頃合い
すべての物には旬がある。 生まれる時があって、死ぬ時がある。 出合う時があって、別れる時がある。 物には寿命があるように、時にも寿命がある。 黙っている時があって、語る時がある。 もう少し早く出会っていたら結婚していたのにと思う相手が居ても それは叶わぬこと。 イチゴには食べ時があって青いイチゴは苦くて食べられない。 健康がにわかに消えうせ、ベッドに横たわる。 もう終わったかとあきらめて、天井を眺めていると 回復した身体が戻って来る。 もうだめだと天を仰いだ時から、時計の針は廻りだすものだ。 人生、こんなものなのだろう。 それぞれの旬を見抜く力がいるだろうし。 それぞれの頃合いを感じる五感もいる。 出会いは戻らない。 一瞬のもの忘れから、躊躇する時間が生まれ その一瞬のずれで新たな出会いに巡り合う。 出合うべくして出会った必然がそこにある。 その一瞬は計って創られている。 朝、出かけぎわに、靴の紐が切れる。 焦っていてもバスは待ってくれずに遅刻する。 そうなるように計られている。 それに気づくのは1カ月後か、半年か1年後。 長い目で振り返れば、それがよく分かる。 そうなるようにしてなった今を視ると 良くも悪くもない人生などないということが分かる。 良くも悪くも満載なのが人生だ。 猪瀬氏と同じように舛添都知事にも、そろそろ頃合いが来たようだ。 そんな頃合いを駆使する週刊文春にも、頃合いが見えた気がする。 人生、良くもあれば悪くもあるものだ。 週末に出会う子供達には、そのことを伝えておかねばなるまい。
風の電話
12月31日の木曜。 明日から来年で、今日が去年になった夜。 今年は穏やかな年であって欲しいとぼんやりと思って眠りについた。 ふと気が付くと、あれからもう4カ月と21日が過ぎていた。 今日、3月に間違って録画したNHKの番組を観てみた。 「風の電話」。 そこには津波の被害を受けた大槌町に残された人の声があった。 亡くなられた方が今もそこにいるような感じがした。 今年、阿蘇の山と阿蘇の神社がこんなになるとは思いもしなかった。 風の電話。 また話したかろう。 大槌町も熊本の街も、阿蘇の山も。 思い悩んでいる人もいる。 今日、答えを出さなくてもいい。 それを先延ばしにするってことも知恵なんだから。 ある朝、突然ものの見方が変わってしまうことだってある。 静かな夜は雨模様だった。 残された人たちの声が忘れられない。
熊本
空手クラブの子供たちに聞いてみた。 「君たちは何才まで生きるの?」 「、、、、、」 誰もピンときていない様子だ。 それはそうだろう。 今までそんな質問はされなかっただろうし 考えてもいなかったに違いない。 男性だと80歳、女性だと86歳。 これが今の日本の平均寿命だ。 男性の場合、80年のうちに余暇に25年、睡眠に24年、食事に10年も当てることになる。 しかし長い人生で仕事に当てる時間は延べで9年。学校で勉強するのは延べ5年ほどだ。 朝9時から夕方18時迄を22歳から60歳まで働いたとしても、延べで9年間たらずなのだ。 お風呂には延べで約3年、トイレにが延べ1.5年は入っている。 人間にはその人固有の砂時計が体内にあって、砂の量も固有だ。 元気な人でも砂が尽きるまでの命と決まっている。 産まれ落ちた時に授かった砂時計を恨んでみてもしようがない。 砂は着実に時を計り、最後の一粒が落ちる迄時を刻んでいる。 そして砂が尽きたら土に還るだけのこと。 ただ、呆気ない別れには言葉もない。 この4日ほどの熊本の尊い命には言葉が見つからない。 しかしいつまでもうつむいているのはよそう。 今、この砂の一粒一粒を大切に生きねば。 頑張って人の為に生きても一粒。 ぐうたら自分の為に生きても一粒。 同じ一粒か、ならば人の為に生きてみようか? 何の為の80年だったのかと悔やむ前に 動けなくなってベッドの上で横たわる前に 人の為に、人の笑顔の為に生きてみようか?
子離れ
新学期は春の桜の季節にピッタリだ。 海外では9月を新学期と定めている国が多いけど日本はこのままでいい。 桜が咲く4月は大地の底からほとばしる力を漲らせる若葉の季節なのだ。 希望に胸膨らませ、不安と期待が入り混じった新入生と新入社員が 幼稚園、学校、そして企業にも活気を与えている。 保育園のバスに乗れるだろうか? 一日中泣いてやしないだろうか? 友達は出来るのかなあ? 今頃何をしてるのかなあ? 不安と希望は何も子供達だけのものではない。 そうやって親は子離れをしなければ。 良かれと思っていても決して子供の為になっていないことが意外と多い。 親と子供には適度の距離感があった方がいいのだろう。 野生のエルザの心配事は、どの家庭にもあって、どの親も経験する事だ。 今、我が家は夫婦2人だけの生活に戻ってしまった。 あっという間だった。 長男が産まれたのがついこの前のようにも感じられる。 2人の子供は大学を卒業し仕事場の近くに住むようになった。 ガラ〜ンとしたリビングで子供達の幼稚園のことや小学校のこと 受験の泣き笑いを懐かしんでいる。 懐かしいし、淋しい。 けど、これでいい。 まとわりついていた子供達。。 いつしか大きく成長していた子供達。。 いつまでも物思いに耽ってないで さあ、子離れをしなければ。
47名の嘘
土をこねて器を創り上げている。 人を創るとは、そんな事ではないだろうか。 小さい頃から自由にさせて、やりたい事をさせるだけでは難しい。 良い芽を更に伸ばす為に、その子の良い面を引き出してあげたいと いう先生は多いだろう。 何事も本人に気付かせるのだという。 確かにそういう習い事もあるかもしれない。 しかし私はこうも思う。 まだ土のうちならば器の大きさは変えられる。しかし焼き上がった器の 大きさを変えることは出来ない。のだと。 大事な事は無理にその大きさ以上のことを期待したり、押し込んでしまわない ことであって、無理やり物を押し込むと枡や器は割れるほかはない。 人間は強いものではなく弱いもので、嘘もつけば裏表もある。 考えている事と行っている事が違うのが人間ではないだろうか。 私は裏も表もありませんなどという人には嘘があるように思えてならない。 但し、ついていい嘘とそうではないものがある。 先日、防衛大学419名の卒業式の帽子投げの映像を観た。 「防衛大学任官拒否47名」とあった。 腑に落ちない。 防衛大学生は自衛官の幹部候補生を養う為の大学だ。 だから講義や訓練を受けながらも特別に国家公務員という立場にあって 学生なのに毎月109,400円の給与が出て年に2回の賞与も出る。 それを4年間やり過ごしたあとに任官拒否するとは如何なものだろう。 人間は、損得勘定で嘘をつくもにではない。 食うに困って野垂れ死にしそうな時に道端に1万円が落ちているのを見つけても 多くの人は警察には届けないだろう。 その嘘と、任官拒否した47名の嘘とは何かが違う。
微生物
いつも思っている。 人間は微生物に過ぎない。 今話題の素粒子の大きさは、10のマイナス35乗。 それが作り上げる原子核の大きさは、10のマイナス15乗。 原子1個の大きさは、10のマイナス10乗。 東京タワーの高さは、3 x 10の2乗。 富士山の高さは、3 x 10の3乗。 地球の直径は、10の7乗。 地球が太陽の周りを回る公転の大きさは、10の11乗。 地球がある太陽系は天の川銀河の片隅にある小さな星の集まり。 天の川銀河は地球の公転軌道の10億倍の、10の20乗。 その天の川銀河は他の銀河系と銀河団を作っている。 その銀河団の大きさは、天の川銀河の1000倍で、10の23乗。 人間は、そんな宇宙の点のような地球に生きる微生物。 地球は時速1666kmで自転し、時速10万kmで公転している。 ジェット機の速さは、たかだか800km〜900km。 人間は生まれてこの方、こんな超高速の地球の上で暮らしている。 46億年も前から地球は、その運動を変えてない。 そして、その運動はまだ続く。 だから思う。 この運動に沿う生き方でなければならないと。 それを探ったのが紀元前1000年前からある中国の十二支だ。 今年は申年。 いや違った。 普通のさる年じゃなくて、今年はひのえさるだった。 ひのえさるは、変革の年。形がハッキリする年で地が固まる年だった。 今年の芸能界を診てるとなるほど、隠れていた物が顕になり正しい形に整っている。 その運動はまだ続く。 地球に生きる微生物にも、着実にその力は及んでいる。 私はそんな微生物でしかない。