東京大学医学部在学中、22歳の時に書いた小説が今頃、見つかり脚光を浴びてるようです。 私がこの作家に興味
を持ったのは20歳台半ばのころでした。カフカが好きで、その人のいくつかの小説を読んでるうちに日本にも、そういう
前衛的な小説を書く人がいると気づき、壁、砂の女、箱男、密会などすべて、漁るように読みました。その人の文体、
短編小説の末文の結び方、そして余韻の漂わせ方は、今でも好きです。阿刀田高さんの「ナポレオン狂」の短編も
同じような余韻の漂わせ方で綴った面白い作品で、よくそのような短編を見つけては読みふけっていました。
その方は中国で育ち極貧の中国東北部を視てきたから売血奴のことも実感を入れて書けたのでしょう。そして
自分自身も25歳のころには売血をして生きていた方。親が医者で、娘も医者。自分は医学部を出たけど医者には
なれず作家の道に入ったという変わり種。その方が29歳から31歳のころに書いた短編を私は何度も読み耽りました。
何故だか書かれている主人公の思いや行動が、若かったころの自分のそれに近かったように思えたのと文章の切り口が
気に入ったのです。20歳台後半の私の生きざま。荒々しさ。粗暴さ。前衛的。超現実的な空想。私はそんな会社員でした。
パニック商事の社員の心得を探す自分がいたり、そんな警察官が本当にいたら面白いものだと思ったりしたものです。
30歳台半ばになって、また読み返すと「棒」になった父親の気持ちは私そのものでした。私が持っている、その方の単行本
は何度も読み返してきたので、すでに擦り切れてボロボロです。中でも気に入ってるのは「R62号の発明・鉛の卵」という
単行本。 それは「棒」・「パニック」などの短編が盛り込まれているからです。 しかし、自分では意外に思うのですが、この
2つの短編の評価はあまり高くないのです。言いかえればあまり知られてないという事かも知れません。 未発表の「天使」
が取りざたされたことで、少しは、この短編も陽の目を見るかもしれませんが、この大衆受けするものではないニッチな短編。
そして昔の自分の匂いを感じる単行本をまた時間を見つけて読んでみようと思っています。 この方の小説は、当時の自分の
空虚な人生を埋めてくれるものでした。 また自分のどこにぶつけるでもない爆発しそうな思いを、その小説は描いていて共感
を感じていたのです。そんなパワーや荒々しさを文字で表すことが出来る小説家は少なくなったように思えます。
昔「太陽の季節」を書いた作家が「太陽の党」を創って新たな道を進もうとしてます。 私には到底「太陽」があるようには
思えません。高年齢の方が集まった「斜陽の党」のように映ります。 今、日本の世の中に必要なのは、そんな高齢者が
率先するものではないはずという漠然とした思いが「太陽」という言葉を斜に読ませるのです。 有り余る活力を筆を通して
書きなぐる岡本太郎のような人を私は老人とは思いませんが、太陽の塔の陰に屯して「たちあがれ」などと言ってきた方々
は自分自身が実は立ち上がれない人達ではなかろうかと私は秘かに危ぶんでいるのです。 世間的には80歳も過ぎれば
棒のような杖が似合う年。果たしてその棒が棒として置き去りにされるか否かは12月16日に分かります。 という訳で白髭
の先生の裁断の成り行きを私は楽しみに待つことにしたのです。