運慶
いつ、誰の子供として生まれてこようと自ら望んで、この世に生まれて来た訳ではない。 そう思う記憶が残っていた時には母と父を選んで居たのかもしれないが。 生まれて来た今となってはそれがどうだったのかは分からない。 だから今は、こう思っている。 人には自分の意志で決められないものがあって、それを受け入れるしかないと。 自分の運命や宿命とはそんなものなのだろう。 自分で代えることが出来ないものと言った方がいい。 もし、それに逆らって生きようとする欲求が沸々と湧いて来たとしたら、それはその人の宿命だ。 ここに居ること自体。 その出会い自体。 不自由に運命付けられているものだとしか思えない。 地球に存在する生物の一つとしてあらがう事の出来ないもの。 それが運命だ。 人は努力する人としない人に分けられる。 そんな素質があるようだ。 おどける人、気まぐれな人、努力の人。 人の素質は様々だ。 今、思う。 だから努力とは、それもその人に備わっていた素質の一つだと。 努力が生まれ持って苦手な人が居る。 そういう人には、それを補う何かがある。 先天的にじっとしていられない人も少なくない。 それをADHAだと人はいう。 それも生まれ持った素質なのだ。 宿命にあらがってはならない。 だから努力できる人。 じっとして居られる人もそういう具合に表さねばならない。 それ自体がその人の素質なのだから。 私は、そんな、そのちっぽけな素質を見出そうとしている。 子供一人一人に見え隠れする素質に刺激を加えて活性化しようと思って診ている。 それが私の役割だと心得ている。 それが私の宿命なのではないかとも思って居る。 勉強が好きな子供は、生まれついたものが多い。 背の高さや、体型がその人の生まれ持ったものなのと変わりはしない。 生まれついたもの。 それは自分で選んだものではない。 死ぬほどじっとしていられない子供に動くな、じっとしていろと言っても出来ないものだ。 足が長い子供に、もっと短くしなさいなどと言ってもどうしようもない。 それらはそういうものを生まれ持った運命なのだ。 受験勉強で勝率がいい人は、そういう勝てる受験校を感覚で分かる能力があったのだ。 2浪、3浪を繰り返す人は夢と現実の差を分析出来ない能力の持ち主なのだ。 子供の一瞬の動作を見逃してはなるまい。 子供達一人一人の素質や運命、宿命を見抜く。 そして、そこに隠れている能力を開花させてあげねば。 研ぎ澄まさねばならない。 子供を観る目を。 一瞬を見逃してはなるまい。 そう思いながら子供達の将来を看ている。 今は小さなつぼみでも、それがどのように花開くのか見えて来る。 その子にはその子なりの道がある。 その道を開くため。 どんな一歩を気づかせてあげようか。 まぎれ散らばる運命を気づかせてあげようか。 心を定めて歩んでいけ。 懸命に生きるそのころに我の思いが分かればいい。 それがたとえ遠く曲がりくねった道に思えても。 休まず歩む姿があれば道は開ける。 その向こうにきっと深く湧き上がってくる喜びが待っている。 今は私は平成の世にノミと金槌を持って薪の中の仁王を探している。 運慶は、この子らのどこかに潜んでいる。 護国寺の山門で仁王を刻んでいた運慶が今ここにいると信じて 私は子供らの心の中を視ている。
君の価値
日々悩みながら、先の見えない道をギリギリの判断と勇気を腹に据えて生きてきた人がいる。 取るに足らない出来事に励まされ、些細な事に思い悩んで生きてきた人もいる。 心が定まるまでに他の人より時間を要したと思い悩んでいる人は少なくない。 今日の大袈裟な悩み事も明日になってしまえば大した事ではなくなるのに。 ガラスのような繊細な心の人も 大木のような図太い心の人も へりくだる人も 柔和に生きる人も 傲慢なプライドのかたまりの人も 平凡な人も 失敗のど真ん中にいる人も 偏見と妬みのぬかるみに生きる人も その多くはピラミッドの真ん中から下に生きて上を向いて羨んでいる。 今日という一日は、気の遠くなるような奇跡の積み重ね。 一人一人に平等に起こる偶然が運命を揺り動かして今日という一日を創りあげている。 転んだら幾たびも立ち上がればいい。 地べたを這って歯を食いしばれ。 仔羊がライオンのように逞しくなるまで。 君は咲いてるだけで人のためになっている。 君は腐っているだけで世のためになっている。 苦難のどん底であえぐ君には価値がある。 生きてるならそれだけで価値がある。 信頼していた旧知の友の裏切りに出くわしたとしても。 それでも今日という日は価値はあったのだ。 明日にはこの日に繋がるまったく新しい一日が訪れるのだから。
13日の金曜日
今の日本、電車の中はスマホに見入る人ばかり。 「馬鹿モン、ほんを読め〜」と叫びたい。 一昨日、東京本部道場を出て、10人で、いつものホルモン焼き屋さんに向かった。 相変わらず浜井代表は元気だった。 先日の横浜の昇段審査の10人組手の映像も見て頂いた。 浜井代表が嬉しそうに画面を見ていたことが私も嬉しい。 美香先生も途中から合流された。 1月から東京本部道場の本部長として指導に当たられるので、一昨日の晩はその前祝いになった。 東京本部のメンバーは坊主に迷彩服が似合う人が多い。 それから、心がみんな綺麗だ。 確かに昔はヤンチャをした人達。 でも今はいいオヤジとお兄さんだ。 汗をかいて、笑って、脳を活性化させられれば食うには困らない気がする。 よもや、スマホに明け暮れていては、馬鹿をみること間違いなし。 それを子供達に言って聞かせねば。 頭の回転が速い。機転が利く。 生きるにはこれが大事なんじゃなかろうか。 学校の成績だけが問題になる時代ではない。 世渡りというか、頭の回転というか、反応力というものなのかもしれない。 人の頭はセンサーの塊だ。だから感のいい人はそのセンサーがいい。 人間や場の空気を知らず知らずに判別出来ている脳がある。 それを活かすことが食うに困らない生き方なのだろう。 今日の浜井代表の素早いしゃべりを聞いていて、改めてそう思った。 よもや、子供をいい大学に入れることが目的だと思ってはなるまい。 もうそんな時代はとっくに終わっている。 そう、別の次元に入っているのだ。 事業家で空手家の集まりは浜井派特色だ。 こんな夜を過ごせてつくづく私は幸せ者だと思う。 今度、いつ逢えるだろう。 残り時間はあまり無い。 だから今を大事に生きたい。 昨日、フランスで120人以上の人が犠牲になる痛ましい惨事が起こったというニュースを観た。 それは現地時間で11月13日金曜、パリの劇場「バタクラン」が夜9時半をむかえた頃らしい。 起こる事が分かっていたならば、その時間、その場所にいないように出来たものを。 人生というものは、自分でこうしようと思ってやってみたところで、都合のいいように 人生の歯車がまわり出す訳ではない。 半分は自分の努力であって、残り半分はどう考えても運命というものが左右してるように思える。 プラスのものも、マイナスのものも、そのすべてが宇宙の法則のような運命という大きなもの の中にあり、自分の行先など自らが予期出来ない新たな世界へいざなわれるように思えてならない。 日本は平和だ。 そしてこの一年も、そろそろ暮れようとしている。 いろんな不安があって、いろんな苦労が訪れ、泣いて笑った一年が間もなく終わる。 世の中には、それを捕まえれば幸せになれるという青い鳥など居やしないのだ。 夢を追って苦労をいとわず探し求めた青い鳥は、籠から出して 手に取ろうとした瞬間に飛んで逃げてしまう。 ならば運命が自分を育ててくれていると思い、人生の除夜の鐘がなるまで 刻一刻の勇気を奮い立たせて生きて行くしかないのではなかろうか。 たとえ「バタクラン」のチケットが13日金曜の夜であったとしても。
心が引き付けてくれる
11月6日金曜の夜は千葉鎌取道場への出稽古。 田中師範と浜井代表が懇意にされておられることから今日の出稽古が実現した。 田中師範は元県立高校の社会科の先生。 浜井代表も一橋大学を出て、ある意味教育には強い関心があり、ご自身でもそれを実践 されてこられている。 私は、こういう文武両道の道が大切だと思っている。 その田中師範とは今日が初めてではなく 先日の世界大会の1日目に偶然、一階の来賓席でお見掛けしご挨拶はさせて頂いた。 今日の稽古は世界大会に出ておられた山本雅樹先生はじめ、次世代を担う若手も集まっていて 気持ちよく汗を流すことが出来た。 いつも誰かの悪口を言っている人は、いつも自分の嫌いな人のことで頭の中がいっぱいだ。 そして、そんなことばかり考えている人の周りには、やはり、嫌いな人ばかりがやってくるようになる。 それが続くと、周りが好きでもない人で埋め尽くされ、更に悪口を重ねるようになってしまう。 その人は、その後も、好きでもない人たちに囲まれ、悪口に長けた人生を謳歌し あっけなく人生を終えることになる。 それも人生だ。 そんな人生もあっていい。 しかし、どうせなら人のことをとやかく言わず、悪口を言わない人生を送ってみたいものだ。 そういうことを、続けてみると不思議なことに、いつの間にか、自分の周りに集まっていた そういう人物たちが一人減り、二人減りと、次第に人のうわさ話を好む人が居なくなってくる。 すべては自分の心の持ち様だ。 嫌なことを思う代わりに自分が楽しいことばかり考えていれば どういう訳か、そんな楽しいことを語り合う人達が集まってくる。 ただ自分の心を変えるだけでそうなる。 人生とはおかしなものだ。 つまり、心の中に充満している事柄をすっかり取り換えるだけで、人と人との繋がりも 入れ替わるということなのだ。 私は浜井代表とのご縁を頂き、埼玉のK先生も知り合いになれた。 美香先生、根本先生、山本雅樹先生、そして今日のご縁は鎌取に行き着かせてくれた。 多くを語らずとも顔を見て居れば相手の心も分かる。 今日の若い選手たちも顔を見て、少しの会話だけで相手の雰囲気が伝わって来た。 心が澄んでいると感じた。 さあ、明日はどんなご縁があるだろう。 この先のことは分からないが、ただ私はワクワクしている。 それでいい。 準備完了だ。 すべてを創るのは他でもない自分の心なのだから。
山のあなたになお遠く
前の夜にはどんなことを思うだろう? 突然、泣き出す人もいるだろう。 逃げ出そうとする人もいるだろう。 何もしゃべらず一人静かに過ごす人もいるかもしれない。 死ぬのが怖い? 当たり前ではないか。 70年前の日本に、確かに御馳走をお腹いっぱい食べてお酒を飲み明かした若者がいた。 彼らは神風特攻隊と呼ばれていた。 「天皇陛下万歳」と言っただろうか? 言ったかもしれない。 でもやっぱり「お母さん」と叫んだに違いない。 そして自分が好きだった人の名前を呼んだはずだ。 そんな夜を迎えて、その若者たちは眠りにつくことができたのだろうか? 翌朝、勇敢に手を振って飛行機に乗り込む。 現実に目を背けず突撃しなければならない。 幸せとは何だろう。 70年経った今、人は幸せになったのだろうか? 小さな子どもが母親に聞いていた。 「幸せってどこにあるの?」 「ずっと遠くの山の向こうよ」 「友だちと行ったよ。でもなんにもなかった」 「あんな高い山まで登れたの?すごいわね」 「だって、“幸せ”があるって言ったから」 「あの山のもっと向こうにあるのね。あなたがもっと大きくなったらきっと見つかるわ」 山のあなたの空遠く 幸い住むと人のいふ。 ああ、われひとと尋とめゆきて、 涙さしぐみ、かへりきぬ。 山のあなたになほ遠く 幸い住むと人のいふ。