8月 2013

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8月は型と移動を中心にした稽古。 稽古の中で話をしたことは三戦(サンチン)の立ち方。 後屈立ち、前屈立ち での移動の仕方。 この基本を伝えることが実は過去には十分には出来ていなかったので解説をして行きました。 元々極真は大山総裁が松濤館で空手を学び、剛柔流を学んだ中で創られた直接打撃系の流派です。  その為、型の多くは剛柔流に由来してます。 私が大学の時に習っていた剛柔流の型と現在の極真の型は微妙に 違ってました。 大山総裁の転掌の型を観た時に、そのスケールの大きさに剛柔流との違いを感じたものです。 剛柔流には太極、平安という型はありません。これらは松濤館や和道流から来ているようです。 そんな型の中で 私が一番好きなのは剛柔流の征遠鎮(セイエンチン)と、憧れでもあるスーパーリンペイ。 しかしこのスーパー リンペイは私は出来ません。 何故ならこの型は極真にはないのです。 この型を教えてもらえる師範も極真には いません。 ただ自分の型にして行きたい。そういう憧れの型でもあります。 全空連の型の決勝の多くは剛柔流 か糸東流の方々が占めています。 どういう訳か型の決勝はこの2つの流派から出るケースが多かったと記憶して ます。 それほど、この2つの流派の型は素晴らしい。 私は極真のセイエンチンではなく糸東流のそれが好き。 キレがあって、空手らしいと個人的には感じています。 スーパーリンペイはいつの日か自分も出来るようになりたい と思う憧れの型。 極真空手をやっていると、このような事が意外と疎かになってしまうと思い、この8月は伝統的な 稽古、型や移動の在り方などを解説し伝えてきました。 そしてやればやるほど奥が深く、まだ修行の途中である ことを強く感じた夏でした。 広い体育館で蚊取り線香を点けながら型稽古をやった夏もそろそろ終わるのかと 昨晩の虫のなき声で感じました。 虫の声はもう秋のようでした。 伝統空手の四大流派 剛柔流 (ごうじゅうりゅう) 那覇手出身の宮城長順が創始。その名称は、長順所有の拳法書「武備誌」の中にある拳法大要八句の「法剛柔呑吐」から取られた言葉に由来している。 松涛館流 (しょうとうかんりゅう) 首里手出身の船腰義珍が創始。義珍は本土空手の父と呼ばれるが、本人が流派名を名乗ったことはない。昭和14年、義珍の書号「松涛」を冠した道場「松涛館」設立。その松涛館出身の義珍の弟子たちが名乗った流派名が松涛館流である。 糸東流 (しとうりゅう) 琉球唐手三系統を学んだ摩文仁賢和(まぶに・けんわ)が創始。琉球唐手のすべての技術系統を網羅した流派が糸東流である。当初は「摩文仁流」という名称だったが賢和が大日本武徳会に“練士”の称号を授与されたときに「糸東流」と名乗ったのが最初。ちなみに“糸東”とは、賢和の師である、糸洲、東恩納の二人の名字からとった名称である。 和道流 (わどうりゅう) 四大流派のなかで唯一、本土出身者によって創始された。創始者の大塚博紀は、元々は神道揚心流の柔術家であったが、船越義珍に学び、本部朝基や宮城長順とも交流。空手と柔術の長所を取り入れ、和道流空手として創始した。

組手やスパーリングは心の強さを養います。 型は基本を整え、根気を養います。  その為、この空手クラブは、空手の技を伝えながらも、実は「心の強さ」と「根気」を養うための場 であると考えています。 もちろん「気合い」も大事。 気合いとは「気持ちの勢い」のこと。 生きて行く上でやはり 大事なことです。 気力もしかり。 気力とは何かを行おうとする精神力のこと。  この空手クラブでは、こう言う目に見えない「気」に関わることに着目して指導を行って います。 何故なら「気」とは生命力を与えるエネルギーであるから。  この「気」というものを年中さんから低学年の間に養うことが出来れば、そして自ら「物事に 飽きずに耐えうる力」を備えられたとしたら、その子の足元は明るい灯で照らされ、如何なる 困難にも立ち向かい、それを乗り越えて行くことでしょう。  根気とは物事を飽きずに長くやり続ける気力のこと。  不可視のパワーであり分厚い岩盤をも貫き、目標への道を切り開いてくれるもの。  だとしたら自身の人生が遅々とした歩みであったとしても決して忍耐を崩してはならないのです。  卑しい心の持ち主は、不出来をその環境のためであると考えます。  自分の環境とは自身の心を映す万華鏡です。 その鏡の中で刻一刻と変化する多様な 色彩の移り変わりは、動くことを止めない自身の心と思いの数々が絶妙に投影されたもの。 心の中で繰り返し巡らされる思いは、たとえそれが良いものでも、悪いものでも、その人の 人格と環境内で、それ自身の結果を寸分の誤差もなく発生させてしまいます。 つまり人間が自分の思いを完璧にコントロールすることが出来るのであれば、それを根気よく 全うすべきです。  気高い夢を観ることです。  自分の理想は、自分の未来を予言するものに他ならないのだから。  根気はそれを成し遂げる原動力だと信じ、それを幼き頃に養うしかありません。

8月15日、毎年民族性を意識してしまうのです。 中国や韓国からの見方もあるのは理解できます。  しかし私は日本で生まれ日本で育った日本人。 だから普通に日本を大事にする気持ちが湧いてきます。  ただ日本人は世界的にみると変わっているのかもしれません。 それは「菊と刀」に書かれている通り。  義理、恩、恥の感覚は日本人固有の物。そして日本人は礼儀正しいといわれる一方、横柄で実は 不遜も併せ持つようです。 電車に乗っていると、たまに横柄な人に出くわす事があります。  アジアに行くと不遜な態度を取る人もいます。 そういう人がいるのも事実。 でもそれは極一部に 過ぎず多くは平和的な国民のように思えます。 逆に平和ボケしている国民のように錯覚してしまう 時もあります。 日本人はもっと意思を貫かねばと歯がゆい思いもたびたびでした。 大昔、地球が凍える寒さに覆われていたころ日本は大陸と陸続きであったので大陸からいろんな民族が 流れて来ました。しかし、その後の温暖化で海面が上昇し、島国として固有の文化を築くようになるのです。 祖先を辿るDNAは韓国の方とは違い、中国、チベットやシベリアの民族に近く、その後の大陸からの 多くの渡来人との戦いと混血を繰り返し、今の日本人が創られたようです。    今、8月15日は東アジアでは特別な日になっています。 元を辿ればそれは同じ人種なのに近いからか なのか喧嘩をする相手になって久しいものがあります。 もうかれこれ1000年くらいは同じような いざこざを繰り返して来ました。 しかしいったいいつまで、このいざこざは続くのだろう?    子供たちはどこの国でも素直なのに。 

三浦雄一郎さんが80歳にしてエベレスト登頂に成功したのは今年の5月のことでした。 大変すばらしい偉業 だと世間はもてはやしていました。 私は、冷めた気持ちでテレビのニュースを観ていたことを思い出します。 この標高8000メートルの死の世界に関する思いを書いた雑誌を昨日、目にしてあらためて冷めた思いが よみがえって来ました。 「自分には無理だ。もういいやと諦めてしまえば、楽になれる。でも山を前に登ろうとも せずウロウロしているだけでは人生つまらない。自分を諦めてはいけない」という言葉はその通りです。 確か5月に三浦氏が登頂をされた翌日の新聞で日本の高齢の女性登山家がエベレストで亡くなられた記事を 見ました。 わずか300万円ほどの装備。 でもこれが一般的です。 かたや三浦氏は企業の援助を受け1億円 を超える装備と多くのスタッフに守られての登頂。下山はヘリコプター。 野口氏はこれを批判してました。 私も同感。 そもそも03年に70歳で初登頂、その5年後に2回目、そしてその5年後に80歳で登頂。 この結果を 創らんがためのスタッフと、ヘリコプターでは本来のエベレスト登頂とは言えないと思えたのです。 「冬にエベレストに上るとか、スキーで滑るとかだ。ミウラ・ユーイチローを知ってるか?」 「有名だ。1970年にエベレストをスキーで滑ったんだろう」 「そうだ。そのとき俺たちシェルパがそのエクスペディションに参加し、彼を高所にまで導いた。」 「だが、知っているだろう、途中で、氷塊の陥落で、シェルパが6人死んだ。シェルパの遭難死としては それまでの最大規模だ。だがミウラはそこでスキーをやめなかった。彼は上に行きスキーで滑った。」 「6人は何のために死んだんだ?」  「6人の遺族は今どうしている?」  「稼ぎ手の男がいなくなったんだ。それなのに慰謝料も補償金も何もない。細々と暮らしている」 三浦氏も こういう遺族に関わる活動をされてるのかもしれませんが、ニュース、雑誌などからは 全くその片鱗も感じられずにいるので、大変寂しいものを感じ、人間として正しいものなのか疑問に 感じているのです。

今年の夏は暑いというのはバイクに乗っていても分かる。 生温かいっていう感じではなくなって アスファルトの照り返しが熱風になって顔に押し寄せてくる。 冬の凍える寒さを足して2で割って 欲しいくらいだった。 そんな日の夕方、すすき野で型稽古。 これは自主トレのつもりで体育館 を押さえていたのです。 審査前で型を仕上げたいという人が誰かくれば、それは指導の時間に。 そう思いながら体育館に行くと上海でゴンファン師範の道場に通っていたSさん。では今日は Sさんと二人で型を仕上げますかと思いきや、三々五々子供たちが集まって終いに10人くらい。 さあ、型をやろう、そう言って30分。 あたりの空が暗く、遠くでゴロゴロ雷が。  子供たちは大変。 そんな中でも型稽古を続けていました。体育館は安全な場所だから。 その合間に年中さんのH君が太極そのⅠをやろうとしても、そこは年中さん。お母さんが傍に 居ないと出来ないのです。お母さん、2度ほど一緒にやってるうちに太極そのⅠをマスターされて しまいました。 子供は雷ではしゃぎ出し、走り回ってましたが、お母さんはいつも観ておられるから 型の流れを覚えておられる。 なんと素晴らしいって、そんなに関心し出してると土砂降りの雨に なってました。あたりは真っ暗に。 そして2分ほどの停電も。 夏の体育館で停電です。 耳を押さえて怖がっている子供や、はしゃぐ子供やら。 夏のいい経験でした。 この土砂降りで私のバイクのヘルメットには、ほんの15分ほどであふれるほどの雨が溜まって しました。 ヘルメットをひっかけていた紐が切れそうな重さ。 これってスイカみたい。 まあ、いいや。夏だから。夏休みだから。 熱風のバイクも、土砂降りのバイクも。みんないい。 びしょぬれのヘルメットをかぶって雨の中のバイク。 これもなかなかオツなものでした。  さあ、今日も想定外のことがありますように。

何も味がないということを味として。 小さいものを大きいものとして扱い、少ないものを多いものとして扱う。 難しい事は、それが易しいうちに手がける。 大きいことは、それが小さいうちに処理をする。 世の中の難しい物事は、必ず易しいことから起こり、世の中の大きな物事は、必ず些細な事から起こる。 安請け合いをすれば、きっと信用を無くす。 易しいと見くびることが多ければ、きっと難しいことが多くなる。 一抱えほどもある大木も毛先ほどの芽から成長する。 千里もの道のりも一歩歩く事から始まる。 ざっと、世の中の事はこういう流れの中にあるように思える。 名誉と身体と、どちらが身近なものであろうか? 身体と財産と、どちらが大切なものであろうか? 何かを得ることと失う事と、どちらが苦しいであろうか? 物を惜しんで生きると、いずれ散財する羽目になる。 多くを蓄えれば、必ずひどく失う羽目になる。 だから満足することを知っていれば免れることも多いだろう。 ただ「足るを知る」と言葉で分かっていても、 それを出来るかと問われると全く程遠い。失敗をしない為だと分かって居てもそれが抑えられないのが人間だ。 でもちょっと難しい。 頭で考えるのはもうよそう。 難しい言葉じゃなくても分かるものがある。  1885年に書かれた児童文学「イワンの馬鹿」を読むとわかる気がする。こんな人生を歩めたらとつくづく思う。     そんな真理を単純明快に、わかりやすく描かれた児童文学に心が洗われる。 夏は読書に限る。  ちょっと暑い中で単行本とにらめっこ。 スマホやバーチャルなゲームよりもこの農家の三男坊の話しは面白い。  ちゃんと働いて手にタコが出来ている者だけに食べる権利があると結んでいたその本の結末は、当時高校生で あった私の心の奥に普遍的なものの意味を伝えてくれた。 読み終えたあと大の字になりながら余韻に浸っていた。そんな夏休みは、あっという間に過ぎて行った。 夏は、やはり読書に限る。 そして昼寝もいい。 そんな気楽な夏休みが大好きだ。

お互い、こうありたい、こうなりたいと心に抱く。それが時と共に修正を余儀なくされる。日々の暮らしの中で どこかに置き去りにされ、振り返れば何一つ自分の思うように生きて来れなかったという悔恨だけが残る。 しかし人生は自分が思うようにならないことの方が多い。 たとえ描いた姿とは異なっていようとも、それも 自分の人生だと受け入れたい。 一度きりの人生を「 こんなはずではなかった」と恨んで愚痴を言ってみて みても寂しい限り。 今、こうして生きていることだけでも素晴らしいのだから。 思い通りに行かず、何もかも投げ出したくなっても、自分を励まし自らの人生を全うしたい。   フランクルの「夜と霧」を読んで、あらためて、自分の人生の在り方を見つめ直そうと思った。

型がうまい人が少なくなった。 寸止め空手と言われる松濤館、剛柔流、糸東流、和道流などを修練されてる 方はうまい人が多い。毎日毎日型ばかりをされてるためであろう。 極真では出くわさない型もある。 綺麗で、スピードがある。但し、蹴りはうまくない。 やはり蹴りは極真に一日の長があるようだ。中足で蹴る スタイルは寸止めの特徴なので膝が廻って来ない分、強さに欠ける。極真では中足でも背足でも、カカトでも蹴る。 蹴りのバリエーションは格段に違う。 これは剛柔流でやってきた自分が身を以て感じたことだ。 だから極真の 人は接近戦でも頭やアゴを狙って蹴ってくる。 これは剛柔流ではなかったので初めのうちは驚いた。 今、思う事は部位を鍛える事よりも、自分のパンチや蹴りの出し方(効かせ方) が大事だと思う。 相手を倒すことは容易ではない。しかし人のパンチや蹴りが単位面積を小さくして、面に直角に入ると間違いなく 効いてしまう。  そのことを実現させるには型の基本が出来てないと難しい。 効かせる攻撃を身に付けるために 型の重要性を説いて行きたい。 極真で型が綺麗なのは大石師範、三和師範、岡本師範であろう。 他の道場の方々の型を見ても、さほど 美しいとは感じなかった。 美しい型は結果として強い組手を生む。  そういう観点から移動も型も美しくなくてはならないのだろうと今もそう思っている。

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