未来への旅
タイムマシーンは現実のものになる時には私はこの世にいないでしょう。 しかし理論上は既に可能になっている ようです。光の速度は秒速30万キロ。そして現在の宇宙ロケットは秒速24万キロ。あと少し早くなれば未来を 見ることが出来るというのが今の物理学で証明されています。アインシュタインが1916年に発表した一般相対性 理論がもたらした成果は大きく、夢が現実に繋がるものだと東大名誉教授で宇宙物理学者の佐藤勝彦先生は 様々な本でわかりやすくして説明しています。 「動いてるものの時間は遅れる」、「時間と空間は縮む」、原爆の 理論を作った「ε=m x c²」 など。 なかでも面白いのは「動いてるものの時間は遅れる」という理論からタイム トラベルが見えて来たということです。 その一般相対性理論を応用した説明はこういうものです。 高速で移動すれば時間は遅れる。たとえば光の速さの99%のスピードで飛ぶ超高速宇宙ロケットに乗り込んで 宇宙を10年間旅して地球に戻って来たとします。この時、地球は70年経過していることになるのです。ジェット機 だとわずか1000万分の1秒なので微量で分かりにくいのです。しかし、これもまぎれもなく1000万分の1秒 遅れているのです。 過去へのタイムトラベルも可能なようですが物理学では理論が分かれ、明確になっていま せん。母殺しのパラドックスが説明できないのです。過去に遡って自分の母を殺してしまったら自分は消えるのかが 論理的に説明できないのです。 しかし、アインシュタインの理論が発表された1916年から約100年が経とうとして いますが、この百年で原爆を作り、またタイムマシーンの可能性を明確に出来た人類の可能性はやはり凄いものだと 思います。見えないものを現実のものにするのですから。 この先、加速度的に相対性理論と量子論が確立され、 新たな物理学が生まれてくることを願ってやみません。 アインシュタインは9歳ころまで、ろくに会話が出来な かった変わった子供だったようです。暗記や集団行動が苦手。大学受験失敗。大学では中の上。但し、本人が言う には「唯一才能があったとすればラバのような強情さで自分の興味のあることに情熱を注ぎ、没頭する姿勢を崩さな かったことだ」と。 天才も実は普通の人だったようですが、やはり多芸でなく一つのことをやり続けることが潜在能力 に灯を燈すのでしょう。 しかし、私はアインシュタインが自分を表する際に表現したラバとは一体どんな動物なのか 良く知りませんでした。 調べてみると雄のロバと雌のウマの交雑種の家畜。そして体が丈夫で粗食に強く、役力も あるので経済的な家畜。気性は大人しく、臆病な動物とあります。つまり、こういう人間が偉大なことを成し遂げる 土壌があるということなのでしょう。今まで動物園でラバを観ても気にもかけずにいましたが、いつの日か動物園に 行く機会があったら、その檻の前でアインシュタインが何故自分をラバだと言ったのかをジッと観察してみようと 思っています。 ところであなたは自分自身をたとえると一体どんな動物でしょうか? ラバ?馬?サル? 私は「マグロ」。 熱帯、温帯海域に広く生息し、泳ぎを止めると窒息するため、たとえ睡眠時でも停まらず 動いている生き物です。そして適度な脂肪もありますので。
運命
運命は宿命ではないと理解したのはここ15年のことです。縦軸に運命があるとすれば、横軸に原因と結果の法則 があって、縦と横をつなぎ合わせた絵が、その人の人生だと思うようになって来ました。宿命のように、すべてが あらかじめ決まってしまっているとしたら、それほど面白くない人生はないでしょう。 また海には潮目があるように 人生にも昇りのエスカレータに乗って何もしなくても前に進めたり、逆に、下りのエスカレーターを昇る羽目になって しまい、いくら頑張っても陽の目を見ない時もあるでしょう。 たとえば、手漕ぎボートで海出たとします。満ち潮で あれば岸に容易に辿りつくでしょう。しかし、引き潮に出くわせば、いくらもがいても岸から離れてしまうばかりです。 人生、1+1=2 にはならない理由がそこにあります。 どうみても悪事ばかり働く意地悪な人が、いい暮らしをして いたり、バカ正直者が惨めな暮しをしいられていたりするのは、原因と結果の法則から見て逆の状況にあるために、 いいことを想い描いたところで結果は変わらないどころか、世の中は、やはり自分中心で、人を押しのけて、人を踏 みつけてでも上を目指すしかないと思う人もいるはずです。 しかし長い目で半年、1年、3年、5年というスパンで人 の人生を見ると、帳尻は必ず合っているように思えてなりません。それは人も企業もすべて同じようです。 137億年前に宇宙が生まれ、地球は46億年目。光合成の生物は32億年。恐竜は1億5千万年前に生まれました。 猿人類は2500万年前。北京原人は50万年前の人。現代人は10万年前にやっと出てきました。日本列島が大陸 から離れたのが1万3千年前のこと。そして古代エジプト文明やメソポタミア文明が現れたのは5千年前。 いずれにしても137億年前から宇宙は膨張し素粒子状のものが中性子、陽子、中間子を生んで原子を形作り あらゆる生命体を創って来ました。植物も動物も、そして人間も、この流れの中で生まれました。このように宇宙の 生物は「無から有を生む流れ」の中にあるように思えます。 ならば、我々は、そういう発展する流れに沿った生き方 をしたいものです。 では人生の目的は何でしょう? そして何のために人は生れたのでしょう? それは一言では表現しずらいのですが「世の為、人の為に尽くすこと」ではないかと私は漠然と捉えています。 具体的には「仕事を一所懸命やる事」。「研究に熱中する事」。「技術を磨く事」。「掃除を心をこめてやる事」。 「食事をつくる事」。「洗濯をする事」。「相談に乗ってあげる事」。「挨拶をする事」。「ありがとうと声をかける事」。 「感謝する事」。「ごめんねと謝る事」。「正直である事」。「嘘をつかない事」。「譲る事」。「愛情を表現する事」。 「感動を分かち合う事」。「褒める事」。そして「綺麗な心であり続ける事」。 運命を切り開く為には実は、こんな 些細なことが大事なのではなかろうかと思っているのです。
偏見
10月4日の朝、尊い命が、その人の意思でこの世から消えました。まだ生命を授かってから13年の女の子です。 豊島岡女子中学の1年生。 教頭は「いじめは一切ない」と言ってました。 まだ学校現場ではいじめはなくなっていません。 なくなる訳がありません。日本人の特性がそうさせるのですから。表立ってではなく陰湿に異質を拒む気質が日本人には あるのですから、いじめはなくなることは決してありません。 そんな中、12月8日小田急座間駅で戸板中学校1年生の 女の子が電車に飛び込んで、自らの意思で命を絶ちました。 2学期からいじめは助長されると聞いてましたが、やはり そうだったのかと思い知らされます。2学期になっていじめが強まり、耐えて耐えて2ヶ月、3ヶ月が経っても現状が 変わらないから、この世に見切りをつけたのでしょう。中学生は小学生と違いホルモンバランスが崩れ子供から大人に 変わる時期なので感覚的に敏感になるために、そして親の枠から出て、自分で自分の方向を決めて動けるようになって 来るころなので、こういう方向に向かってしまうのだと思います。小学生は、いじめはあっても、まだ親の傘の下にいて 自分で命の灯を消すような行動は取れないのです。但し、そういう考え方、生き方を擦り込まれて来てしまった上で 中学生になって、自我が出始める周りの生徒たちの無意識のいじめの的になってしまうと前途を照らすはずの灯も目に 入らなくなってしまい、孤独の内に自分を葬ることになるのでしょう。 こういう事件の起こった後には、必ず、その学校、 警察、教育委員会は蜂の巣を突っついたような騒ぎになって、事の隠ぺいに走り、自分の責任回避に手を尽くすのです。 「いじめは一切なかった」と教頭が言い張るならば何故、その子は死んだのでしょうか? 教育者として不適任な方が、まだいるようです。 ならばどうすればいいのでしょうか? この先は期待に反し、決して、いじめはなくならず、先生たちの多くは、隠ぺい工作、責任回避、見て見ぬふりの達人と なるでしょう。 それが現実ですし、その実態をそのまま受け入れるべきです。ここは日本なのですから。それが嫌なら 外国に移住するべきです。 それが出来ないならどうすればいいのでしょうか? 簡単です。いじめに負けない子供を 幼稚園や小学生のころから育てるだけです。いじめに対する免疫を付ければいいだけです。 そういう考え方をご両親が 持つだけで子供は救えるはずです。 すべては親の成す技、親の積み上げてきた結果なのです。原因は全て大人が 作っている訳です。ならば、その原因を変えるだけなのです。 教師や教育委員会、警察に頼る前に、子供を産んで 育ててきたお父さん、お母さん達が原因を取り払うことで全て結果は変わるように思います。子供は宝。そして親の後ろ姿 そのものが反映された人生を歩むのです。 その第一歩は人々に対する偏見を放棄することだと思います。するとその時から人々が示してくる偏見に穏やかに対処 出来るようになるはずです。人は人々を残酷に、しかも誤って評価することで、自分自身と人々の双方をより不幸せに する代わりに、人々の体験の中に侵入し、人々の心の内を理解し、人々のために感じ、人々と同調することで自分自身と 人々の双方に、より大きな幸せをもたらせるようになると思います。この心の姿勢の最大の敵は「偏見」です。それを心から 取り除くことが出来ない限り、自分がして欲しいと考えていることを人々にしてあげることは不可能です。「偏見」は優しさ、 思いやり、そして正しい判断の破壊者です。そして偏見の強さは残酷さ、不親切さの物差しです。偏見が心の中に出現 したが最後、人はもはや、理性的な生き物ではなくなります。軽率な行動や、怒り、その他の極めて有害な感情に身を 任せることになるはずです。この偏見に支配されてる限り、人の気分も、自由も尊重することがありません。偏見とは 個人が自分勝手に真実だと思い込んでいる、まったく誤った個人的見解にしか過ぎません。それに染まっていることを 認識しない限り、他人の立場を冷静に認識しようとすることもせず、悪意の罠からいつになっても逃れられません。 その結果、当然のごとく真の幸せも手に出来ないのだろうと思うのです。 こどものいじめにおける問題の全ては大人自身の仕業によるものだと断言できるのはそういう背景からなのです。
Melody
昨日、BSで録画した「小さな恋のメロディー」を見ました。 昔見たのと違う感じです。 中学校1年生の頃の映画。 トレイシー・ハイドがやっぱりいい。ジャック・ワイルドもいい。 そしてBEEGEESの歌も。マーク・レスターは、どういう訳か あまりーーー。 昔のロンドンの下町を、この映画で見ることが出来てとても懐かしく見ることが出来ました。私がイギリスを 好きになったのは、この映画とビートルズの音楽があったから。それとどちらかというとアメリカよりもイギリス映画が好き なんです。英語もアメリカ英語よりもクイーンズイングリッシュが本物だといつも思います。ロンドンやキース、インバネスは 20代後半によく訪れた街。そんな懐かしい思い出が小さな恋のメロディーには詰まっていました。でも、この映画、アメリカ とイギリスではヒットしなくてヒットしたのは日本だけ。アメリカ的ではないのは確かだけど、イギリスでも受けなかったのは 不思議です。 その中に出ていたジャック・ワイルドは6年前に53歳でガンで亡くなってます。私は今日が53歳最後の日。 明日9日はジョン・レノンの命日(日本時間)。 そして私が生まれた日。今日、あるお母さんからメールを頂きました。 「先生は、お誕生日のたびにお母様のことを思い出しますか?」と。 実は今まで、思いだしたことはなかったのです。 誕生日には必ず母から電話をもらってました。でも自分からは全く。今日が誕生日だったのかという程度で、母の「おめでとう」 の言葉にも、感謝の気持ちを表せず、「もうそんな誕生日を祝う年じゃ、ないんだから」という冷たい言葉しか返せなかった 自分がいました。 そして母がどんな悲しい気持ちかも全く気にせず「仕事で忙しいから、またあとでね」とつっけんどうな 会話で済ましていたのです。今日の、この稽古生のお母様からメールを頂かなかったら私は母に54年前のお礼もきっと 言えずにいたことでしょう。 今日、久しぶりに電話をしました。母は「昔はお父さんが痔で入院、それが治ったら蓄膿症でも入院したりして大変だった んだよ。それに男の子が二人でしょ。苦労したよ。」 電話の向こうの母は昔を懐かしんでいました。 「あっちゃん、風邪 引かないようにね」 また、こんな年になっても子供扱いするのかと思いながらも「お母さん、54年前にがんばって生んで くれてありがとう」と伝えられました。 小さな恋のメロディーの映画が流行った頃の母は38歳。私は13歳。 母は今は 一人でいます。たまには電話しないと。宝塚に行ったら肩も揉んであげたい。今日は素直に、そんな気持ちになりました。
虐げること
憎しみ、敵意、闘争、非難、偽り、恨み、自己愛などに捕らわれている時、人は真実を見る目を失って、偏った見方をする ようになります。しかし、自分を盲目にする、それらの心の要素を克服した時、人は不動の真実の目を知ることになります。 たとえば、ある少年が非力で小柄な少年を虐待したとします。するとそれを見ていた男が非力な少年に何をするんだと 言って、その少年に鉄拳を振るいます。続いて、その様子を見ていた、もっと強い男が、無力な子供に何をするんだと 言って、少年を殴った男を殴り倒します。 そして3人が3人とも悪いのは自分ではなく相手であると考えます。最初の きっかけを作った少年でさえ、非力で小柄な少年に対する攻撃は、やむを得ないことだったと主張するでしょう。 このようにして無知が憎しみと不和を引き起こすと、その人は激しい感情と敵意の中に住み続けることになると思うのです。 憎しみは憎しみを生み、不和は不和を引き寄せます。殺す人間は殺され、奪う人間は奪われ、虐げる人間は虐げられ 責める人間は責められます。 そして同じ感情でも能動的なものと受動的なものは、お互いが補い合うように、どちらから ともなく引きあい、近づくようです。だます人間とだまされる人間。虐げる人間と虐げられる人間。そして攻撃する人間と 攻撃される人間が引き寄せ合うのは、その為なのでしょう。 世の中には、たとえ誰かにどんなにひどく扱われようと決して傷つくことがない人もいます。自分に何が起ころうと、それは 自分自身がそれ以前に作った原因の結果であることを知っているからかもしれません。自分に起こる全ての出来事を良い ものと捉え、そのすべてを喜ぶのです。自分を呪う相手さえも祝福します。盲目ではあるけど偉大な法則に対する自分の 道徳的負債の支払いを可能にしてくれた有難い存在であると捉えているかのように。 原因と結果は分離できません。 人間は一旦、何らかの原因を創ったならば、その結果は必ず憑いて回ると考えた方が 良さそうです。 そして原因を持たずに発生する物事は何一つなく、発生することの全てが、そうなる為の正当な理由を 持っていると考えるのが無理のない解釈です。 逆に考えると発生を運命づけられているものなど何一つないという考えに 行き着きます。 人間は何かを愛することで、そのことを必ず引き寄せてしまいます。いいことも悪いことも。 明日のあなたは、あなたの思いがあなたを連れていく場所にいるでしょう。 過去から思い続け、描きつづけた人間になる ように、あなたの思いの結果から決して逸脱することはありません。 心の表面でいくら願い事しても叶わないのは心の奥底 にあるものが、そうなっていない為ではないでしょうか? ソラマメの種からはソラマメしか出来ません。なのでソラマメの種 を蒔いて小麦が出来ますようにといくら祈っても無駄なことなのです。原因と結果の法則は絶対なのですから。 一人でも多くの人に、このことを伝えて行きたいとつくづく思っています。そうすれば冒頭の三人のたとえ話の原因と結果も、 おのずと分かってくると思うのです。
保木自治会館
保木自治会館を見て来ました。 美しが丘西の住宅街にある平屋建ての建物で、何より駐車場が広い場所でした。 すすき野小学校方面から保木公園を通り過ぎると食品館あおばが左手に見えてきます。その「保木公園前」を左折。 ENEOSを通り過ぎると右手に入る道が見えます。そこを右折して一つ目を左折する。 50mほど直進すると消防団の倉庫とやぐらが見えます。そこを右に入ると保木自治会駐車場入り口です。 裏は広い駐車場。 余裕で20台は駐車できそうな広場があります。 今時、横浜では車を自由に停められて家族で過ごせる場所など、なかなか見つけるのは 難しいはずですから、よく、まあ、こういう場所を見つけて頂けたと山本さん、石橋さんに感謝する次第です。 12月16日の忘年会は多くの子供達と、そしてご両親方といろいろお話が出来ればいいなと思っています。 稽古中はお話をする機会も少ないので、こういう機会は大事にしたいと思っています。