「神様を信じますか?」と言われてもピンと来ない。
でも、21年前の1月17日、神戸に住んでいて、悲惨な光景の中に家族が住む家があったとしたら
神にすがり、神にしがみ付き、「どうぞ神様、助けて下さい」と懇願するのではなかろうか?
凍える手も顧みず、裸足であることも忘れ、両の手を合わせて祈るのではないだろうか?
崩れた家々の中ではすすり泣く声が洩れ聞こえ、途方もない力に押し倒されたマンションを
無言のまま通り過ぎて行くと見慣れた風景に出くわす。
そうだ、このあたりだった。
電話はもちろん通じない。
「どうぞ神様、無事で居ますように。 いや、生きていてくれますように。」
そう祈るのではないだろうか?
そして神様と取引をする。
「もし家族を助けてくれたら、私の持ってるお金は全て世の為、人の為に使いましょう」と。
自分の利益のために、私はそう祈るだろう。
人間である以上、自分の利益の為に神様に祈ってもいい。
それが本当の姿だ。
人間の力の及ばない何か大きな力があると思えばこそ、そう祈りたくなる。
正直なところ、私は面倒なことはしたくはない。
でも、この世の中、そんな楽に暮らせる場所はないと思って居る。
複雑に入り組んだ世の中で、人生が絡み合って生きている。
困難な事ばかりが次から次から顔を出す。
いくら頑張っても、為せば成らない世の中が繰り返される。
地震が起こると電車が止まり、徒歩で歩いていくしかない。
歩けど歩けど、ほど遠い。
水は何処も売り切れて食べるものにも事欠く時を過ごす。
私は21年前、そんな震災を経験した。
そして、4年と11か月前。 大きな震災を経験した。
みな、神様を思い、祈っていた。
「どうぞ、家族が生きていますように」
人生は予期せぬことの連続だった。
だからこれからもきっとそうなのだろう。
今日、塾の前で小学生の女の子とお母さんが泣いていた。
昨日、今日の第一志望と第二志望の試験が思いの外、出来なかったのだろう。
その子の人生にとっては予期せぬ出来事だったのかもしれない。
たとえ試験の解答を導き出せても、人生を生き抜けるとは限らない。
だから試験の出来不出来で一喜一憂は意味がない。
神に祈るのはまだ早すぎる。
最後の切り札を出すのは今ではない。