何事も、最初だと思えば「謙虚」になり、最後だと思えば、いとおしさが湧いてきて「丁寧」になります。
挨拶、掃除、字を書く時、お風呂に入って身体を洗う時、それぞれ日常の些細な出来事を丁寧に
やってみると、かけがえのなさを感じます。冷ややっこを前にして 「お前さんはどこの畑で取れた
大豆から出来たんだい?」 と思えるようになったり、ペットボトルの水にも、あそこの山の水なんだね
思えるようになります。 人生そのものを丁寧に生るには、自分の人生がやり直しが効かない一度きり
のものだと意識することが第一歩だと感じます。
やれ、お金がない、忙しすぎて時間がない、やることがない。 そんな、ないものねだりの人生を
送るのも一つ、そして丁寧に生きてみるのも一つ。 今日のたった今まで、ため息とあくびの毎日の
中に居たとしても、たった今から、丁寧に廻りを観てみる。 まずはそこから何かが生まれてくる気が
します。 この空手クラブの子供達には、いつも稽古の最後にいろんな話をします。 先週は 何で
姿勢を正しくしないとならないかについて、小学生でも、幼稚園の子供でも分かるように噛み砕いて
話をしました。 実は、これが私に取って丁寧に、時間を使うことになっているのです。
空手の稽古が終わったら、はい終わり。 ではなく、汗を流したあとに、実は大事な話があるんだよと
毎回、話続けて居ます。
あわただしく過ぎていく今日一日、どれほど丁寧に生きられただろうか?
果たして、親から受け継いだこの身体、どれほど丁寧に使えただろうか?
また明日から、子供達の純粋な眼差しに向かって、どんな話を聞かせてあげようか?
「ていねい」 って、意外と難しい。