同志社大学在学中に体育会の空手部に無理やり引き込まれてから私の空手との関わりは
始まった。 極真の芦原道場が凄い人気だと聞いたのは二年生のころ。 三年生の時には
芦原道場の稽古が本当の空手だと思うようになっていた。 大学の剛柔流と極真は近いもの
があったこともすんなり芦原道場に通うようになった理由の一つだった。
しかし、膝蹴りや肘打ちはまったく知らなかった。 顔面ガードをしながら肘のヘッドを
素早く回転させて相手のひたいを打ち抜く。 これは芦原道場ならではの練習方法だ。
実は、それを昨日の合宿で浜井代表がやってみせておられたので正直なところ驚いた。
私は極真の芦原道場、芦原会館京都支部、正道会館京都支部という経緯を経て、その後
再び極真東京城西支部で稽古を行うようになった。 しかし城西での肘打ち稽古は昔からの
型にはまった動作ばかりで初代芦原館長のような実践性はなかった。 言い換えれば
危ない空手を教えるのではなく試合に勝つための稽古が中心だったように思える。
昨日の合宿で浜井代表がやってみせられた肘打ちは、私が35年前に芦原館長から指導を
受けた肘打ちそのものだった。
しかし芦原会館でも正道会館でもない純粋に極真会館一本でやって来られた浜井代表が
その打ち方を知っておられたとは。 そんな一つ一つの動作が新鮮でもあり驚きでもあった。
整列をする方向が右前からではなく左前からならぶこと。 これは浜井派の並び方なのだ。
城西でも芦原会館でも右前からであった。 そこは郷に入れば郷に従わねば。
そんなことを思いながら参加させて頂いていた合宿は4時間にも及んだ。
昨年は、土日を使い中国の本部道場まで一人で40人組手をしに出かけた。
55歳にして無謀だったかもしれない。
旅費、宿泊費、昇段料、昇段審査料全て合わせて18万円を使ってはみたものの
目標の40人組手を完遂することができず、30人が精一杯だった。 情けなかった。
そして身体が大きく荒々しい中国人を相手にそれが自分の限界だと思い知った。
その日があって、昨日の合宿がある。
感謝の気持ちとともに不思議なご縁を感じながら、昨日、昇段の賞状と帯を頂いた。
福井県から来られていた61歳の方は急性腎不全となってからも、週に3回の人工透析をしながら
極真空手の指導を続けられていた。 私は、あと4年でその方の年になる。
人工透析はそれをするだけで疲れるという。
もし自分がそうなったとしたらどうなるだろう。
透析を続ける身でありながら極真の稽古を変わらず続けられるだろうか?
腰の低い、物腰の柔らかい、その方を見ていると「心の強さ」とは、まさにこのような方の事を
言うのだろうと思われた。
あと何度、浜井代表を始め志を同じくする浜井派の先生方とお会いする事が出来るだろうか?
人の寿命には限りがある。
だから一回一回をより大事にしようと思いながら長野県戸倉からの帰路についた。