私たちの心の中に組み込んできた様々な思いの結果、私たちは今、ここにいます。 人生には偶然という言葉でくくれる
ものはなく、自分たちの人生を構成しているあらゆる要素が機能した結果ではないかと常々思っています。自分の環境に
満足していようと、そうでなかろうと、心に蒔いた種は正確に花をつけるのでしょう。 また人間は常に進歩し、進化し続ける
生き物ですから、どんな時にでも自分が学び、成長を遂げるために最適な場所にいるように思えます。 まるで、ある環境
で必要な学習を積んだならば、その環境は間もなく閉じて、次の新しい環境が自ら取って代っていくように一歩足を踏み
出せば、その先に道が出来るように環境が整ってくるようです。 なので人間は環境の産物では決してないのだろうと感じて
います。自分が進歩しようと思い続ける限り、成長のための環境が動き出して、思い描いた通りの自分になっているのでは
ないかと思います。 心は、それ自身が秘かに抱いてるものを引き寄せるのかも知れません。
それ自身が本当に愛しているものを、または、恐れているものまでも、完全に引き寄せてしまうかのようです。
心の中に蒔かれた「思い」という種が、それ自身と同じ種類のものを生み出します。遅かれ早かれ、「行い」として花開き
、やがて「環境」という実を結ぶのでしょう。 良い思いは良い実を結び、悪い思いは悪い実を結ぶ。だから怖い。
人は自分が望んでいるものではなく、自分と同種類のものを引きよせてしまいがちです。 口先だけの綺麗事や単なる
夢物語などは、成長を阻まれてしまいますが、もっともっと心の奥に潜む真の思いや願望は、それがいいものでも、
汚れたものであろうとも、それは育まれ成長してしまいます。 私たちが手にするのは、私たちが願っているものではなく
祈るものでもありません。原因と結果の法則に即した妥当な報酬のみだと考えるのが適当です。あまりに都合のいいような
良い結果のみを願ってみても、その結果と調和しない思いを巡らしていては、その達成を自ら妨害するのみです。
トウモロコシの種からはトウモロコシしか生まれまないという事実は多くの方が知っておられるのに、個人の人生の中でも
同じことが繰り返されていることは、あまり認知されてません。
周囲の人々や状況に対する自分自身の姿勢を改めると、自分に対するそれらの姿勢も、速やかに改まるものであると
いうことを私は身を持って体験して来ました。
今日、飛行機の中で泣く子供とその母親にキレて、降りてからも航空会社にもくってかかった女性がいたという記事を
見かけました。 いずれすべて自分に帰ってきてしまうことなのに何故、そんなことになるのでしょう。その行為は自分で
自分を傷つけるようものであるように感じました。子供は泣くもの。それも1歳の子供です。心が寂しくなりました。