果実には種が。 そして、水には泉があるように、「行い」にも「思い」というみなもとがあります。それは長く静かに
成長してきた結果、現れたもので、多くのエネルギーが費やされた、隠れた長い工程の最後の部分でもあります。
熟した果実や、岩から吹き出す水は、長い間、ひそかに続けられた自然の営みの結果です。 ということは、
いい行いも、邪悪な行いも、心の中に長くとどまり続けた一連の思いの最終結果なのだと考えるのは全く理に
かなったことかも知れません。 誠実な人が、ある日突然、強い誘惑に負けて、忌まわしい罪の中に落ちる話
なども耳にしたりしますが、その人のそこに至るまでの「思い」の工程が明らかになれば、それが実際には突然の
不可解な行いか、それとも、そうではなかったのかがわかります。 ただ多くの場合、そういう事に直面する方は、
まず初めに、ある誤った思いを心の中に侵入させ、続いて、それが再びやってきた時にも、その次の時にも、それを
受け入れてしまった結果、それを心の奥底に住まわせてしまったのではないかと思えるのです。 また、それが意外
と快適になり、やがてそれを抱きしめ、あれこれと面倒をみるようにさえなってしまった結果、その思いは心の中で
大いに成長し、行動として、外部に現れるほどに強力なパワーを身に着けたのでしょう。 目に見えない心模様でも
、同じ類のものを抱き続ければ、次第に具体的な最終行動へと向かってしまうこともあるでしょう。そういう意味では、
隠されているもので、表面にあらわにならないものは何一つない、と言えるのかもしれません。 すると、外側で発生
する「きっかけ」と戦って、罪や誘惑を克服しようとしても、無駄なことなのかも知れません。気高い教授も、好色家も、
その人自身の思いによって作られているのですから。
自分が心の庭にまいた種を、あれこれと手をかけて育んできたことの結果を、まさに今、手にしてるということです。
ならば、来る日も、来る日も心の庭にまく種は誠実なものにしたいものです。 昨今の様々な事件を顧みると、決して
その一つ一つは偶然ではなく、長く蓄積された心の種が創り上げた必然の産物であったのだろうと思えてなりません。