力謝会から離れることを決めたのは8月5日。この力謝会は遺族にお返しすべきと思い力謝会代表からも身を引かせて頂いた。
故浜井識安に会ったのは2011年10月。昭和33年生まれの私とは4つ違い。当時、会長は極真空手を中国に広めるべく大連に住んでおられた。年が近かったせいか何故か馬が合って、いつの間にか大連出稽古は23回にも及んだ。汗を流した後の居酒屋とカラオケが楽しくて、何度も大連に行った。会長は異国の地で一人でいるのが寂しかったのかもしれない。私は会長の豪快なしゃべりが好きだった。いつも会長が一方的にしゃべって私は聞く側だった。延べの旅費・滞在費は200万円ほどになった。故浜井会長は一方的にしゃべるものだから、それを嫌ったり、陰口をいう人もいた。昔の浜井派支部長の何人かも会長が居ないところで会長に批判的だった。私はそれを耳にするたびに、そんなに嫌なら辞めたらいいのに。と思っていたが彼らは自ら別の道を歩む度胸はなく大樹の陰に隠れていた。月日が経ってみると、そういう方々は、総じてしかるべき状況になっているようだ。
会長と出会ってから13年が経ち、お陰様で10か所の道場を抱える組織になった。想像すらしてなかった現実に、ただ感謝の気持ちしかない。私は会長が亡くなってから「ビルマの竪琴」の水島上等兵のように僧侶として供養の機会を増やしている。
得度をして41年。真言宗開祖弘法大師空海様から数えて47代目。
そして空手を始めて47年。護身空手は、浜井会長の意向を反映し手探りで試合を創って行った。主審をしては外部から様々な批判も受けたりもした。しかし、今は、いいも悪いも護身空手は会長そのものだと思っている。私はある期間、力謝会の代表として、会長の護身空手立ち上げに寄与して来た者として、このご縁に感謝の気持ちしかない。