循環器系の先生から久しぶりに連絡を頂いた。長男が高校三年まで極真空手を習い医学部受験を控えたころ、いろいろと医者の世界の話を伺っていた方でした。医者をやりながら極真空手を今も続けておられ現在は循環器の集中治療で働かれている先生。複数の医学部に合格した長男に「将来を考えたらここの大学がいい」と進路アドバイスも頂いて頂いた方でした。その長男もどういう訳か今では循環器内科の専門医として働くようになっている。妙なものだなあ。
その方のメールに続けてこうありました。
「師範も昨年の直心大会で、去っていった我孫子先輩、加藤先輩をお招きして一緒に演武してました。年を重ね確執も薄らいだ様子です。」 この内容をみて私が過去お世話になった道場の師範の心の有り様が見て取れて大変うれしく思いました。勝負事ともなれば勝てばおごり負ければ意欲を失う面倒な人格の自分がいる。なかなか利他の精神などとてもおぼつかないものだ。過去の確執などもそう簡単に忘れられるものでもなかろうと思っていただけに師範の対応が意外でもありなんだか暖かいものを感じたのです。きっと時間が解決してくれたのと、師範を客観的に見つめる聡明な師範自身が現れたのではなかろうか。
振り返れば自分自身でも必要な時に、その聡明な自分が、必要な場面で現れてくれるかはまったくわからない。もしそれが可能であったなら常に分別のある判断もできようし、道を誤ることはなかろう。ところが聡明な自分というものは厄介なもので心の奥底から容易には出てきてくれないのだ。いつでも反省しきりのときになって、ようやく現れてくれる。日頃の自分は世間体や常識など様々な要因の中で常に感情的で起伏にとんだ場面に身を置いている。なんとも心もとないのだとつくづく思う。日頃から心を静め、素直な心でいたいと望むのはそのせいだろう。とはいえ望まない自分とも、いつかは決別できるだろうと淡い期待をもっている。
循環器の先生のメールを見ていて昔を思い出し、自分の心もそうありたいなと思った次第です。