4月 2025

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今日は大森にある極真会館大森鈴木道場の審査会に笹井代表と参加しました。 代表の鈴木先生の人柄がわかる元気のいい子供達が居ました。 中学生、壮年部の方々にいいものが垣間見れました。 この1年、大森では、いろんな事がありましたが、何があっても決して人を悪く言わない先生に感心していました。こういう人が代表でいるところは上手く廻っていくんだろうな、と漠然と感じていました。 だからか。大森が落ち着いて、活気ある道場になってきている。 大森道場と鈴木代表のこれからが楽しみです。

出会ったのは14年前。当時、中国大連は日系企業が多く、仕事柄大連への出張が多かった。ホテルは毎回、日航ホテルだった。ホテルの近くに極真の道場があるのは知っていたが、なかなかタイミングが合わない。ある時、仕事の終わりに時間が空いたので、フラッと道場に立ち寄った事がある。声が大きく、話したら止まらない、人懐っこい大雑把な人がそこに居て、出会ったその日から奥の事務所兼自宅で2人でビールを片手に第10回全日本大会の動画を観ていた。年齢は4つ違いで、どちらかというと2人とも異端児のようなものだ。そんな2人の出会いはこんな感じだった。その後、何度か大連本部に出稽古をしているうちに、しまいには関東で浜井派の支部をやってくれんかと言われた。当時、浜井派は石川県、静岡県、愛知県、長野県、和歌山県だけだったので会長は首都圏に出たがって居たようだ。私は会社勤めをしながら土日だけならできそうかなと軽い気持ちで聞いていたが、いつしかその話だけが進んで行って、成り行きに任せていたら、浜井派神奈川県支部長になっていた。とは言え、練習場所探し、生徒探しは遅々として進まなかった。「これはどこの先生もぶち当たる最初の難関だ」。そう思って自分自身を慰めてはみたものの、3か月経ってもなかなか人が集まらない。やっぱりゼロからでは無理だ。と思ってるうちに徐々に人が増えだした。するとあれよあれよといううちに1年目で50人、2年目で75人。3年目では100人を超え、会社員の副業としては順調過ぎるくらいだった。その後、150人、200人へと増えていくうちに黒帯も育ってきた。そんな中、浜井会長とよく事業戦略について話をした。浜井会長自身も事業家であったために、私達は話が合った。当時、私は会社では半導体・電子部品事業の営業統括を担う立場にいたために空手も一つの事業ととらえてランチェスター戦略で広める考えに浜井会長も納得されて2人で大連の飲み屋でカラオケを歌っては極真空手を首都圏でどうやって広めて行くかを語りあっていた。浜井会長は極真空手は「全日本で入賞してない人」はいくら強くても認めてなかった。「入賞する人は何かあるんだよ。いくら体がデカく腕っぷしが強くても極真のトーナメントでは勝ち上がれない。入賞するには武運がないとダメだ」と飲む度に言われていた。「私は入賞してませんよ。」「田中先生はいいんだよ。空手道場をたくさん創って生徒数も凄く増えた。今では吉村君の次くらいに多いんじゃないか」と褒めて頂いた。吉村先生は熱心な先生であったが、他の金沢の先生方々と折り合わず、結果として浜井派を追い出される羽目になってしまった。私は「何か流れがおかしいな」と感じて、少し会派の本流からは距離を置いて静観していく日々を送っていた。会社が忙しく空手だけに専念できなかったのが逆に、頭をリフレッシュする結果にもなり、新鮮な思いで空手に取り組めた。 思い返せば大連出稽古のときも、初台に浜井会長が引っ越してこられてからも私は一度も浜井会長から𠮟責をうけたことはない。ところが近くに居る他のメンバー達には会長は、きつい言葉で罵ることもあったが浜井会長に心酔する人たちに取っては大きな声で発せられる暴言も苦じゃなかったのだろう。私は横浜だったので、静観できる距離に居て全体の流れを見ながら自分の道場の拡大発展に注力できた。

令和7年4月1日より代表師範を笹井陽子先生に委ねました。 笹井代表の紹介文は戦歴とともに道場概要ページの下部に記載してます。 18歳と12歳の男の子のママ。 「挑戦」する姿が素晴らしい。 型と組手双方で入賞実績があること。(極真連合会・IBKO) 人としてみんなに慕われる存在であること。 強い少年部を育て上げてくれていること。 率先して子供たちのセコンドについてくれること。 シニアの方々のアイドルであること。 誰もが認める存在であること。 そんな笹井代表を私もサポートして行こうと思ってます。

昇段審査に向けて頑張ってきた3か月。 移動と型がどうしても納得いくものでなかったので何度もやり直しを伝えました。 本当に間に合うのだろうか。毎週そう思って見守ってきました。 4月1日から新体制の中心になる笹井代表。そして代表を支える小林副代表、 前田顧問、福西事務局長。今回、その4人の総意で6年生2名と壮年部2名を 新たな黒帯として迎え入れることとなりました。この昇段審査と同じ日に開催されていた IBKO選抜大会では4年男子軽量上級のカズフミが準優勝。試合組の少年部の子供たちも よく頑張ったと思います。私は今後、会長として、海外の対応、問題が起こった時の対処 など側面から、執行部の4人をサポートしていく所存です。 今日は大森鈴木道場から鈴木先生と壮年部の方が来られてました。有難う御座いました。

受験シーズンや卒業式も終わり、あとは入学式を待つだけのご家庭も多いのではないでしょうか?  うちの長男が医学博士号と取る為、大学院に4年間通いだしたのが、ついこないだの事のように思えます。医者になりたいと言い出したのは7歳の頃。奨学金を受けながら医学部に入り、医師国家試験に合格し医師になって市中の病院勤務をして奨学金は3年で返済。あとはもう気楽にやって行ったらいいと思って居たら博士号を取る為に、医師バイトをしながら医学部大学院に4年通うという。そしてようやく一昨日、医学博士号を取得。 循環器内科医師 35歳 独身。 大学生の時に空手の黒帯を取っていた事は卒業式が終わってから知りました。空手をやってる場合じゃない。医学の勉強をしなさいと常々言っていたので、私に隠れて大学の体育会空手部で空手は続けていたようです。 いつの間にか息子は親から巣立っているのに、親はその事には気づかないものです。

高校受験が終わった子らが結果報告に来てくれました。 横浜翠嵐、山手学院など本当によく頑張ったと思います。 先日の6年生たちも筑駒、開成、中央、サイエンスなどに合格。 受験勉強に耐えて来た頑張る子たちが、また一緒に汗を流してる。 小さなことに動じない、太く生きる子らであって欲しい。 失敗してもいいじゃないか。 上を向いて大きな一歩を踏み出そう。

会社の都合で愛知県に転勤になったまま、もう6年はたつだろうか? 生真面目な黒帯が親の介護、家族の事、そして仕事の事で悩んでました。 ふと、どうしてるんだろうと思ってメールをしてみたのは2月初旬。 またやってみないかと自然な流れでメールを書いたら、まだ単身赴任からは 解放されず、稲沢に住んでるという。相変わらず言葉に実直さが現れている。 そうか残念だな、と思っていたら、うちのグループに所属している岐阜竹村道場 にひょっこり顔を出していてくれていた。 一昨日、「引き続き、横浜田中道場のいち道場生として指導をお願いします」 という旨の返信をくれた。 素直に嬉しかった。 一旦、退会した人が戻って来てくれるのは、なんだか懐かしいし本当に嬉しい。

この土日は総極真の試合と昇級審査会でした。 6年生男子重量級選抜でケイタ優勝、カズキ準優勝。 3年生初級男子でマホロ準優勝。その他の子供達も次に活かせる試合だったね。カッコいいぞ。 全日本オープントーナメント体重無差別では高2のショウヤが出場。二回戦延長で惜敗でした。 追い込みすぎて足を怪我。それでも出場した気持ちの強さはこれからに活きてくるはず。 上を向いていこうか。17歳、まだまだこれからだ。

昨日、新極真会のドリーム選抜大会があり4人が出場し、怪我が絶えないカズフミ小4男子、サッカー部のハヤト中1男子が入賞。惜しくも入賞を逃したヒナタ、シュウマもよく頑張りました。最強のチャレンジャー達。頑張れー。試合組以外は通常稽古。寒さに負けず頑張れ👍。

受験組がまた戻って来た。 すすき野クラスは練習の途中で20分ほどバスケットボールをさせる。 冬は走れ、走れ。寒い体育館、裸足で走る。 こうやって冬に下半身を鍛える。空手バカになってはいけない。 「筑波大学附属駒場に合格しました」 「へえ、やるね」 「開成中学に合格しました」 「凄いじゃないか」 普通の生徒が、凄い事に。 それと決して頭が良さそうに見せないとこがいい。 受験組も、みんなと一緒に、さあ、走れー。 冷たい体育館の床。 元気に裸足で走る。 これに勝るものは無し。

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