カポエラやってみる
先週からブラジルカポエイラ協会の指導員をお招きしてカポエラクラスを始めた。空手とカポエラは全く違うもの。しかし同じ格闘技。試合クラスメンバーのみに限定した開催だけど円運動、足の運びを学んで欲しい。彼らの運動神経に刺激を与えたい。そんな思いから2月にカポエラの先生と会話し、その実現に至った。協力頂くブラジルカポエイラ協会の先生に感謝です。全ては子供達の脳にどうやって刺激を与えられるかだ。これからも、様々な取り組みを行い、チャレンジして行こうと思っている。
審査会
いつものように三か所に分散し100名の昇級審査会を開催しました。昇段は別の日に開催するなどコロナ対策を十分取ったうえでの開催でした。極真空手を習得する中で何かを心に宿して欲しい。型も組手も1日1日の積み重ねの結果です。いずれ黒帯を締めた自分がそこにいる。あきらめなかった自分を褒めてあげよう。
医者
125年前は小学校卒業でも21歳で医者になれた。野口清作は小学校卒の学歴で1897年に医者になっている。彼の生家は福島県猪苗代にある。一間の部屋と厩がくっ付いたようなの貧しい家だ。口が上手く借金を繰り返し自堕落な生活をしていた清作は翌年1898年に名前を英世と変えている。その戸籍上の名前を変える手口と経緯までわかってしまうと、どうも好きになれない。1900年、医師を志す女学生:斉藤ます子さんとの婚約を決め、その持参金をもらうとアメリカへの渡航費に充ててアメリカの大学の助手になっている。どうもここまで破天荒すぎる生き方を知ってしまうと腹立たしくもあきれてしまう。1905年婚約持参金が野口の懐ではなく血脇もりのすけ氏から斉藤家に返えされようやく婚約が破談となる。これではまるで結婚詐欺ではないか。1911年梅毒スピロヘータ純粋培養論文で京大より医学博士の学位を授与され、アメリカ人女性と結婚する。その後黄熱病により1928年に死去。その間3度もノーベル賞候補になり2004年から千円札にもなった。しかし今は医学の分野で彼の発見の多くは否定され医学の歴史では野口の名前は消えている。博士号を東大大学院でもらうとにわかエリートのような学歴を縁取ることができる。野口清作も木下博勝氏もどうも同じ穴のムジナのように思えてしようがない。
母親の役割
今から174年前のアメリカに小学校に入学して3ヶ月で退学した子供がいました。ある日、子供が担任の先生からもらった封筒を母親に手渡しました。母親は封筒を開け読んでるうちに涙がこぼれました。「あなたの子供は精神薄弱で面倒をみることは出来ません。よって退学とします。」 今の日本ではあり得ないような話です。母親は悲しさと、この先のことに思い困り果ててしまいました。やがて子供は母親に家で勉強を教わり成長していきます。ナンシー・エリオットは七番目の末っ子に手を焼きながらも、その子の稀有の才能を育んでいきました。1個の粘土にもう1つの粘土を加えると1個の大きな粘土になる。1+1=2ではなくて、1+1=1もあるんだと分かっていきました。いろんな失敗をしたこの子は22歳の時に特許を取得し、それを売る事で現在の貨幣価値で2億円のお金を手にします。やらなければいけないことが山ほどあった彼の睡眠時間は30分の仮眠を何度か取るだけ。1日に3時間ほどの睡眠でのちに大企業となるGEを創り、電話も発明しました。宇宙という大きな存在のから生まれてくるメッセージを受け取ってそれを記録することをヒラメキという。そのヒラメキを大切に仕事に没頭しました。それら全ては小学校から受け取った退学通知から始まりました。学校から見放された子。その子を信じ、その子の才能を疑わなかった母の思いが天才を生んだのでしょう。後年、母の遺品を整理しその封筒を目にした彼の名はトーマス・エジソン。学歴・小学校中退。
コロナ罹患
知り合いで年末にコロナ罹患した人が連絡をくれた。東京都在住57歳、社長業を営む男性。週に2回ほどの会食を重ねていた年末29日。38℃の発熱のためかかりつけの北里大学北里研究所病院を受診。だるさと微熱は市販薬パブロンでしのぎ、医師の勧めでPCRを受けた。翌30日コロナ陽性と判明。咳はなく37−38℃の熱だけ。自宅療養となる。自宅には毎日、病院と保健所から症状確認の電話が入る。食欲は落ちず、相変わらず咳はない。ただ、夜22時頃になると決まって38−38.5℃の熱が出た。翌朝起床後10分ほどで37℃程度に落ちる日が4,5日続いた。その後、夜間の高熱はなくなり1月7日には医師のお墨付きをもらい仕事に復帰したという。今分かっていることは世界中でコロナ重傷者は高齢の男性が多いということ。どういう訳か高齢でも女性の重傷者が少ない。このコロナは高齢の男性がかかりやすく重症化し死に至る病気とも思えてくる。短パンにTシャツ姿の子供たちをこの真冬でも見かける。子供達はコロナにかからず、かかっても症状が出ない。いっぱい食べて、いっぱい寝て、笑って暮らす。そしてマスク、手洗い、うがいをやっていればおおむね良好。免疫力のかたまりのような空手クラブの子供たちにはコロナウィルスは影響なさそうだ。
本当の力
1月は体調を整えて受験に挑まないと。最後は体力勝負だ。中学受験、高校受験、大学受験、国家試験のすべてが第四コーナーを回った。お正月気分なんか味わってられない。目指して来た目標にあと少しなんだから当たり前だ。息子達の受験をいくつも経験して思う事は、番狂わせはつきものという事。あの子があそこに受かるなんて、、、あの子がA判定なのに落ちるなんて何があったのかしら、、、。しかし、それが本当の力だ。今はそう思う。医師国家試験は3日間。その大事な3日間の初日に熱を出した人がいた。どんなに春から秋まで体調万全であっても最後の最後の冬、3日間の試験の当日に39℃を出す人は、悔やんでも悔やみきれないだろう。今年は試験会場にも入れまい。しかし、それが実力なんだと思う。もう一回チャレンジしなさいと言う事だ。国試浪人は精神的にきつい。極端に言うと家族、親戚に会わす顔がなくなる。東大医学部を卒業した子なら尚更だ。長男は1月1日の夕方から当直、翌日昼まで病棟の回診で今日3日に帰って来た。1日の当直では夜間に10人。心筋梗塞、胆嚢炎など。いろんな試験を受けて今は循環器内科医になって多くの人を診て来ている。中学受験が1番キツかったと今でも言う。まだ子供の身体なのに受験前は毎日10時間をこなして来た。その耐える力が医師国家試験に効いようだ。1月は受験本番だ。そこまでに育んで来た体力が最後にものを言う。私は今でもそう思っている。
受験本番
1月は体調を整えて受験に挑まないと。最後は体力勝負だ。中学受験、高校受験、大学受験、国家試験のすべてが第四コーナーを回った。お正月気分なんか味わってられない。目指して来た目標にあと少しなんだから当たり前だ。息子達の受験をいくつも経験して思う事は、番狂わせはつきものという事。あの子があそこに受かるなんて、、、あの子がA判定なのに落ちるなんて何があったのかしら、、、。しかし、それが本当の力だ。今はそう思う。医師国家試験は3日間。その大事な3日間の初日に熱を出した人がいた。どんなに春から秋まで体調万全であっても最後の最後の冬、3日間の試験の当日に39℃を出す人は、悔やんでも悔やみきれないだろう。今年は試験会場にも入れまい。しかし、それが実力なんだと思う。もう一回チャレンジしなさいと言う事だ。国試浪人は精神的にきつい。極端に言うと家族、親戚に会わす顔がなくなる。東大医学部を卒業した子なら尚更だ。長男は1月1日の夕方から当直、翌日昼まで病棟の回診で今日3日に帰って来た。1日の当直では夜間に10人。心筋梗塞、胆嚢炎など。いろんな試験を受けて今は循環器内科医になって多くの人を診て来ている。中学受験が1番キツかったと今でも言う。まだ子供の身体なのに受験前は毎日10時間をこなして来た。その耐える力が医師国家試験に効いようだ。1月は受験本番だ。そこまでに育んで来た体力が最後にものを言う。私は今でもそう思っている。
年末最後の稽古
今日12月30日の稽古は黒帯、茶帯、少年部の動画撮影の1日だった。今年はコロナに始まりコロナで終わった1年。過去62年を振り返っても断トツで大きな変化があった1年だった。そんな1年でも新聞の切り抜きは変わらず続けている。何でかと言われても答えに困る。でも簡単に言うと将来の自分に伝えたいからとしか言えない。 今から17年前、ある会社の西日本統括部長で出張と接待に明け暮れていた頃。私は朝日新聞のこんな記事を切り抜いている。2003年3月1日土曜「病が変えた日本史」という記事。変な見出しだなと思って斜め読みしてみるとこれが意外と面白い。 平清盛1181年64歳でマラリア、電撃性しょうこう熱で死亡。現在では抗生物質で完治可能。もし亡くなってなかったら鎌倉幕府成立せず。足利義満1408年51歳でインフルエンザで死亡。現在では抗生物質で完治可能。もし亡くなってなかったら戦国の乱世はなかった。豊臣秀吉1598年62歳で消化器癌で死亡。現在では延命し5年はながらえた。もし亡くなってなかったら江戸幕府成立せず。 営業の最前線で右上がりの数字だけが宿命だったあの頃、私は何でこんな記事を切り抜いていたんだろう。当時の人々にとってこれらの事実はどれほどの驚きと、どれほどの変化を生んだ事だろう。先日、部屋の整理をしていて見つけたこの記事は病が本当に世の中を変えるんだと思い知らせてくれた。 今年、私は習慣と考え方を変えた。コロナが教えてくれた事を空手クラブの子供達には何度も何度も伝えている。すべては環境に如何に順応するかなのだ。最後に残るのは強い人ではなく環境に順応する人だと思う。
大野ひかる
12月13日 武道館で全日本空手道選手権大会が行われ女子型で8連覇を目指していた清水希容を抑えて初優勝したのが、大分の大野ひかる選手。彼女が同志社大学の学生だった頃のスーパーリンペイはキレがあって特別な存在に思えた。それから7年。ようやく全日本優勝。私が在籍していた頃の同志社大学空手道部は、しごきばかりで、試合の結果は近大、大商大、日大、京都産業大学に遠く及ばなかった。それが田辺に移転してから一変し全国優勝をするまでになっていた。その中心が大野ひかる選手だ。彼女は組手も強い。型は組手だ。圧倒的な威圧感は組手をやってきていないと表せない。それを大野ひかる選手は実践している。極真空手は剛柔流や糸東流、松濤館以上に組手重視。最近は極真でも型大会を頻繁に開催するようになってきたが伝統派空手が築いた80年の型歴史を埋めるには更の相当の熟成期間がいる。私の空手は大学時代の剛柔流がベースにあり、日本空手協会の矢原美紀夫氏に憧れ、雲手を何度も稽古した。極真を知ったのは京都の新京極に芦原道場が出来てからだ。剛柔流から極真への転身に違和感はなかった。極真も剛柔流と同じで基本稽古は三戦立ちで行うので似たものを感じながら、まっさらな画用紙に技の1つ1つを刻んで行った。芦原初代館長の下でサバキと肘、膝を覚え、城西で受け返しを練磨し、浜井会長の下で30人、40人と過酷な連続組手を経験した。