いずれスパーリングを出来なくなる時が来るだろう。 それは自然なことだからと受け入れることにしている。
怪我や病気で思うように動けなくなっている先生方もいる。 いつまでも元気でいられる保証はどこにもない。
それまではスパーリングを続けようと思う。 極真では掴みは禁止。 しかし私が剛柔流から極真に移った時に
習ったのが極真会館芦原道場京都支部。 芦原英幸先生から引っ掛け、掴み、横をとることを教わり、中山猛夫
先輩からは「スパーリングの実践性」と、ある意味「スパーリングの恐怖」を教わった。
極真では掴んで横を取って膝から肘打ちに繋げる技はない。 けれど芦原先生は、試合で使えない禁止技
を寧ろ教えてくれた。 昔の極真では掴んでも良かったのだけれど、いつごろからか試合が綺麗でないとの話
から掴みが禁止になってしまった。 試合ルールは必要。 これはしようがない。 でも道場では掴み、引っ掛け
からの倒し、マウントからの攻撃も稽古していこうと考えている。
(但し、少年部は安全第一として極真ルールだけとして掴み、引っ掛けはなし)。
芦原先生はよく相撲を観ておられた。 あの巨体のぶつかり合いで、土俵の円の中でうまく相手の動きを
かわしていく動きを観ていた。 横にかわす。 横を取る。 こういう単純なことが実は大事なのかもしれない。
浜井代表からは脛ブロックの仕方、肘ブロックの仕方、そして強い相手に対する時ほど前に出る重要性を
教わった。 これらすべてが自分の血や肉になっている。 それは基本稽古、移動稽古の時に言葉で説明
しているけれども、実際にはスパーリングでの無言の伝授が一番大事だと思っている。
首を抑えられたときにどうするかなど、流れの中で、その体験をしてみるのが一番わかりやすい。
どれほど体力を使うものなのかもわかる。 意外と首相撲をされるだけで息が上がってしまうからだ。
これはやられないとわからない。 どれほど体力が消耗し、そのあとどれほど動けない状況に陥るのか
などは通信教育の説明書きなどでは全くわからないものだ。 だからこれが稽古だと思っている。
今日で56歳になった。 まだ納得出来ていない。 まだ身体を鍛え切れていない。 動作に無駄がある。
まだまだ、やるべきことがあるように思えてならない。 私はこの単純な「まだまだ」、「まだまだ」という
気持ちで活きている。 そしていくつになっても初めての挑戦から逃げてはならないとも思っている。
先も見えない道を走る勇気も必要だ。 大きな穴ぼこが空いてるかもしれない、この先の道を、それでも
道が必ずつながっていると信じ、前を向いて走っていく人間でなければならないと思っている。
不器用なほどに何かをやり続けると、そこに何かが見えてくる。
生きる事とは、そんなことの繰り返しではないだろうか。