4月 2012

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あなたは考え、人生と言う旅を続けます。あなたは何かを愛し、それを自分に引き寄せます。あなたは今、あなたの思いが あなたを連れてきた場所に立っています。明日のあなたは、あなたの思いがあなたを連れて行く場所にいるでしょう。 あなたは、あなたの思いの結果から決して逃げられません。でも、あなたはそれに耐え、それから学ぶことが出来ます。 そして更にそれを受け入れ、それを喜ぶことが出来ます。 あなたは今、自分の環境を自分自身とは分離したものだと考えているかもしれません。しかしそれは、あなたの思いの 世界と極めて密接に結びついています。原因をもたず発生する物事は何一つありません。発生することのすべてが そうなることの正当な理由を持っています。あなたの人生内で発生する全ての物事が、あなたの内側の状態に従い 発生すべくして発生するのです。 --- これはジェームス・アレンというイギリス人の言葉です。それも今から 100年以上も前の言葉です。 私は子供のころにこういうことを教えてくれる人が廻りにいませんでした。 私がジェームス・アレンの書「原因と結果の法則」に向かい合ったのは今から8年ほど前のことです。なかなか この内容を理解し、実践することなどできませんが、事あるごとに自分を元に戻すための重要な本となってます。 明日から私は中国です。中国の北から南を、この本を2巻を持参し移動中に読み返そうと思ってます。4月28日には 帰国して、またウィークデイは仕事で、土日は子供達に空手を伝えて行きます。5月にはまた、新たな出会いを期待して。 心の姿勢を正して、子供達に向き合おうと思います。

すすき野小学校を何とか無事に卒業出来たことがただ有難く感じられたのは、もう7年も前のことです。すすき野 中学校では野球部に入り球拾いの毎日でしたが途中で辞めることなく3年間をつつがなく過ごさせてもらいました。 生まれてからの2年間は泣き喚いて、奇声を発するだけで言葉をしゃべりませんでした。漸く言葉を口にしだしたのは 3歳を過ぎてからのことです。保育園でも先生とのコミュニケーションが取れず好き勝手に動き回ってしまう始末。 ちょうど、そのころ同じ保育園にマサキ君という同じような症状の子供がいました。どういう訳か皆についていけない 二人は波長が合い、マサキ君とうちの次男はいつも一緒にいるようになったのです。よだれを垂らしたままのマサキ君と 、いつも自分の世界にこもっている次男は見た目で、変わった子供であることは判別できました。マサキ君のご両親も いろいろ悩まれていたと思います。お父さんは当時有名な野球選手。伸びのある速球を投げる方でしたがヒジの怪我で 長期間入院され、その後復帰した試合でヒジをプレートに付けて何かを祈っていた姿が印象的でした。現在のマサキ君 は確か桜美林大学に進まれたと聞いてます。もちろん野球をしながら。 うちの次男は普通のクラスでは無理だろうと あきらめてはいたものの、何とかすすき野小学校、すすき野中学校を卒業させて頂き、日大桜ヶ丘高校に進みました。 言葉をしゃべるのが遅かったため、小学校低学年の時には他の子供より2-3年は知能が遅れていたと思います。 いろんな機関に検査や受け入れ施設の相談に行きましたが結局は自分達が普通の小学校に入れて、普通に育てる んだと決めて、一つ一つをその子供のレベルに合わせて成長の過程を作り上げてきた結果が、今なのだと思うのです。 出来るだけ脳に刺激を与えること、そのために出来るだけ運動をさせたこと、空手もその一つでした。柔軟運動をさせ、 汗をかかせ、皆と一緒の行動に馴染ませること。これは自閉症の子供にはきっといい刺激になると思い空手の稽古を 続けました。もちろん家での勉強も毎日行い、一緒に復習をしたことなど、今から思えば気の遠くなる地道な作業でした。 もちろん塾に入れることも考えましたが、到底、塾に通えるレベルではなく、相手にしてもらえないということは親が一番 分かってました。そうなればあとは腹を据えてどん底から這い上がるしかないと踏ん切りをつけるだけのことでした。 いつも藁をもすがる思いで成長を見守ってきた気がします。そんな次男の野球は9番ライトが定位置。試合に出して もらえるだけでも有難かったと思います。その子が地道な苦労を重ねた結果、運よく日大桜ヶ丘高校に入学することが 出来て、そこで始めた陸上は、経験者ではなかった為、最初から同級生の背中を見て走る毎日でした。本人は何度も、 もう辞める、もう辞めると言っては明日だけーーー。と言いいながら何とか春夏秋冬を超え、1年をどうにかやり過ごす ことが出来ました。その頃も軽い自閉症の感覚は残ってましたが毎日の努力と適度な運動の効果は、次第に明らかに なってくるのが分かりました。長距離を走る息子の低位置は常に最後尾でしたが、2年生の秋を迎えるころには、多くの 生徒が疲労骨折や足首の怪我などで悪戦苦闘し出した為、いつしか本人は皆の真ん中を走るまでになっていました。 それから半年が経った3年生の春には同校の長距離で息子の前を走る生徒は誰もいなくなっていました。高校に入って から始めた長距離走は、わずか2年半で終わってしまった為か、本人は、そのまま大学の陸上部の寮に入り、朝5:25に 起きて早朝練習、夕方も練習という毎日に身を置く道を選択していました。いつも皆の会話について行けず、置いてきぼりが 低位置であった子供が今では普通の大学2年生になっています。まだまだ箱根駅伝に出れるレベルではありませんが、 それを目指して雨の日も風の日も、暑い日も寒い日も努力し続ける姿勢があれば、いずれ花は咲くような気がします。息子の 過去を振り返ってみると、そう思えてならないのです。

浦和高校は私の父が通っていた高校だけに妙に懐かしい響きがありました。父は昭和24年に入学しましたが家計 が苦しく浦和高校を中途退学して川口のサッポロビールの工場に働きに出ました。戦後間もない頃の話です。父は 勉強がしたくて浦和に入ったのですが、母子家庭であったことで自分の将来よりも今の家計を考えたようです。しかし 、このサッポロビールも一部上場企業なので学歴がものを言うのは明らかでしたが昭和24年当時は、この選択肢 しかなかったようです。30歳代になると、そのことが顕著になり父よりも若く、社歴の浅い人が上司についたなどと 愚痴っていたことを思い出します。浦和中退=中卒であった父の肩書きは班長、主任がいいところでした。そんな 父の口癖は大学は出ないと駄目だということで兄も私も、その通りにさせて頂きました。父は自分と同じ苦労をさせ たくはなかったのでしょう。今、私の長男が医者の道に進もうとしています。その息子が今の3年生から、その先、 留年することなく順調に行ったとして医師国家試験を受験できるのは2016年2月。亡き父がサラリーマン時代に学歴 で苦労し出した30歳ころ(1965年)から、医学の分野で学歴で頂点を極めるまで世代を超えて約50年もかかることに なります。しかし、是非成し遂げてもらいたいし、本人もそれを信じ勉強に励んでいてくれてることと思います。医者 の家庭から医者を出すの大変な苦労を伴うものではないでしょう。しかし、そうでない場合は素質・資金・運がない と叶わないと思います。それに加え何よりも、その親の信念・努力がないと子供は親の枠を超えられません。自分 が受けてきた教育以上の教育を子供に施す信念と余裕が、その親になければ、その子供は、その親以上には なれないのです。私が目指すものは、そのような世代を超えたワープです。子供が親以上になってくれること、 親が成し遂げられなかったことを成し遂げてくれることにあります。親がその気にならなければ子供の人生は 変わりません。  という訳で、この空手クラブは、単なる空手だけを教える場ではなく、教育の場であり、 いずれご父兄様方と子供達の人生設計を考え・語り合える場を設けることが最終目標です。 遠くない日に、 こういう会話をご父兄様達と出来るようになればと思います。努力はいずれ報われる。そう信じております。 またこの空手クラブは、そう信じてる方々との出会いの場でありたいです。

昔、大学で取ったゼミはSEのプログラムという訳の分からないものでした。なぜその科目を選択したのか、はっきり 覚えてませんが、後々何度も後悔したことは覚えてます。結局ゼミにはついて行けず講義には出るものの一番 後ろの席で夏目漱石の小説を読みふけっている日々が続きました。あわてたのは卒論です。ゼミの卒論で単位を 落とせば卒業出来ないわけですから、なけなしの知恵を絞って考え出した策がゼミの先生に、正直に話をしてSEは全く 理解できず夏目漱石の小説ばかり読んでましたと伝える事でした。最後には、それを卒論にしたい旨をあつかましくも 申し出ていました。しかし大村先生という方は粋な方で「君が熱中したことであるならそれでいい」と言ってSEのゼミ 始まって以来でしたが文学部の学生のように「夏目漱石に関する卒論」を書いてしまったのです。大村先生には 感謝の言葉しかありませんが、またそんな卒論に「優」を頂き私の成績表に色を添えて下さいました。 こういう訳で私はSEのプログラマーのゼミながら文学を好み、中でも夏目漱石については凝り固まっていたのです。 その夏目漱石が影響を受けたのは英国文学で、その中でも女流文学のエミリー・ブロンテの嵐が丘や、 シャーロット・ブロンテのジェーン・エアーは特に造詣が深かったようです。1902年12月に日本に帰国した漱石は 東大の講師となり、そのころから小説も書き出しています。その後、朝日新聞に勤めながら小説を書き続ける のですが、小説家としては大変、遅咲きであったと言えます。また漱石の蔵書目録にはブロンテ姉妹の小説が すべて残されてることから、ブロンテ姉妹の思想は多少なりとも漱石の小説に影響を与えた可能性は高いと 思えます。そのブロンテ姉妹はヨークシャーの人です。嵐が丘のエミリーは1848年12月19日に30歳で亡くなり 、その19年後、漱石が生まれ、49歳の1916年12月9日に亡くなられてます。エミリーが亡くなって68年後でした。 そのまた64年後の1980年12月9日(日本時間)ジョンレノンが亡くなりました。ジョンレノンは12月8日に亡くなった とされてますが、日本では12月9日でした。 私が好きなアーチストや小説家の命日となった12月9日に私は 生まれました。 エミリーブロンテの名前が、つい数年前に見え隠れしたのは「ハゲタカ」というドラマのラスト の曲に彼女の詩が使われたからでした。いい曲です。詩を読めばもっといいものだと分かりますし、それを 164年前の30歳の女性が書いたというのも驚きです。しかし嵐が丘を書いた方だと聞けば、納得です。私は それほど嵐が丘が好きで、漱石がブロンテ姉妹の蔵書をすべてコレクションしたという気持ちも何となく 分かる気がします。

3月30日の ある新聞に東大のことが書かれていました。東大学生の家庭年収調査結果です。東大学生の 52%は年収950万円以上の家庭のご子息で、17%が450万円未満だというのです。この実態をどう見れば いいのでしょう。やはりお金がないと塾には通わせられないし、中高一貫校にも入れられない。結局のところ裕福 な家庭しか望めないというようにも読み取れます。しかし、親の年収が高いか低いかではなく、何に親の関心が あるのかということも子供の将来に影響を与えるように思えるのです。それは「親の思い」、「親の視野」、「チャレンジ 精神」、「親の経験」など様々です。 親が真剣に子供の将来を考えて、いつも気にかけ、あきらめずに育て上げれば 結果として鳶が鷹を産んだと言われるようになるかもしれません。東大に入るにはその家の年収ではなく、その 家の親の志のようなものが影響するのではないかと思えます。親とは母親です。母親があきらめないで志を高く もってこそ、子供の将来は大きく開けるように思えます。 東大の秋入学の記事を読ませて頂いて、なんだか勝手に、そんなことを考えておりました。 今は、春の高校野球が真っ盛り。なんとも心に残る選手宣誓。きれいな心の言葉は何度聞いても気持ちがすがすがしく なります。AIJの社長のニュースとは対照的なものでした。一流大学を出て一流企業に入り7千万円もの給料を 手にしても心が磨かれてないと結局は一時的な繁栄で終わるということが、また繰り返されていたようです。あの社長 なら秋入学を率先したのでしょう。私には、春でも、秋でも変わりはないように思えるのですが、ただ、心を磨くことを 怠ると一時的な繁栄に目がくらむ人ばかりが世に蔓延るように思えてなりません。 頭のいい子供を育てる過程では そこを誤ってはならないと強く思いました。

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