昔々、中国に華陀という人がいました。 今から70世代も前の人。 彼は疾病がもし腸の部位にあったなら
患部を取り出し、それを薬液で洗い病巣部を切除し再び縫合しなおし、さらに腹部の傷口を縫合し創傷の癒合
を促進させるため神膏と呼ばれる薬を塗布した。 その後4、5日で患者の病状は好転し1ヵ月以内に患部は
癒合し手術は成功したという。 中国は沛国の人。その医療技術は、当時としては非常に珍しい外科手術も
出来るほどでした。 紀元220年ころにすでにブラック・ジャックのような人がいたということです。
いつの世も死を直視すると、生きていることの意義を見出すことに変わりはない。 華陀は、多くの人を
死の淵から救い、生還させました。 しかし彼は投獄され獄中で亡くなっています。 彼の意思ではなく。
理にかなわない流れだと思います。 でもこの理不尽も当時の中国では自然な流れだったかもしれない。
何故か分からないけれども、自分は、この世に生まれてきました。 そして生まれて来たのは自分の
力によるものではない。 何かの力がそうしたとしか思えない。 それと同じように死ぬのも自分の力に
よるものではないだろうと思う。 昨日まで元気な人が事故に遭遇したり、 風前の灯で死にそうな
人でも持ち直し生きながらえたり。 何かの大きな力が、自分を産みだしてくれて、また死なすのだろう。
そう思うと、この与えられた命は、そしてこの身体は、よっぽど尊いものなのだろうという気がします。
冒険をせず安全な道を歩んでいる人が、無意識のうちに危険な落とし穴に落ちたり、 また逆に全智全霊
を掛けて、一所懸命に活きながら、一日一日が綱渡りのようにして冒険の毎日を生きる瀬戸際人生の人が
怪我もせず、病気にもならず生きながらえることもある。
生きていることの意義って何だろう?
安全な道を選んで生きることなのだろうか?
いや、それとも勝つか負けるか分からない瀬戸際人生で、いつもメラメラ、ガムシャラに活きるべきなのだろうか?
その答えは私には、まだわかりません。 ただ、大きな力がうごめく中で、その力を尊ぶ生き方がいいのだろうと
いう気が漠然と自分を取り巻いて居ます。
何事でも、苦しいから、嫌だから辞めるのは簡単なこと。 でも下手でも、微力でも、社会に影響がなくても
続ける事が大事。 苦しい道のりでも、それにへこたれず、一歩一歩前に進んで行けば、視界が急に開ける
時が来る。 その時に、ふて腐れた、弱虫の自分に、戻らなくて良かったと初めて思えるのでしょう。
生きている意義や尊い力の存在を悟るというのは、たとえば、そんな時なのかもしれない。