母と同じ1934年生まれの女性の方の記事を昨日、新聞の記事で見かけました。 こんな記事でした。
心が震え、痛みました。
日ソ中立条約を一方的に破って1945年8月9日、ソ連軍が攻め込んできた。満州東部の国境近くの永安屯
に開拓移住していた長兄ら日本人は妻子を逃がすべく応戦した。しかし戦車隊に抗するすべはなく長兄は
流れ弾に当たり死亡した。残された長兄の妻は11歳を頭に5人の子を連れて他の日本人とともに避難した。
だが途中、渡河する際に「足手まといになる」と皆に強いられ、泣いている6歳、3歳、1歳の幼い息子3人を
無理やり振り切って、川に流してしまったのである。下の2人はすぐに姿が見えなくなった。6歳の長男だけは
泳いで岸辺の草にしがみつき「お母さん助けて、お母さん 助けて」 と幾度も叫びながら流されていったそうだ。
それを見捨てて行かざるを得なかった兄嫁の気持ちは・・・。 11歳と9歳の姉娘たちは・・・。
3人は物乞いをしながら瀋陽市まで来て、ついに兄嫁が力尽き、路上で病死した。残された姉妹はそれぞれ
中国人に引き取られた。だが、11歳の長女は、ひもじさと酷使に耐えかねて逃げ出し、他の日本人集団に
紛れて翌年10月26日、栄養失調から骨と皮だけの姿になってひとり帰国した。 その長女カヅ子は山形県
寒河江市の生家にたどり着き、これらのことを私たち親族に話して2カ月経たづして亡くなった。次女ユキ子
を、私は残留孤児届を出して探しているが消息は不明だ。 (東京国分寺市 畑 眞吉 84歳)
畑 カヅ子さんが生きていれば79歳。 母と同じ年。 今の年配の方々がどれほど苦労されて活きて来たのか
あらためて知りました。 5歳、3歳、1歳の子供が川に流され捨てられた母親の気持ちは計り知れません。
土日に会う子供達と同じ年の頃。 心が凍りつくような話でした。 きっと母もいろんな経験をしてきたに
違いない。 また今日、電話してみよう。 声を聞くだけでもいい。