子供のころよく思っていた。 何で白人は背が高いんだろう、何で金髪なんだろう。って。
身体は正直で、キリンの子供はキリンに仕上がるし、ライオンの子供は百獣の王になって行く。
決してキリンからライオンは生まれることはない。 ましてや魚の成魚が動物を産むこともない。
そして、親からもらった身体を創っている細胞は50万年前のネアンデルタール人から続いているものだ。
その命の継続は一度も途切れることなく、自分の代まで続いてきたことになる。
ということは、私がそうなら、今、地球上に生きている72億人は、皆、50万年前の旧人から細胞を受け
継いで来たという事ではないか。 今、生きている人達は、そういう意味ではDNAの精巧な伝承者なのだ。
しかし、そんな精巧な神の造形物であるにも関わらず、日本では厄年には厄払いに行った方がいいという。
どんなご利益があるのか分からないけれど、日本では、多くの人はそのしきたりの中に生きている。
砂漠に出くわしてしまったのなら、それに適した歩き方をした方がいいということなのだろうか。
下りのエスカレーターに差し掛かったのだから、気張って、用心して登りきるんだよと諭してくれているのだろうか。
しかし人生というもの、5年、10年、20年のスパンで見てみると良くも悪くも歴然とした事実を観ることが出来る。
芸能人や政治家の浮き沈みをみると、それは明らかだ。
でもそこに厄除けの恩恵があったかどうかは皆目分からない。
1日に20万人、1年で7000万人の人が増え、2050年の地球の人口は91億人になるという。
6000万年後、日本列島がオーストラリアに吸収され、ユーラシア大陸とぶつかるらしい。
そして、50億年後の地球は太陽に飲み込まれるという分析までは出来ているようだ。
人間は立派なもので、そんな先のことまで予測できるようになったのだ。
でも、肝心かなめの自分の人生の予測はつかない。
それどころか、子や孫の人生を素晴らしく創り上げる育成方法などは、今だに確立されてない。
なので高々お守りを買ってあげるくらいが関の山というところだ。 しかし、そのお守りにどれほどの効き目が
あるのか分かったものではない。 ただ心の慰めになり、心が落ち着き、平生を保つことくらいなのだろう。
それはそれでいいのかもしれない。
人間は感情の動物なので、それを利用し緊張を緩和するすべとしての価値は大いにある。
しかし、「お守りを持っていれば神様が守って下さる」 ということはなさそうだ。
もし神様が居るとするなら1月17日の5時46分は誰の仕業だったのだろう?
これを、ただ運命や宿命という言葉で片づけられていいものだろうか?
今、私は思う。
世界中では毎日こういうことが起こっている。
それを知るたびに心にガラスが刺さるようだ。
でも悲劇とはそのことだけを言うのではない。
もし自分の愛する人たちが皆、自分より先に逝ってしまい、多くの旅立ちを見送る運命が待っているとしたら、
そして、いったい、どれほどの日々を過ごせば、その愛する人たちのもとに逝けるのだろうと思い煩う日々が
待ち受けているとしたら、またそれが自分に科せられた神様の罰であるとするならば、それほど酷なことはない。
なごやかな空の下、草を分けて息づく微かな風に耳を澄ましていると、この静かな大地に眠る人々と、その人を
思い焦がれる人たちの夢が安らかならんことを願わずにはいられない。
こうして1月17日を迎えるのは今年で20回目になった。