです。  極真の黒帯は、他流はより取得しにくいと言われます。これは間違いです。誰でも取れるのですが、多くの場合、黒帯 を取る前に辞められてしまうだけなのです。 取れると思い込めば必ず取れると私はそう思っています。私自身がそう だったので。 私は白帯の時、自分の黒帯の姿を何度も想像しました。黄色帯の時も、緑帯の時も。それが茶帯になると、 たぶん自分も極真の黒帯が取れるかもしれないと、薄っすら希望の陽が垣間見れるようになるのです。その茶帯をある 期間経験する内に、いつしか自分が指導者側に立っているのも気づいてきます。それが茶帯の自覚です。その自覚が あると、もう真近。 あとは先生の「そろそろ次の審査で初段を受けてみるか」という言葉を耳にするだけです。 その言葉は審査の半年以上前に聞いて、昇段審査までに覚えなければならない、様々な型、移動稽古、そして組手に 耐えられる身体を創って行きます。これは長年登ってきた山のイタダキが見えた瞬間です。半年はあっという間に過ぎる でしょう。流石に他流で黒帯を頂いた時と違い、極真の黒帯を46歳で頂いた時は感慨深いものがありました。 なので認定証は今でも大事に保管しています。振り返ってみると賞状をもらったのは、そろばん2級と学校の卒業証書 だけ。それが極真の試合に出て優勝や入賞をして賞状、メダルやトロフィーをもらうようにもなると嬉しくて、励みにも なりました。また40歳台にして、自分の逃げない心を授けてもらった大事な経験の場に感謝の気持ちも湧いて来ました。 これら認定証もトロフィーも、すべてが自分の誇りです。 しかも極真の黒帯の認定証と帯を頂いた時は、その何とも 言えない重みと、念願叶った達成感とで、それまでの苦労は露と消えたことを思い出します。 私は、その過程を味わってもらいたくて、今年、出会った方々に指導をしてます。極真の黒帯は夢ではないということを 伝えたくて、一緒に汗を流してます。身体が小さくても、年齢が50歳を過ぎていても、黒帯になられた方を何人も見てきた ので、遥か遠くの手の届かないものでは決してないということを私は伝えていくつもりです。 私自身、多くのご父兄さんたちと同じように、家族に対する顔、そして仕事の顔、そして道着に袖を通し白帯を締め出した 時の空手初心者の顔、それをバランスを考えながら続けて来た結果が今の私です。 15年前を思い起こしながら。いつもがんばれ~!って心で叫んでいるのです。 子供たちも、お父さん、お母さんたちも がんばれ~!と。 あっ、忘れてはならない人がいました。お一人結婚されてない方が。私は、その方が結婚される時 には、ここで出会った方々みんなで祝福してあげたいと秘かに心に決めています。わざわざ世田谷から車で通ってくれる その方も、いろんな意味でがんばって欲しいです。 また育児と家事と送り迎えで忙しいお母さんも学校のことや、ご近所 付き合いのことや、親戚のことやらで気が休まることがないでしょう。 30歳台、40歳台は、そういう中であっという間に 過ぎ去って行きます。極真空手は、そういう走馬灯の中でも何も変わらず、ただ強い心を育んで生きて行くための手段 として、また普遍的なものとして先達たちが築き上げてくれたものです。それを横浜青葉の地で一人でも多くの方々に 伝えて行くのが田中空手クラブの使命だと思っています。私は、一人でも「教えて欲しい」と言われたら、必ず、その人 の為に時間を取るのは、そういう訳なのです。

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