出会ったのは14年前。当時、中国大連は日系企業が多く、仕事柄大連への出張が多かった。ホテルは毎回、日航ホテルだった。ホテルの近くに極真の道場があるのは知っていたが、なかなかタイミングが合わない。ある時、仕事の終わりに時間が空いたので、フラッと道場に立ち寄った事がある。声が大きく、話したら止まらない、人懐っこい大雑把な人がそこに居て、出会ったその日から奥の事務所兼自宅で2人でビールを片手に第10回全日本大会の動画を観ていた。年齢は4つ違いで、どちらかというと2人とも異端児のようなものだ。そんな2人の出会いはこんな感じだった。その後、何度か大連本部に出稽古をしているうちに、しまいには関東で浜井派の支部をやってくれんかと言われた。当時、浜井派は石川県、静岡県、愛知県、長野県、和歌山県だけだったので会長は首都圏に出たがって居たようだ。私は会社勤めをしながら土日だけならできそうかなと軽い気持ちで聞いていたが、いつしかその話だけが進んで行って、成り行きに任せていたら、浜井派神奈川県支部長になっていた。とは言え、練習場所探し、生徒探しは遅々として進まなかった。「これはどこの先生もぶち当たる最初の難関だ」。そう思って自分自身を慰めてはみたものの、3か月経ってもなかなか人が集まらない。やっぱりゼロからでは無理だ。と思ってるうちに徐々に人が増えだした。するとあれよあれよといううちに1年目で50人、2年目で75人。3年目では100人を超え、会社員の副業としては順調過ぎるくらいだった。その後、150人、200人へと増えていくうちに黒帯も育ってきた。そんな中、浜井会長とよく事業戦略について話をした。浜井会長自身も事業家であったために、私達は話が合った。当時、私は会社では半導体・電子部品事業の営業統括を担う立場にいたために空手も一つの事業ととらえてランチェスター戦略で広める考えに浜井会長も納得されて2人で大連の飲み屋でカラオケを歌っては極真空手を首都圏でどうやって広めて行くかを語りあっていた。浜井会長は極真空手は「全日本で入賞してない人」はいくら強くても認めてなかった。「入賞する人は何かあるんだよ。いくら体がデカく腕っぷしが強くても極真のトーナメントでは勝ち上がれない。入賞するには武運がないとダメだ」と飲む度に言われていた。「私は入賞してませんよ。」「田中先生はいいんだよ。空手道場をたくさん創って生徒数も凄く増えた。今では吉村君の次くらいに多いんじゃないか」と褒めて頂いた。吉村先生は熱心な先生であったが、他の金沢の先生方々と折り合わず、結果として浜井派を追い出される羽目になってしまった。私は「何か流れがおかしいな」と感じて、少し会派の本流からは距離を置いて静観していく日々を送っていた。会社が忙しく空手だけに専念できなかったのが逆に、頭をリフレッシュする結果にもなり、新鮮な思いで空手に取り組めた。
思い返せば大連出稽古のときも、初台に浜井会長が引っ越してこられてからも私は一度も浜井会長から𠮟責をうけたことはない。ところが近くに居る他のメンバー達には会長は、きつい言葉で罵ることもあったが浜井会長に心酔する人たちに取っては大きな声で発せられる暴言も苦じゃなかったのだろう。私は横浜だったので、静観できる距離に居て全体の流れを見ながら自分の道場の拡大発展に注力できた。
