生きて行く事は容易ではないとつくづく思う。
2月19日の毎日新聞にこんな記事を見かけた。
「相模原市の団地の一室で妻47歳が首をつり、中学3年の長男が倒れているのを
帰宅した48歳の男性会社員が発見した。長男はインフルエンザで体調を崩したまま
高校受験をして、うまく行かなかったと落ち込んでいた。などと話していると言う。」
今年、受験を迎えたご家庭では他人事ではありません。
まさに紙一重の人生がいつも待ち構えている。
この長男が生まれた時「この子は15歳でこの世を去りますよ」と占い師に言われていたら
どんな事をしてでも、そして我が身を投げうってでも、その子を助けて長寿を全うさせて
いたことでしょう。
いざ15歳というその年を迎え、体調を崩し受験を失敗したその日を迎えたとしても
「それがどうしたのさ。」
「受験なんてさ、そんなの気にしなくていいよ。」
「受験は時の運だからさ。どうでもいいじゃないか」
親がそういうと子供はそういうものかと思うようになる。
「あなた、仕事よりも子供の命よ。守ってね。」
と妻がご主人に言っていれば、その子は全く違う人生を送ることになっていたろう。
死という大きな壁を越えるための万策は夫婦二人に委ねられている。
しかし現実の人生とは日々の生活の中にあって、狭い視野の中にある。
だから、稀に不幸な結末が顔を出してしまう。
夜の星の囁きも聞こえず、空の蒼さも忘れて絶望の渦に吸い込まれて生きる人がいる。
そんな重箱の隅を生きる人には暗闇の出口は見えて来ないのだろう。
しかし子供が迷い、出口が見えない時には親の支えが効いてくる。
よもや親が一緒に迷った挙句に子供を道ずれにするなど親の身勝手も甚だしい。
もし自分の人生がわずか15年で消えてしまうと分かっていたら
それは、それは、つまらないものだろう。
だから私はこう思う。
そもそも、私は未来永劫に私という人間を準備するためにこの世に来たのであって
私の震えも、叫びも、喜びも、哀しみも、全ては魂の浄化に欠かせない経験と心得る。
そしていずれ迎える自由な魂を作り得たら、この世を潔く去ってもっと清い人生を
送ろうと思っている。
だから15年では物足らず50年でもやり足りない。
腐った時には大の字になって雨粒を全身で受けてみるがいい。
泥んこになって生きてみるがいい。
地面を這いつくばって生きてみるがいい。
汗ばんだボロきれのような服を着て生きるがいい。
いつしか、まばゆい太陽のような君がそこに居て
暁の空を見上げて三日月と交信する君がそこに居る。
呆気なくこの世を去ってしまった中学3年の彼はいったいどんな思いで
三日月を見上げていた事だろう。
この世に生まれ落ちた子らが迷わず永遠の魂を築く為に
彷徨う心の持ち主に探し求める道筋を描いてあげる為に
今、私はまさにここに生きている。