70年前の今日、長崎で多くの大人と多くの子供達が一瞬にして亡くなった。
そして3年前の今日、義母がいさぎよい人生に幕を下ろした。
これからも8月9日を忘れる事はない。
[明治生まれのある女性の話]
結婚し6人の子供を産みました。所帯を持った夫は働き者で、お金を貯めて商売を始めました。商売を始めた当初は資金繰りもうまくいかず、月々の支払いが滞ることもありました。そんな時は、夫に内緒で質屋通いをし嫁入の時に持ってきた着物を預けて家計の足しにすることもありました。こうして商売を手伝い、子供達を育てているうちに商売の方もだんだんと軌道に乗って行きました。もう質屋通いはしなくてもよくなったのです。やがて戦争が始まり、出征した跡取り息子は戦死しました。戦後の混乱期、街に戦争孤児が溢れるようになると、たまらずに、食べ物を与えたり、着る物を与えたりしました。家に呼んでお風呂に入れたり、引き取り手を探して奔走もしました。その後、商売は大きく発展し、子供達もそれぞれ結婚し家族を持ち、孫たちに囲まれるようになりました。面倒見の良さは相変わらずです、夜、勝手口から訪ねてくる主婦たちに、いくばくかのお金を包んで渡し「子供に食べさせて」と手近にあった果物も一緒に持たせるなどということもしていました。昭和が終わる頃、3日ほど寝込んで、そのまま亡くなった。通夜には名前も知らない主婦たちが入れ替わり立ち代り訪れ、目に涙して焼香をして帰っていった。葬儀も終わり、形見分けをしようと箪笥を開けると、見事なくらい空で普段着が数着、それしかなかったという。
いさぎよい人とは、こんな方なのだろう。
物に執着しない人、また自らの運命を受け容れる人。
「しつけ」とはこんな所から始まるのではないだろうか。
先日、電車に乗っていたら、網棚に誰かが読み終わった雑誌が無造作に置かれていた。
いや置かれていたというよりむしろ、読み捨てていたと言った方がいいかもしれない。
網棚をゴミ箱として、読んだらそこに捨てていたのだろう。
観てると、また別の人が読んで、そのまま網棚に捨てている。
自分で読みたいものは自分で買って読む。
読み終わったらゴミ箱に捨てる。
そんなことを教えない親が増えたということなのか?
お金に苦労していても読みたい情報は自分でお金を出して買わないと
その情報は身に付かない。
「しつけ」とは人が生きて行く為の形や、感覚を身体に染み込ませること。
この夏休み、小さな「しつけの芽」が子供達の心に宿ることを願ってやまない。