3月 2013

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ようやく正座が出来るようになりました。かれこれ1カ月。 しかしまだ内ももに内出血があります。 青帯の女性の膝蹴り と内ももへのローキックです。 男性陣で体重のある方々と激しいスパーリングをやっても全く問題なし、なのに何故? その方の叔父さんは山口で芦原会館の道場を持っておられる先生。 弟さんは先日の山口の芦原会館の大会で優勝。  で、その方は以前、芦原会館で6年稽古して黄色帯だったとのこと。 私もフルコンタクトをやり始めたのは京都の 極真会館芦原道場でした。 若き日の芦原先生に道着の背中に大きな「芦原英幸」というサインをしてもらって稽古に 励んでいました。 芦原道場の人は膝、肘、禁じ手が得意。芦原先生は特に肘打ちが早かった。二宮先輩も中山先輩も。 なんだ空手一家の人だったのか、ならば強いはず。というか当て方を知ってる。 がむしゃらに当てるのではなく当たると 痛いという当て方になっている。 あとは男性陣があまり、この方を怖がらずにミット稽古やスパーリングをやってもらいたい ものです。 少々怪我をしても余裕を見せてもらいたいです。男性が女性に必死になる姿はあまり見たくないので。

毎年3月は医学部進級判定会議があるので、気が休まりません。長男の四年生への進級結果発表が今日の昼に大学に 掲示されました。 あれからようやく1年が経ちました。 長い長い1年でした。 去年の3月17日に速達で送られてきた封書 を開封するのと同じくして長男からの電話を受けました。 「お父さん、ごめん。留年になった」とポツリ。 私は信じられ ないという思いと、1年間の余分な学費約5百万円が肩に圧し掛かってきたようで一瞬言葉を失くし、出て来た言葉は 「じいちゃん、ばあちゃんにも自分の口から説明するんだよ」とだけ言って電話を切りました。 本人もまさかと思っていた らしく、仲間内でも信じれないという声が多かったようです。しかし、自宅の親に速達で送られてきた成績通知表では すでに前期の成績で留年が決まっていたようなものでした。秋に行われた面談では 「前期が良くないのでよっぽど 努力をしないと進級は難しい」 との先生の説明。 その為、後期は、まさしく必死に勉強し後期試験は成績も改善されて いたのですが、前期のマイナスをカバーするほどではなかったのでしょう。 私はその日、長男と話をして3つのことを 決めました。 医学部受験用の塾の講師バイトは即刻辞めること。体育会の空手部も退部。そして過去1年間の約4倍 の勉強時間をとること。 この3つを決めごとにして、あとは長男の部屋に学部長から送られてきた「留年通知」を額に 入れて机の正面に掲げました。 その悪夢のような3月17日からやっと1年が過ぎました。 医者になるというのは大学 に入ってからが大変で険しい山道が待ち受けています。 相当の素質がないと途中で留年を繰り返し、いい年をして退学の 憂き目に合い、その為に生きて行く為に働き口を探しながら、塾の講師で生計を立てるというケースも想定しておかねば なりません。私は長男が入学した時に学部の先生に「医学部生はノイローゼになる生徒が他の学部と比較すると多い」 と説明を受けました。 大学でノイローゼとは大げさなと聞き流していましたが、今はそのことが良く分かります。  この高額な学費の支払い負担と記憶すべき膨大な量の医学文献との間で途方に暮れてしまうのでしょう。 あとは人体解剖 です。一人の検体された人体を数ヶ月かけて全て分解することに目を背けてしまう生徒も中には居ます。机の前の勉強が 出来ても通用しない世界が待ち受けているという事です。 つまり要求される医学部生とは「ストレスに強いこと」、「忍耐 強いこと」、「血を見ても動揺しない精神的安定性があること」、それと「並はずれた記憶力を有すること」などの能力が 求められるのです。ならば幼少の頃からそのような教育をするのみ。 もし医者を目指す御家庭があるとするなら、そういう 適性を早期に見抜かねばなりません。 もし適性がある御子息ならば、前述の必要事項に関し、様々な刺激を脳に与え ながらその能力を伸ばして行くことです。 わずか1.4kgの脳の塊。 その中の砂粒くらいの大きさの脳の断片に10万個の ニューロンと200万本の軸策、100億個のシナプスがあり、それらが互いに情報をやりとりしています。 その脳を幼少の頃 から如何に刺激し続けるかで医学部の合否と卒業可否、また最終的には医師国家試験の合否が決まるということです。 私は空手を指導しながら、「子供たちがその人生をどのように生きて行くのか」について御両親たちと話し合い、様々な アドバイスを御呈示申し上げて行こうと思います。 但し、そういう意味では我が家も現在進行形です。 今日、入会 された年少さん達の御両親より約20年先行しているので、この道20年分の資源をいつか御子息たちの将来の為に役立て させて頂こうと思っています。 我が家は息子を医者にする為の険しい登山の7合目あたり。 其処まで行きつくまでの 道のりについては、どこに何が必要で、どの道を通ればいいのかという要旨を個別にお伝え出来るものと思います。 そんなものでも、いつの日にか、どこかの御家族に役立つのではないかと考えています。  子供の偉大さを信じ、そのいいところを最大限に引き延ばすことに価値があると考えながら、日々、一人一人の子供たち に接しています。  子供たちの明日を信じて。

年少さんから稽古への参加を認めてはいるものの個人差があるのは事実です。 確かに年長さんにも個人差が あります。年中のSHOWYA、 年少のIRYUWは同じ年代の子供としては成長が早い気がしてなりません。 何がそうさせる のかはわかりませんが、一つ言えることは親と離れている時間が長いほど、しっかりしてくるということです。 私は幼稚園まで母親に着いて買い物に行き、井戸端会議にも母親の後ろ側について行ってました。何かをしゃべる 訳でもなく、黙って母の後ろに隠れてついていた気がします。 うち弁慶そのもの。 KOWTAROやRIHITOを観ていると 同じような色を感じます。 父親と一緒に居た記憶はなく、また父親に寄り添う気持ちもありませんでした。 昭和の サラリーマンは、みな子供育ては母親に任せていたのですからしようがありません。 なので、ろくに話しもしなかった 父にいきなり野球を一緒にやろうと機嫌を取られても、一緒に居たくないのだから、困ったものだと子供心に不満を感じて いました。 多くの子供は母親と過ごして来た時間が長いので母親と一緒に居ると安心だし、会話も普通に進むのです。 私の場合は明らかにそうでした。 しかし、欧米では子供が寝る時は一人で寝かしたり、親離れを早くする傾向にあります。 自立を促す育て方です。 親が助けてしまうことは良くないのでしょう。 近くに居れば「よしよし」といいながら親が何もかも してしまう。 そういう親は子供にとって楽が出来て、温室の保護の元で暮らせる有難い存在。 しかし世の中に出るとそうは 行きません。 私は中学の頃、子離れが出来ない両親に嫌気がさし、早く一人で暮したいと思っていました。 自分で苦労し ながら何もかもやってみたいと思うようになっていました。 今、世の中を見渡すと子離れが出来ない親御さんが多いのが 気になります。 子供を大事に思うが為に過保護になり過ぎ、結局、何も苦労させない、それどころか自身で判断させない ような可愛がりようなのです。 これでは子供は温室育ちで、社会の荒波には耐えられません。 失敗しそうになっても 手を貸してはならない。 あえて自分自身で歩ませねば。 そんな親としての強い意志が子育てには必要です。 12億人の信者の頂点を決めるバチカンのコンクラーベは115人のカトリック枢機卿:教皇の最高顧問達の2/3の 票があつまるまで、何度も何度も投票を繰り返し、そしてやっとのことでその頂点に立つ人を選びます。 この根競べに耐えた人がその頂点に立ちます。 世の中そういう根競べが山ほど待ち受けています。その場に勇んで 立ち向かって行くようなチャレンジ精神旺盛でしかも、忍耐の心を兼ね備えた子供を私は育てて行きたい。

あまりブログを更新しないと心配して下さる方がいるので、また書く事にしました。 私自身の心を書いているので 実はニュートラルな気持ちでないと書けないのです。 それが、この1週間、いろいろなことで雑音が入り、昨日は 身近なところでも雑音がふって湧いたため、心を整理する時間を持つことにしました。 それが更新を控えていた 理由です。   しかし、私は決めました。  世間に惑わされることなく、 他の誰彼の顔色を伺い過ぎず、 前を向いて、この活動を進めていくと。   そして、たとえ人が減って、歩みは亀のように遅くなろうとも、 信念を持って生きて行くと。 

父が他界したのが確か72歳。母は今年の7月で80歳。 これを日に直すと父は26,280日で他界、母は7月で 29,200日を迎えることになります。私は現在19,800日を生きています。 私の人生は贔屓目に見ても70年。 そう考えると私は25,550日で人生を終えることになります。 私はすでにそのほぼ77.5%を終えているので人生の 第4コーナーを曲ったあたりに居ることになります。そうすると残日数は約5,750日。  昨晩、これをどのように活きるかを考えていたところです。 あと15年も生きると言われると、何だまだまだ先の事と 考えがちですが、あと5,750日で終焉を向けると考えると 砂時計が着実に時を刻み、 残りが少ないことに気づき ます。 もちろんこの砂がなくなるまで自分の人生を好き勝手に活きることもあるでしょう。 今までもそうして来たの だから、そういう生き方も続くでしょう。 しかしちょっと真面目に活きることもたまにはやっておこうかと思っています。 私は人生80年として29,200日の中でまだ2,000日しか生きてない子供達や10,000~15,000日を生きている 大人の方々と土日を共にしています。 ならば、おせっかいと言われようと、このつたない経験をもとに失敗をより少なく 生きるすべなどは、都度伝えていこうと思います。 この人生を「日にちで観て行く生き方」を若いうちから知ってもらう のも大事なことかも知れません。

縄文時代後期、今から2900年も前のこと。 日本の人口は8万人に減っていました。遡って4300年前の縄文時代中期 には日本の人口は26万もいたのに、その後の栄養不足や疫病蔓延などのために人口は減ってしまったのです。 その後弥生時代に入った1800年前には稲作も普及し国家が形成されて人口も59万人に増加しています。 そしてそんな日本がまだ縄文時代後期の、今から2500年前に小アジアのフリジア島の貧しい羊飼いの黒人の家に 生まれたのがイソップ。 顔はひどく醜く、そのうえどもりで、人とまともに向かい合って話をすることもできなかった人。 まるでコンプレックスのかたまりのような男が、そののちエーゲ海の東の端にあるサモス島に渡り奴隷として働いて いました。 しかし、さまざまな苦難に耐え、ひたむきに努力をした結果、2番目に雇ってくれたご主人がイソップの天賦 の才を見込んで奴隷の身から解放して自由人にしてくれました。自由の身になったイソップは、アテネ、コリントなど ギリシア各地を寓話を語りながら渡り歩きます。 イソップは語り屋として次第に認められ人気を博していきますが、時の権力や体制に反するような人間であると 言いがかりをつけられ、紀元前550年頃、デルフィであらぬ罪を着せられたまま処刑されてしまいました。  まだ当時のギリシャですら言論の自由も生きる自由もなかったころの話です。 旅人の服を脱がそうとする北風と太陽の話や、カメとうさぎのかけっこの話、アリとキリギリスなど今でも通じる話ばかりを 2500年も前に生きたイソップは考え、それを語り広めて行ったものだと感嘆しきり。 そしてその後、現在に至る2500年 の間、よくもそれに関わり合った人達は、その話を語り継いで来られたものだとつくづく思います。  今日、そんなイソップの話をみすずが丘の稽古のあとの個人レッスンでしていたのです。 個人レッスンと言っても集中 することの習慣づけ。そして一緒に本を読むというもの。 本は百瀬昭次さんの「君たちは偉大だ」。 これを6冊、木曜日に 購入し、1冊は今日、個人レッスンの子供に渡しました。 これから一緒に最後まで読んで行こうと思います。  30分の個人レッスンの20分は空手の基本稽古、10分は、この本の朗読にあてることにしています。  今回6冊も買ったのは、他の子供たちとのことも考えてのこと。 いずれ朗読に興味がある子がいれば一緒に参加できれば いいと考えているからです。 朗読は脳を活性化させ、豊かな想像力を導きだしてくれるものです。 声を出して読むことは    他人にも自分にも聞かせる事になる為に黙読よりも記憶に残りやすいのです。 今日は二人で代わる代わる声を出して   読み、時間になったところに今日の日付と名前を節目のように書きました。 この作業は春が終って、蚊に悩まされる夏に   なれば終っているだろうと思います。 何でこんなに時間をかけるかというと、文章の段落ごとに何を言いたいのかを   考えてみる時間を取ったり、今日のイソップの話などで脇道に反れたりする「大事な寄り道」をするからです。    実はこういう寄り道が子供たちに取ってかけがえのないものになると思っているので欠かすことは出来ません。     そして、この個人レッスンはもちろん無償。 自分の心が動いて始めた活動なのですから。

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