家あれども帰り得ず
涙あれども語り得ず
法あれども正しきを得ず
冤あれども誰にか訴えん
68年前、40歳の女性が言われなき疑いを掛けられ孤独な死を迎えた。
果たして、この世の中の事柄が正しい判断などで成り立っているのだろうか?
果たして、自分に関わっている人々から自分は正しく理解されているだろうか?
それは誰も分からない。
人は神様ではないから。
間違いも当然ある。
ただ誤解されたとしても、それは堂々と生きねばなるまい。
人の評価を気にして、人にいいところを見せようとして生きている人は
どことなくぎこちない。
自分が気にいられようが嫌われようが自分は自分なのだ。
この嘘つきめがと神様に言われるまでは、正々堂々と生きて行きたい。
冤罪のない世界はない。
人である以上、それは付き物だ。
それにもまして生まれながらに持っている原罪もある。
自分は何も悪くはないのに、その存在自体が不愉快だと言われる類のもの。
人は人を傷つけ、逆に傷つけられるもの。
だから、それに打ち勝つ強い精神を育むだけで片ずけられる。
逆境の後の快復は痛快だろう。
人目を気にせず
井戸の底にロープを投げ込むことはなお痛快だ。