仕付け糸
子供達にもやはり10人組手が必要ではなかろうか。 何度立ち止まってもいいからやり終えたという達成感を味わってみる。 そんな積み重ねが必要だと思う。 昨日の昇段審査会を見ていて改めて、その気持ちを強くした。 そこに行き着くまでに何度もスパーリングを重ね 対外試合も経験し、怖さと痛さに慣れてくれば必ず完遂出来る。 逆に言うと10人組手に耐えられる子供に育てていると言ってもいい。 足立区の小4の子供が掃除の時間にふざけて雑巾投げをしてる内に殴り合いになって 1人が意識を失って病院に担ぎ込まれて1週間後に亡くなっている。 加害者の児童は小4と言えども170cm。腹や背中、頭を殴っていたらしい。 北海道では小2男子がしつけと称して山林に置き去りにされて1週間後に発見された。 足立区では1週間後に亡くなって、北海道では1週間後に生きて帰って来た。 イジメっ子が野放しにされ、しつけをはき違える親がいた。 きっとその親はしつけを受けずに大人になってしまったのだろう。 どちらも幼少期にしつけを受けていれば起こらなかったことかもしれない。 しつけとは着物を縫う時の仕付け糸から来た言葉だ。 着物が仕上げるために事前に縫っておくもの。 人も同じ。 親から仕付けられて人間としての形を整え、一人になっても形を崩さずやっていけるように なると、この仕付け糸はいらなくなるはずだ。 だから幼い時に覚えたことは生涯忘れないのだから、この刷り込み作業は 親として端折ってはいけいけない。 昨日、昇段審査に少年部の5人が挑んで見事に10人組手をやってのけた。 やり終えた後の泣き顔を見ていたら、言葉に詰まってしまった。 それほど純粋な涙に胸が打たれた。 この子達にとってこの10人組手は心に残る仕付けであったに違いない。 たぶん、そこに居た多くの子供達とご父兄方にも感動を与えたことだろう。 この空手クラブは、しつけを重視している。 この子らの10年後を観ながら指導している。 そこには泣き顔と汗と涙はつきものだ。
胎教プログラム
「次男にも胎教の本を買ってあげたら良かったかなあ?」 家内が唐突に切り出した。 IQの高い子供を産むための教材の事は、すっかり忘れていて そんなことがあったことすら私の頭からは消えていた。 26年前で10万円もしたということも、もちろん覚えてない。 家内が言うには「ばあちゃんに出してもらったのよ、そのお金。」 「頭のいい子が産まれたら塾に行かないだろうし、そしたら塾代が浮くから」 そう言って義母に出してもらったとは知らなかった。 家内は妊娠中、かなりの時間をその胎教の本に費やし、お腹の子供に話し掛けながら 一人でプラグラムにある塗り絵や平仮名を伝えていた。 私はというと「そうだったでしょ」と聞かれるまで事の全容は掴めなかった。 そのプラグラムのことは全く記憶の片隅にもなかったのだ。 その胎教プラグラムが本当に効果があったかどうかは分からない。 しかし、その子は確かに今年の医師国家試験に合格し医者になった事実だけは残っている。 5月29日、日曜の夜23:45、3月末に病院勤務になってから初めて彼の声を聞いた。 忙しい総合病院でなおかつ、体育会系だというレッテルが貼られている外科で 研修医生が始まったのだ。 いきなりの外科勤務ではさぞ辛かろう。 親として気が休まることはない。 アパートに帰れるのは月に3回ほどで、睡眠は3時間。 長椅子かソファーで夜を明かすのが外科だ。 先日、家内が、そんな空き家のような長男のアパートに行って掃除をしてきた。 聞けば、忙し過ぎる外科勤務なのに大好きな少年マガジンとサンデー、キングは 案の定、山積みになっていたらしい。 体力勝負の外科勤務でもマンガをいそしむ心の余裕があるとは何とも彼らしい。 ただ家内が26年前に胎教を素直に受け入れる気持ちがなかったら彼は別の人生を 歩んでいただろうと思う。私には自分の過去を振り返って辛い事はさせなくてもいい だろうと多少妥協してしまう所があった。しかし家内はお腹を痛めて産んだ我が子の 将来にはあらゆる事で妥協はなかったように思う。 つまり医者を創るのは、その子の母親なのだと結論付けても無理はなさそうだ。
17分7秒のスピーチ
自分はいつ死ぬんだろう?と悩む人がいた。 大腸がんが見つかった話をその人から聞いた。 滅入っていた。 それはそうだろう。 死を宣告されたも同然なのだから。 悩めば悩むほど気が滅入ってしまうに決まってる。 子供の頃に体験した身内のご不幸のトラウマが蘇ってしまうのかもしれない。 窮地に立たされた時や 気にしていなかった健康が損なわれた時 気持ちが落ち込んでいる時は、周りから隔離され 全ての人に見放されたように思いがちだ。 けど、まったくそんなことはない。 ひたむきに、まっすぐ生きていれば必ずどこかで誰かが観ていてくれる。 今日、そんな思いがふと頭を過った。 仕事の帰りだった。 テレビではオバマ大統領が広島で演説しているニュースが流れていた。 みんな生きている。 きのこ雲の下を生きて今日も広島は生きていた。 終わった人など居やしない。
魔法のランプ
電車の中で女子高生達が喋っていた。 「うちらさ、頑張るって似合わなくねえ?」 「つ〜うかさ〜、うぜ〜んだよ、そうゆ〜の」 よく見ると都内の有名校の制服だ。 目を閉じて言葉だけ聞いていると茶髪・ミニスカ姿に思えた。 努力とか忍耐という言葉は今の時代には合わないのかもしれない。 「本当にそうかな? 君達」、と聞いてみようかと思った。 人並みか、人並み以上に楽をして生きてみたいのだろうか。 お金持ちの旦那さんと結婚して人生をワープするんだと思っているのだろうか。 高校生が夢に生きるのも無理はない。 しかし人並みなことをしていたら、これから先、人並み以下の生活をすることになる。 それでもいいというなら、それは自由だ。 但し、その後の運命に不平を言ってはならない。 努力はしないし、忍耐は嫌いという人生を送って来たなら、それだけの結果しかもらえない。 それが今の日本だ。 そういう意味では日本は公平に出来上がっている。 神様がそうしてるのか分からない。 でも明暗の暗の部分があるから人は成長している。 苦痛に耐えて、屈辱に歯を食いしばってこそ次のお宝に出くわすものだ。 泥棒や詐欺師、犯罪を犯す人には、ある意味才能のある人もいる。 また学歴のある人もいる。 でも共通して、この「忍耐」という言葉には縁がない。 縁がないから何事も長続きがしない。 農家で作物を作っても、ビルや道路を作っても、漫画を描いても すべては忍耐や努力がないと続かないのだ。 だから「忍耐」さえあれば何とかなる。 この忍耐は心の中にあるものだから一旦手に入れたら盗まれるものでもない。 子供達に伝えてあげねば。 そんなアラジンの「魔法のランプ」は欲しくないかと。
蜂
子供達を観ていると日々成長していることに気付かされる。 水と酸素があって、太陽と愛情があるとすくすく育つ。 失敗したことを悔やまず 失ったものを数えず 幸運にも得られた事柄だけを大切に思い 良かった、良かったと生きて行けば その先が見えてくるから不思議なものだ。 与えられた偶然を見逃さないで素直に受け入れたらいい。 この空手クラブの子供達には、そう伝えて行こう。 そしてこうも付け加えねば。 東大などに受かっても喜んではいけないと。 東大を卒業し、国会議員や知事になっても決して喜んでは行けないと。 そこはスタートラインでゴールじゃないのだから。 いいことも、悪いことも、神様が決めていてくれるのだから。 昆虫は自分がしなければならない事を選ぶことは出来ないし その仕事が無意味で、自分の利益に反するものであっても文句は言わない。 夕方、駅のホームの列に蜂が舞い降りた。 サラリーマン達は手に手に新聞紙を握って蜂を打ち落として踏みつけようとしていた。 そこに高校生の男の子が出てきて、サッとノートをかざすと蜂をすくい上げ ホームの端の草むらに逃がしてあげた。 昆虫たちは情け容赦のない宿命的な戦いの中で今日も活きている。 さあ、君達もこの先の事は心配しないで自分が持って生まれた運に任せて 精一杯生きてみないか。 無駄な命などどこにもない。 全てに役割りがあるように君にも大切な役割りが有るのだ。
得をしようと思わない
お金の話はやはり低次元の話だ。 でも確かにお金がないから苦労することもある。 子供達の学費、住まいのこと、そしてたまの食事会やお付き合い。 世の中の夫婦喧嘩の多くは、このお金にまつわることが少なくない。 だから、貰えるものは貰っておかないと損だという気になる。 歳を取ると尚更かもしれない。 介護保険料を払ってるんだから、介護をどんどん受けなければ損だという。 そんな言葉をよく耳にするし、ある程度理解も出来る。 昔の日本人は教育レベルは今のそれよりも低かった。 でも精神の浅ましさはなかった。 だから、心が腐らないようなことはことくらい決めておかねば。 その一つは、「何かの選択がある時には得をしようとはおもわないこと」 そんな他愛もないことかもしれない。 子供の教育と同じで、あまりに子供にベッタリせず、子供の失敗にも距離を保つ事。 あまりに近づきすぎて、毎日一緒にハラハラドキドキしすぎると子供はいつも 親の顔色を伺うようになり、親に助けを求めるようになる。 最後は親に泣きつけば、いいよ、いいよと回避策を授けてくれさえする。 これでは性根の座った子供は育たない。 子供を育むとは、ある適度の距離を保って見守るに限る。 お金の乞食根性は、教育の仕方にも出てしまう。 だから何事も頓着し過ぎず生きて行きたいものだ。
半分半分
今日の昇級審査会で素晴らしい組手をいくつも観た。 真剣に生きる顔をいくつも観た。 泣いた顔も。 苦痛にゆがむ顔も。 そして安堵の顔も。 人生には、いいことも悪いことも半分づつ訪れる。 苦しいことや辛いことがあれば、不思議に楽しいことや嬉しいことが付いてくる。 辛く単調な空手の基本稽古と移動稽古。 恐怖感と痛さのスパーリング。 空手はどれをとっても楽はない。 そんな稽古の極めつけは組手だろう。 怖い、痛い、悔しい。 そんな泥沼に足を踏み入れて何が面白い? そう、面白い訳がない。 でも、その泥滑の後には、決まっていいことがふって湧いてくる。 人生、良し悪いが半分半分だとしたら 悪い方を先取りしたらあとはいいことしか残ってない。 そういう意味では空手は苦労の先取りではないか。 良いことも悪いことも、降っては湧きあがる中に私は今日も生きた。 今日がそうであったように私は明日もそうやって生きているだろう。 多くの子供達にもその半分半分の原理は伝えてあげねば。 運命が傾きかけている人にも伝えよう。 この居心地の悪い世の中だからこそ伝えねば。 人は何をするのか、何をしたのか。 それが人の運命を変える。 いったい昨日の君は何を思って、何をしたのだろう?
ベッキー
家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず 法あれども正しきを得ず 冤あれども誰にか訴えん 68年前、40歳の女性が言われなき疑いを掛けられ孤独な死を迎えた。 果たして、この世の中の事柄が正しい判断などで成り立っているのだろうか? 果たして、自分に関わっている人々から自分は正しく理解されているだろうか? それは誰も分からない。 人は神様ではないから。 間違いも当然ある。 ただ誤解されたとしても、それは堂々と生きねばなるまい。 人の評価を気にして、人にいいところを見せようとして生きている人は どことなくぎこちない。 自分が気にいられようが嫌われようが自分は自分なのだ。 この嘘つきめがと神様に言われるまでは、正々堂々と生きて行きたい。 冤罪のない世界はない。 人である以上、それは付き物だ。 それにもまして生まれながらに持っている原罪もある。 自分は何も悪くはないのに、その存在自体が不愉快だと言われる類のもの。 人は人を傷つけ、逆に傷つけられるもの。 だから、それに打ち勝つ強い精神を育むだけで片ずけられる。 逆境の後の快復は痛快だろう。 人目を気にせず 井戸の底にロープを投げ込むことはなお痛快だ。
頃合い
すべての物には旬がある。 生まれる時があって、死ぬ時がある。 出合う時があって、別れる時がある。 物には寿命があるように、時にも寿命がある。 黙っている時があって、語る時がある。 もう少し早く出会っていたら結婚していたのにと思う相手が居ても それは叶わぬこと。 イチゴには食べ時があって青いイチゴは苦くて食べられない。 健康がにわかに消えうせ、ベッドに横たわる。 もう終わったかとあきらめて、天井を眺めていると 回復した身体が戻って来る。 もうだめだと天を仰いだ時から、時計の針は廻りだすものだ。 人生、こんなものなのだろう。 それぞれの旬を見抜く力がいるだろうし。 それぞれの頃合いを感じる五感もいる。 出会いは戻らない。 一瞬のもの忘れから、躊躇する時間が生まれ その一瞬のずれで新たな出会いに巡り合う。 出合うべくして出会った必然がそこにある。 その一瞬は計って創られている。 朝、出かけぎわに、靴の紐が切れる。 焦っていてもバスは待ってくれずに遅刻する。 そうなるように計られている。 それに気づくのは1カ月後か、半年か1年後。 長い目で振り返れば、それがよく分かる。 そうなるようにしてなった今を視ると 良くも悪くもない人生などないということが分かる。 良くも悪くも満載なのが人生だ。 猪瀬氏と同じように舛添都知事にも、そろそろ頃合いが来たようだ。 そんな頃合いを駆使する週刊文春にも、頃合いが見えた気がする。 人生、良くもあれば悪くもあるものだ。 週末に出会う子供達には、そのことを伝えておかねばなるまい。
風の電話
12月31日の木曜。 明日から来年で、今日が去年になった夜。 今年は穏やかな年であって欲しいとぼんやりと思って眠りについた。 ふと気が付くと、あれからもう4カ月と21日が過ぎていた。 今日、3月に間違って録画したNHKの番組を観てみた。 「風の電話」。 そこには津波の被害を受けた大槌町に残された人の声があった。 亡くなられた方が今もそこにいるような感じがした。 今年、阿蘇の山と阿蘇の神社がこんなになるとは思いもしなかった。 風の電話。 また話したかろう。 大槌町も熊本の街も、阿蘇の山も。 思い悩んでいる人もいる。 今日、答えを出さなくてもいい。 それを先延ばしにするってことも知恵なんだから。 ある朝、突然ものの見方が変わってしまうことだってある。 静かな夜は雨模様だった。 残された人たちの声が忘れられない。