11月 2012

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空手の先生方とお話をさせて頂くと、その道場ごとの特色があって、非常に参考になるのと自分自身が気にしてないこと にも細かく指摘されておられる先生方もいらっしゃって反省しきりです。 ある道場では見学すら認めてなかったり、見学者 態度にも注意をされたりしてるようです。 ですから挨拶などは非常に徹底されてる訳です。 私は、そこまで気が廻らな かったことを反省しています。 厳しすぎるのは意に反することですが、礼儀・挨拶は最低限教えて行かねばならないことで あったと思います。基本稽古の徹底ぶりも同じこと。 私は効かせる技を伝えていきたいという思いが先行していたために、 初歩的な挨拶、礼儀、しきたりにも目を向けて武道をお伝えしなければとあらためて思い直しているところです。 やれば出来る子供達なので、出来てないのは私が指導してこなかったためであると思っています。金的カバーの ファールカップの付け方については、私は道着の上から付けても問題ないものと思ってましたが道着の下に付ける べきだと言われる先生もおられるくらいです。女性がチェストガード(胸を守るもの)を付ける場合にTシャツの下に 付けるのと同じだという考えです。 確かに言われれば、その通り。でも移動稽古を終えてから道着の下を脱いで ファールカップを付けるようなことはことはする必要性がないと私は思っています。 一旦、自由にしてきた雰囲気でスタートして来た為に、急な方向転換は出来ないにしても、私自身が気を付けて 武道のルールをもう一度皆さんにお伝えして行かねばならないと考えた次第です。  子供達を見ていると 最初は出来なくても、続けて伝えて行くと出来るようになっています。 特に柔軟性において 顕著に表れて来ました。 今年の夏までは開脚して胸が床に着く子は数人。しかし、今は出来ない子の方が少ない ようです。多くの子供はそのままお腹までつけて、後ろに足を抜き、その後に足の裏で頭の後ろを触れるところまで 来ました。やり続けれれば出来る。 本当に素直な子供達です。もちろん大人の方々も徐々に柔軟性を高めて来られ ている方が増えました。 やり続ければ、必ず出来る。素直にやれば必ず出来るようになる。そのようにこれからもお伝え して行こうと思います。 12月から、また新たに武道のルールをお伝えしながら多くの方々が持っている潜在能力を引き 出せるよう、私自身も知恵を絞って稽古の在り方、稽古内容を工夫をして行こうと思っています。 また子供達の無限∞ の能力を信じ、それを引き出さずことが私の役割。まさにボクシングのセコンドのように一人一人を診て行こうと思います。  ただし、私の道場は子供達とその御父兄が中心です。 生徒の妹や弟たちが道場の中を駆けずり回ることも多々あります。 それは子供なのだから、しようがない。 「元気に走り回りなさい」という気持ちには変わりはなく、その子供たちの騒ぐ声も、 耳に心地いいものだと思っているくらいです。ということでこの子供たち中心の雰囲気を変えるつもりは毛頭ないのです。 

着陸体制に入ったあとにシートベルトをはずして通路に出たという違反行為について謝罪をされてるコメントがありました。 この行為自体も問題なのですが、その時の言動も大変なものであったようです。 これは 『Voice』2012年12月号に掲載 されてる内容です。これをもし中年男性が行っていたとしたら、即刻、警察の取り調べ室に直行していたかもしれません。 私は、この方のコメントにはどうしても引っかかってしまいます。行動的というか、アメリカ的というか、自分中心というのか。 昨年、大津で中学生が自殺しました。それが取りざたされてくる間に教育委員会や学校関係者の問題も露呈して来た のですが、それよりも気になったことは、その加害者のご両親です。 高学歴で、やや攻撃的な方々のように受け取れた その方々は加害者である息子は「被害者だ」と言ってました。 多くの場合、そのように映るようです。 そのご両親の 思いや行為と、今回のこの方の振る舞いに似たものを感じます。自分や自分の子供を大事にするあまり廻りが見えない 状況にあって、その原因はすべてその周りの環境にあるというお考えなのかもしれません。 そして何か問題があれば 訴訟で決着。 そこには廻りの人の「心」は勘定に入っていないのでしょう。子供がどんな状態なのか? その母親は どんなに居た堪れない気持ちで飛行機の中にいたのか? それは問題にされてないようです。 「お互い様」とは無縁 の世の中では、この先が思いやられます。わざわざ、警察に出頭し、自らの違反行為を記録に残し、またその行為を ブログで報告することなど必要ないはずなのに、何故、そこまでするのでしょう。 これからの世の中を創っていくのは 、飛行機で泣きじゃくっていた子供の世代。 しかしその方の行為は決して、そんな子供たちに参考になる心の姿勢では ないように感じます。クレームを付ける「クレイマー」の行為自体は決して悪いとは思いませんがモンスターになる必要は どこにもないように思えるのです。 頭のいい方々が目指す「高学歴、高収入でセレブな生活」も行きすぎると、ぎすぎすした 世の中になってしまうかもしれません。 人は穏やかになればなるほど、より大きな成功を手にすることが出来るのでは と思うのです。 心は創造の達人。そして私たちは心であり、思いという道具を用いて自分の人生を形づくり、その中で 様々な喜びを自ら生み出しています。 私たちは心の中で思い描いた通りの人間になります。 なので私たちを取り巻く環境は、真の私たち自身を映し出す鏡に他ならないのだと思って姿勢を正したいものです。

私たちの心の中に組み込んできた様々な思いの結果、私たちは今、ここにいます。 人生には偶然という言葉でくくれる ものはなく、自分たちの人生を構成しているあらゆる要素が機能した結果ではないかと常々思っています。自分の環境に 満足していようと、そうでなかろうと、心に蒔いた種は正確に花をつけるのでしょう。 また人間は常に進歩し、進化し続ける 生き物ですから、どんな時にでも自分が学び、成長を遂げるために最適な場所にいるように思えます。 まるで、ある環境 で必要な学習を積んだならば、その環境は間もなく閉じて、次の新しい環境が自ら取って代っていくように一歩足を踏み 出せば、その先に道が出来るように環境が整ってくるようです。 なので人間は環境の産物では決してないのだろうと感じて います。自分が進歩しようと思い続ける限り、成長のための環境が動き出して、思い描いた通りの自分になっているのでは ないかと思います。 心は、それ自身が秘かに抱いてるものを引き寄せるのかも知れません。 それ自身が本当に愛しているものを、または、恐れているものまでも、完全に引き寄せてしまうかのようです。 心の中に蒔かれた「思い」という種が、それ自身と同じ種類のものを生み出します。遅かれ早かれ、「行い」として花開き 、やがて「環境」という実を結ぶのでしょう。 良い思いは良い実を結び、悪い思いは悪い実を結ぶ。だから怖い。 人は自分が望んでいるものではなく、自分と同種類のものを引きよせてしまいがちです。 口先だけの綺麗事や単なる 夢物語などは、成長を阻まれてしまいますが、もっともっと心の奥に潜む真の思いや願望は、それがいいものでも、 汚れたものであろうとも、それは育まれ成長してしまいます。 私たちが手にするのは、私たちが願っているものではなく 祈るものでもありません。原因と結果の法則に即した妥当な報酬のみだと考えるのが適当です。あまりに都合のいいような 良い結果のみを願ってみても、その結果と調和しない思いを巡らしていては、その達成を自ら妨害するのみです。 トウモロコシの種からはトウモロコシしか生まれまないという事実は多くの方が知っておられるのに、個人の人生の中でも 同じことが繰り返されていることは、あまり認知されてません。 周囲の人々や状況に対する自分自身の姿勢を改めると、自分に対するそれらの姿勢も、速やかに改まるものであると いうことを私は身を持って体験して来ました。 今日、飛行機の中で泣く子供とその母親にキレて、降りてからも航空会社にもくってかかった女性がいたという記事を 見かけました。 いずれすべて自分に帰ってきてしまうことなのに何故、そんなことになるのでしょう。その行為は自分で 自分を傷つけるようものであるように感じました。子供は泣くもの。それも1歳の子供です。心が寂しくなりました。

東京大学医学部在学中、22歳の時に書いた小説が今頃、見つかり脚光を浴びてるようです。 私がこの作家に興味 を持ったのは20歳台半ばのころでした。カフカが好きで、その人のいくつかの小説を読んでるうちに日本にも、そういう 前衛的な小説を書く人がいると気づき、壁、砂の女、箱男、密会などすべて、漁るように読みました。その人の文体、 短編小説の末文の結び方、そして余韻の漂わせ方は、今でも好きです。阿刀田高さんの「ナポレオン狂」の短編も 同じような余韻の漂わせ方で綴った面白い作品で、よくそのような短編を見つけては読みふけっていました。 その方は中国で育ち極貧の中国東北部を視てきたから売血奴のことも実感を入れて書けたのでしょう。そして 自分自身も25歳のころには売血をして生きていた方。親が医者で、娘も医者。自分は医学部を出たけど医者には なれず作家の道に入ったという変わり種。その方が29歳から31歳のころに書いた短編を私は何度も読み耽りました。 何故だか書かれている主人公の思いや行動が、若かったころの自分のそれに近かったように思えたのと文章の切り口が 気に入ったのです。20歳台後半の私の生きざま。荒々しさ。粗暴さ。前衛的。超現実的な空想。私はそんな会社員でした。 パニック商事の社員の心得を探す自分がいたり、そんな警察官が本当にいたら面白いものだと思ったりしたものです。 30歳台半ばになって、また読み返すと「棒」になった父親の気持ちは私そのものでした。私が持っている、その方の単行本 は何度も読み返してきたので、すでに擦り切れてボロボロです。中でも気に入ってるのは「R62号の発明・鉛の卵」という 単行本。 それは「棒」・「パニック」などの短編が盛り込まれているからです。 しかし、自分では意外に思うのですが、この 2つの短編の評価はあまり高くないのです。言いかえればあまり知られてないという事かも知れません。 未発表の「天使」 が取りざたされたことで、少しは、この短編も陽の目を見るかもしれませんが、この大衆受けするものではないニッチな短編。  そして昔の自分の匂いを感じる単行本をまた時間を見つけて読んでみようと思っています。 この方の小説は、当時の自分の 空虚な人生を埋めてくれるものでした。 また自分のどこにぶつけるでもない爆発しそうな思いを、その小説は描いていて共感 を感じていたのです。そんなパワーや荒々しさを文字で表すことが出来る小説家は少なくなったように思えます。  昔「太陽の季節」を書いた作家が「太陽の党」を創って新たな道を進もうとしてます。 私には到底「太陽」があるようには 思えません。高年齢の方が集まった「斜陽の党」のように映ります。 今、日本の世の中に必要なのは、そんな高齢者が 率先するものではないはずという漠然とした思いが「太陽」という言葉を斜に読ませるのです。 有り余る活力を筆を通して 書きなぐる岡本太郎のような人を私は老人とは思いませんが、太陽の塔の陰に屯して「たちあがれ」などと言ってきた方々 は自分自身が実は立ち上がれない人達ではなかろうかと私は秘かに危ぶんでいるのです。 世間的には80歳も過ぎれば 棒のような杖が似合う年。果たしてその棒が棒として置き去りにされるか否かは12月16日に分かります。 という訳で白髭 の先生の裁断の成り行きを私は楽しみに待つことにしたのです。 

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