17年前の3月3日、ちょうど今頃(22時頃)私は電話口の母の尋常じゃない声に震えたのを覚えている。身内が亡くなったのは46歳にして初めての出来事だったので、浮き足だって何をどうしたらいいのかもわからず父親が亡くなった事を受け入れる余裕もなかった。
足腰が弱って来ていたけど心臓発作は予想外だった。母親を安心させないといけないと焦ってばかりで何をしゃべっていたのかほとんど記憶にない。
埼玉県から出た事がなかった両親が、勤めていた会社の都合で一家は大阪府茨木市に移り住んだ。父親は頑固なほどに関西弁に馴染まらず、野球と言えばジャイアンツ。タイガースは毛嫌いしていた。私は父への反発心から吉本新喜劇と阪神タイガースばかり観るようになって行った。
酒豪でクダを巻く父が嫌だった。勉強の事もうるさかったがお酒が入ると尚更だった。
大トラの父が好きになれなかったが、毛嫌いしていたはずの父親が言っていたような事を自分も知らず知らず口に出していた。二人の子には勉強が大事だとずっと言って来てしまったのはその一端かもしれない。まるで父そのものだった。きっと息子達は嫌だったろうに。
17年前の2005年3月3日、父義一はあっけなく一人で亡くなった。私はその頃、京セラという会社の営業部長で父の思い描いていた道を歩んでいた。京セラに入る時、友達も家族も皆、あの会社はキツイから止めた方がいいと言っていたのに父だけは自分が決めた道を歩んだらいいと言ってくれた。
今、お父さんと息子さんが空手を始める姿や子供の送迎をされてるお父さん達の姿を見て、なんだかほのぼのとしていて羨ましい。お父さん達は家族を養うのに大変な頃だと思う。 コロナに負けるな。不景気に負けるな。頑張れ、お父さん達。 いつもそんな事を思いながら親子の姿を微笑ましく眺めている。