「極真空手は確かに強い、ただね顔面有り、金的有りの試合をしたら、今の距離感じゃ剛柔流、松濤館には勝てないぞ。田中先生も元々、剛柔流だからわかるだろう」、「押忍、その通りです」
怪我をさせない試合、顔面有り、金的有りの試合、そんな事を浜井会長は考えていた。しかし、未完のままで浜井会長が他界されると、その構想は幕を閉じた。私自身、浜井会長の意向のもと、4度の大会運営に参加して、試合の主審をやって来たが、度重なるルール改定、ドラグローブ大幅改善、ファールカップの改良を要するなど前途多難で有る事と多額の賞金をかけて選手を集めるなど試合継続には金銭的問題が付いて回った。手っ取り早く顔面有りをやりたいというならキックボクシングか空道がいい。寝技、投げ技を考えたら空道かも知れない。道場運営という観点から考えてみても、ドラグローブの顔面有り、金的有りルールで稽古生を集めるのは難しい。
浜井会長が亡くなる7ヶ月前、大会を終えたあとの打合せをする為に大森の会長宅に行ったが、何度呼び鈴を鳴らしても留守のようにシーンとしていた。5分ほどして中から、異様なうめき声が聞こえて来た。「鍵は開いてる。入って来てくれ」 浜井会長の弱々しい声が聞こえた。やがて壁伝いに歩いて来られた。息も絶え絶えで、両手で壁に手をつきながら出て来られた。「どうされたんですか? 熱でもあるんですか?」、「いや、わからん。身体が動かないんだ。布団から起き上がるのもキツい」 日頃の大きな声で話をする浜井織安はそこには居なかった。そんな状況なのに1週間もするとYouTubeに出て、いつもの調子で喋っていた。明らかに無理してる。なのにそれを微塵も見せようとしない。表と裏を見て来ている者にとってその姿は痛々しかったが、浜井会長はプロレスラーの方とのYouTube発信を止めようとはしなかった。その後、初台のビルが2億弱で売れた事で、また浜井会長は復活した。YouTubeにも拍車がかかる。過激な発言は賛否両論だったが浜井会長らしかった。布団から起き上がれなかった様子は無くなっていた。その時はそう思えた。が、しかし、それから7ヶ月で浜井会長の人生はあっけなく終わってしまった。亡くなるまでの4年間、私しか知らない浜井織安がその4年の記憶の中に活きている。


