突然、訳も聞かされず連行され、免許証、家族の写真、化粧品、愛用の服を取り上げられ髪を刈り上げ
られて、同じような扱いを受けている多くの群衆の中に投じられた女性がいた。
見知らぬ人々と共にすし詰めにされ、ろくな食事も与えられず、毎日長時間労働を課せられ、寝具は
毛布が1枚。風呂はなく数カ月に一度のシャワーだけ。 ノミやシラミの中に生きて髪をとかすことも歯を
磨く事も出来ない。 そして異臭の中で生きる。 トイレは個室はなく劣悪な悪臭で息も出来ない。
気まぐれに殴られ、殺されていく様を見ながら生きていた。 そして何年もの間、窓の内から見える
マロニエの木を眺める事だけが生きがいになっていた。
死の床にあった女性は 「運命に感謝してます。以前、何不自由なく暮らしていた時、私は甘やかされ
生きてきた。 そして今、私は一人ぼっち。 あの木が一人ぼっちの私のたった一人のお友達。 そして
あの木はこう言うの。 『私はここにいるよ。 私は命だって。』」 女性は間もなくドイツの収容所で亡くなった。
銀座のマロニエは通りの名前になっている。 その辺りの銀座界隈のクラブでホステスのバイトをしていた
女子大生が内定を取り消されたとして裁判を起こした。 清廉性を求める局のトップは銀座に通う常連だ。
時が流れると噂は消えて、夏目三久も出戻ってキャスターをこなすようになる。
今日も銀座マロニエ通りには人が絶えない。 弁護士と被告人と原告たちが忙しくひしめきあって、行き交う。
突然、訳も聞かされず連行され、免許証、家族の写真、愛用の品を取り上げられ、マロニエの木を独り
眺めることになるのは一体、誰なのだろうか?
いずれにしても秋の夜の夢は儚いものであることだけは間違いなさそうだ。