僅か19歳で火あぶりにされて殺された女性がフランスにいた。 今から600年も前の話しだ。
今の日本にはジャンヌダルクの様な人の居場所はない。
それどころか、ジャンヌダルクになろうする者すら、いるのかどうかもわからない。
その名前を使うのは、もはやゲームやロックバンドだけになってしまった。
それがいいのか悪いのかは分からない。
2年前の10月に頭と首を撃たれても生きていた15歳の女子学生がパキスタンにはいる。
銃弾は頭を貫通し、肩の背中側、首のそばに留まっていた。
「仮に私が命を失ったとしても、教育を受ける権利の尊さに比べたら、たいしたことではない」
「銃弾では、私の行動は止められない」 ――― 2か月半の入院中に彼女はそんな言葉を残した。
彼女の名前はマララ。 今、17歳。
香港にも民主化を求めて立ち上がった17歳の女子大生がいる。 彼女の名前はアグネス。
勇気と信念を持ったその瞳と心を揺り動かす言葉が人を駆り立てるのだろう。
世界は混迷の中にあって、民衆が蠢いている。 そして若者たちの奮起を待ち望んでいる。
多くはジャンヌダルクを待ち望んでいる。 世界はそれほど歪で、不公平に出来上がっているのだ。
日本は民主的で平和だ。 いくつかの不満はあれど、日本は暮らし易い国だ。 日本から一歩出てみると
それがよく分かる。 今の日本にジャンヌダルクが出て来ないのは、きっとそんな訳なのだろう。
江戸の265年の間に、15人の天皇と15人の将軍が日本を見守っていた。
この平和の礎を築かれたのは、きっとその方々なのではないだろうか。
その後78年間は混迷と暗黒の中を模索し、今また70年ほどの平和を過ごしている。
「こんなことが出来たらきっと楽しいだろうな」、 「自分もやってみたいな」
そんな思いにふと心が惹かれることがある。 そして「いつか機会があればやろう」と、やり過ごしてしまう。
そして何も変わらない毎日が時を刻む。 平和な、そして安穏な空気の中で「億劫」と「躊躇」に挟まれながら
生きて行くことになる。 やりたいことが見いだせないままの人生はこうして続いてしまうのだ。
「やっておけば良かった」という気持ちで後で悔やむことをしないために、一歩前に出て活きる。
新しい世界に興味を抱いて活きて行く。 そうすることで日々の生活に彩りも生まれてくるのだと思う。
あまりに平和な人生を平凡にやり過ごしてしまわないために習慣を変えることは必要なのだ。
自分の人生がいずれ終わると分かって居たら、もっと1日1日を大事に過ごすのではないだろうか。
一度しかない人生なのだから、躊躇などしていられる訳はない。
600年前、ジャンヌダルクは、そう思ったに違いない。