諦めが肝心かも知れないと唐突に思う。 誰もかれもが努力すれば夢が叶うものではないのだから。
たとえば、うら若き乙女の誰もがアイドルになる夢をみるように、若かりし男たちの誰もがメッシになれるもの
ではない。 やりたいこととやれることは違うんだと思わねば。 夢も希望もないと思われるかもしれないけど
これが人生だと思う。 夢に向かって大きな一歩を進める時には果敢に攻める姿勢は必要だ。 背中を押して
あげることも悪くない。 でもその人が持って生まれた能力は、傍目から見た方がよく分かるはず。
夢が叶えられないのは努力が足らないからだ。ということもあるのだろう。確かにそういう場面もあるかもしれない。
しかし、努力という二文字でかたずけられない、能力や運命という言葉もついて回る。
バレーボール部に席を置き、センターとして活躍していても、これ以上無理だと諦めることもある。
自分がもし180cmを越えていたら絶対に負けやしないと思ってみてもしようがない。 ましてロシア人と
日本人の身体的な差を嘆いてみてもしようがない。 いくらジャンプしても限界がある。
自分には出来ないことがある。 それを受け入れなければならないこともある。
仕事を見ても同じこと。 メッシやネイマールは、やりたいことが仕事になっている。 そんな天職は稀だ。
野球選手が怪我で戦線離脱し、そのまま契約解除になることだってある。 プロ野球選手の奥さんになって
夢いっぱいの毎日。 そんな幸せの内に奥さんのお腹に子供まで授かったとしても、その事態は待ってくれない。
やりたいことが仕事になって、それも大金が20代の目の前を飛び交えば、夢は努力で叶うものだと思ってしまう。
しかし多くの場合、夢破れて現実の世界に立ち返ることになる。
自分がやりたい仕事は今の仕事ではない。 そんな落差のある毎日を身重の奥さんと過ごすことになる。
それも現実。 それが生きるということ。 そこから本当の人生が始める。
落差を受け入れない人は、いつまでもその夢を追い続けると聞く。 法学部を出て弁護士の夢を捨てきれず30歳
の大台を過ぎる人のなんと多いことか。 その落差を受け入れるのも、その落差に、もがき続けるのも人生。
それはその人がどのような人生を歩みたいのか、その価値観によって変わってきてしまう。 ただ言えることは
人生にラッキーはないということ。 ラッキーという錯覚の後には、その反動がついて回る。 そのラッキーが
大きければ大きいほど。そして、その期間が長ければ長いほどその反動は大きくうねって本人に帰ってきてしまう。
ラッキーほど怖いものはなく、人生に魔法などはない。
でも、そんなことは、今、我が世の春を謳歌している人の耳には角ばっていてスンナリ入るものではない。
当選した当時、「不正経理を暴く」と豪語していた方が県議の地位を悪用し自身が不正経理に身を染め、
その挙句に職を辞した経緯を観ていると、あらためてラッキー橋は渡ってはならないものと思えてならない。
落差を受け入れず、見果てぬ夢を追い続けることも人生。 人間には様々な姿があっていい。
恵まれた人生は結構なこと。 されど恵まれない人生もまた結構だ。
たとえどんな境遇であろうと、心を軽く持てば、そこから人生が開けてくるに違いない。
さあ、そんな明日を楽しむ事が出来るだろうか。