部屋の本棚を整理していたら大学生の頃に読んでいた空手の本が出て来た。 34年~39年も前の本なので
色も年代物だとわかる、そんな色をしている。 同志社という京都の大学で学業の傍ら、剛柔流を学んでいた頃
のことだ。 剛柔流の基本稽古や移動、型などは極真の稽古に近い。 私の三戦立ちは剛柔流からのものだ。
剛柔流の転掌の型は大山総裁のものとは比べものにならないほど、こじんまりした型だった。 また当時の組手
では回し蹴りは、あまり使われていなかった。 前蹴りと順突き(追い突き)の連打がベースになっていたので、先輩
との組手に回し蹴りと後ろ廻し蹴りを組み合わせて入れてみたら 「お前、ウルトラマンか?」 と言われるくらい
廻し蹴りは珍しがられたものだ。 背足で蹴る蹴り自体が少なく、廻し蹴りも多くの人は、中足で蹴っていた。
そんな時代に読んでいたのが、この本なのだ。 ただ山崎照朝先生の本は、誰かに貸したまま戻ってきていない。
私はその後、剛柔流から極真に移った。 極真の胸の文字に憧れて、極真会館京都芦原道場の門を叩いた。
そんな頃に黒崎健時先生の「必死の力、必死の心」を読んだ。 戦後の日本の激動を活きた凄さを思い知った。
一人の人間として、凄い。 ただ凄いの一言だった。 そんな凄い先生たちがおられたころ、芦原道場の先輩方
も凄かった。 というか、怖かった。 中山猛夫先輩の左の回し蹴りと下突きは天性のもの。 私が極真会館
芦原道場に入門してから数年して看板が変わった。 芦原会館京都道場になり、その後、石井先輩(k1創設者)
と中山先輩が来られて正道会館を立ち上げると言われた。 どういう経緯かわからなかったけど、練習は同じで
指導者も変わらない訳だから、ということで私は、そのまま京都道場で稽古を続けた。 胸の「極真会」の文字は
いつしか「芦原会館」となり、その後、「正道会」と文字が変わっていた。
という経緯があり、今がある。 ふとしたことで出くわした、かつての本を読んでみると、あっという間に20代の
自分に舞い戻っていた。 剛柔流から始まり、極真会館芦原道場、芦原会館京都、正道会館京都、そして
極真会館城西、極真会館浜井派へ。 企業人として仕事をしながら、よくここまで極真空手を続けてきたものだ。
そして、また思うことは、この黒崎先生のムエタイの敗北なしに今の日本の格闘技はなかっただろうし、やはり大事
なのは「心の強さ」や「必死の心」なのだということだ。 昔、私はこの「必死の力、必死の心」を何度も読み返した。
30数年を経て、再び読み返してみると、自分が武道として捉えている「あるべき姿」は、この本に根差していた
のではなかろうかと思えるほどに、その一文字一文字が、自らの血肉に染み込み、心を打つのである。
その本の冒頭は、こういう言葉で書き表わされている。
「私は自分で思うのだが、意地っ張りで負けることが嫌いである。 自分でそう感じているくらいだから、
人の眼から見れば、大層頑固な人間に映るかもしれない。 その上自分でいうのもおかしいが、
向意気が強いから、確かに敵をつくり易いし、人と衝突することも少なくない。 しかし、その性格は
一方では私を現在の私につくり上げた原動力でもあると私は確信している。 さまざまな格闘技に
取り組みながら、より強く、より高いものを求めて来た私の半生には、意地っ張りで、負けず嫌いで
頑固で向意気が強くなければ乗り切れなかったことが山ほどあった。 人がどのように思ったとしても
武道家黒崎健時は、その性格によってはぐくまれて来たのだと思っているのだ。」ーーー黒崎健時