柿八年
桃栗三年、柿八年とはよく言ったもので、自然界の鉄則です。 そして、こういう見方は人間にも同じように 言えるかもしれません。ダンプのような人、軽四輪の人、スポーツカーの人、ワンボックスカーの人。 人はそれぞれ持って生まれたものがあるのでしょう。それを見誤っては人生棒に振ることもある ように思えます。 そういう目で見ると、人によっては桃や栗の人もあれば柿の人もいるという事です。 柿は栗の真似は出来ない。 自然の柿は悠々として柿そのものの生命を生きている。 悠々と生きて その時期を待っている。 ただ、この「待つ」というのは、漠然と時間を過ごしながら待つのではなく 一時一時を大切に生きると言うことが大事なのだと思います。 今日という日を平然とやり過ごし 平気で粗末にしているようでは、花が咲くころなど永遠に来るものではないと思っています。 一日一日を大切に一所懸命生きてこそ、時期が来れば実がつくのだと思います。 それが桃と栗は 三年、そして柿は必死に生きて八年目のことです。 自分の立ち振る舞い、発言などを振り返ることも なく、懺悔の念などお門違いなどと思って生きる、よこしまな人や怠け者には清らかな花を咲かせ、 実を結ばせるような時期は永遠に来るものでない。 横浜といえども青葉区には、まだ畑も残っていて家の側の裏山に真っ赤な柿を観ることが出来る。 私は、それが黄色い花を咲かせた時も、青々と葉っぱをお天道様に向けていた時も、そして葉を落とし たわわに実る真っ赤な実をつけた時も、観て来ました。 そしてその柿の木が栗よりも五年も遅く 実をつけることなど頓着なく精一杯活きて地面にしっかり根を張った姿を私は決して忘れない。
借りもの
以前は「戴きます」も言わず、何も気にせず食事をし、トイレも億劫に感じながら用を足してました。 食べ物を食べて、必要な栄養分を吸収して、余分なものは排泄する。 動物はみなそうしてます。 何でもないことのようですが、そうでもないのではと最近思うようになって来ました。 自分の知らない うちに胃や腸、そして心臓も肝臓も、はたまた膵臓というものまでも、私の身体には、様々な臓器が 出来ていて、それらが全力を上げて懸命に働いてくれている。 私が起きていても寝ていても。 しかし、これは自分でそうしようとしても出来るものではありません。そう思うと、自分の身体だから 自分のものと思うのは、大きなあやまりのように感じ出したのです。 その証拠に自分の身体だと 言っても全く思うようになりません。こんな時に病気になりたくないという時に限って熱が出ます。 ここは踏ん張ってと思う時にお腹が下痢をします。 くしゃみなどはしたくもないのに出ます。 そして死にたくない時に死ぬのでしょう。 自分のものだと言えるはずありません。 それを勘違いしてるから、不足や不満も、そして粗末にも扱ってしまうのだと思います。 この身体は、少しの間、お借りしてるだけだと思わねば、私は自分の身体を粗末に扱い、無理を 重ねてしまいます。そんな自分がいることに気付きました。 たとえそれが傷だらけで言う事を聞かない ポンコツな身体であったとしても、感謝をして日々大切にして、お返ししなければと思うのです。 健全な精神は健全な身体に宿るといいますが、あながちそうでもなさそうです。健全な身体を 持っているのに悪事に手を染める人は数え切れません。 ならば健全な身体でなくても日々感謝 をしながら生きて、普通に暮らせることをありがたいと思わねば罰があたるのではないかと思うのです。 深呼吸が出来るのも、飲み物が飲めるのも、道を歩けるのも、夜寝れるのも、気持ちのいい朝を 迎えられるのも、おいしいものを食べるのも、そして普通に用を足せるのも、有難い。 そんな時に私は心の中でいつも思っています「合掌」とは、こういうことかと。
31回北信越大会
毎年秋に行われていて今回で31回目を迎えた浜井派の大会がある。子供やシニア、女子の部を 写真は大会会長の羽場本部長。 いれると参加人数が650名にもなる北陸で最大の大会です。今回は中国からも2名の参加があり ました。 ジャン・ハイビンとスン・ロンチェン。野性味のある二人でガッツのあるいい選手。 この写真はジャンが顔面殴打を入れてしまった瞬間。カウンターで入ってしまいました。そして次の 写真はスンの上段跳び膝蹴りで一本勝ちのあとの写真。 左の内もも、ボディーへの右の膝、左の膝、そして再び右の膝のあと顎へ。相手の選手は4段。 わずか10秒で気絶したまま丸太が倒れるように前のめりに倒れてしまいました。 スンは181cmで85kg。ばねがあっていい選手です。何より20代で若い。 後列左から2番目がベスト8のスン、後列右端が浜井代表、そしてその左が敢闘賞のジャン。 優勝は桝田弐段。 来月、上海大会に出場されるようです。 是非、そこでも優勝を狙って頂きたい と思います。あと今回は女子にもいい選手がいました。 圧力をかけながらの下突きがいい。 審判団も強い人が多いです。一番左は松井派の重量級で2年連続で準優勝の中川先生。今でも 強い方です。スンの脇腹が万全ではなかったのは、中川先生とスパーをやったから。そして 聞けば、今は新極真の選手の出稽古も快く受けてらっしゃるようですが、その方とのスパーで は顔面パンチが入ってしまい、前歯が歯ぐきの奥に刺さって奥の方で折れたとのこと。 いや、長野の新極真の選手も災難です。100kgを超える中川先生の右手の包帯はその歯を折った ときの傷。 以前私が在籍していた東京城西の道場にも同じくらいの体型の先輩がおられました。 186cm120kgの吾孫子先輩。試合前には絞って100kgに落とされてましたが何をやっても効かない 熊のような方です。100kgを超える方とのぶつかり合った衝撃は半端ではありません。 中国の 上海大会もそんな100kgを超える選手がいるでしょう。しかし桝田選手には是非華麗な足技で 勝ちあがってもらいたく思います。
医学部 その12
涼しさ、寒さを感じると、何だかそろそろまた始まるっていう気持ちになります。 医者が本当にいいのか それとも要領よく生きる方がいいのか、それは全くわかりません。 幸福に暮らすとは年収や肩書で 計れないものなので。 しかし親として子供の将来を考えた場合、医者はより安定した職業であるように 思えるのです。 しかし子供への教育費から考えると理系より文系の方が安上がり。であれば 文系で優秀な成績を収めてくれて大学を出たら銀行員になってくれるか、はたまた総合商社にでも 入ってくれた方が親としては楽かもしれません。 20歳台では勤務医にはかなわないにしてもUFJの 支店長か、物産の部長、課長クラスにでもなってくれたら勤務医と同等の収入にはなっているはずなので。 ならば、その方がいいに決まってる。でも実際には、そのポジションって意外と難しい。 頭の良さも 必要だけれど体力とお酒の強さや、人付き合いの良さや、機転がきくなど学校で習わないような、その人 の人間性が試される職業なのだ。 簡単に言うと東大を出たから必ず出世すると言う訳ではなく 売れッ子の芸人のような利発さと不屈の精神がいる職業なのかも知れません。理系の我が子は、 間違いなくそんなタイプではない。 それならばコツコツ医学の道を極めてもらうしかない。 そしてまた、今は、こうも思っています。 我が子が小学生低学年だとしたら、どういう道を歩ませるのか? と言えば。やはり医学部です。 しかし一般入試は避けます。 間違いなく付属校に入れて偏差値の難易度を下げた門をくぐらせて あげたい。 ただひたすらそう思っています。 ならばどこへ。 お金があるなら東海大浦安、東海大相模でしょう。東海大医学部学費が高いのですが20名の内部推薦枠 があるのですから。 偏差値も高くなく医学に触れる、比較的平坦な道があるのです。その20名枠の 85%をこの2校が占めているので、選択肢の一つと言えます。 あとは長野日大、日大豊山、日本大学 (日吉)が16名の日大医学部の枠を60%を占めます。 しかし内部推薦が多いのは断トツで慶応医学部。 慶応の枠は43名ほど。外部から入ってくる一般入試組とは明らかに学力の差があるというのは もっぱらの噂。でも入ってしまえば同じではないかと単純に思います。 2014年度の慶応医学部の 難易度は駿台、河合、代ゼミの平均で割り出した数値では東大に次ぐ2番目、3番は京大、4番阪大。 つまり慶応医学部一般入試の合格者は開成、灘、麻布、双葉などを出た生徒。つまり慶応の生徒が 高校入試で入れなかった学校の生徒たちなのです。 だから大変狭き門になるわけです。天才の 集まりかも。 内部推薦枠43名との差は歴然。でも慶応医学部には変わりなし。 ならばこの路線が いいのでは。 日大の推薦枠は15名。倍率・偏差値ともに意外と高いのです。 しかし慶応高校ならば 日吉からは22名、志木は7名、藤沢も7名、女子は5名も。 しかし、一番行かせたいのは慶応 ニューヨーク学院校。 ここは2名しか枠がないのですが理系が10名ほどしかいないのです。 そこで 医学部推薦は2名枠も。 あまり知られていませんでした。 ここは親が日本に住んでいてもいいのです。 穴場とはこのこと。 今、我が子が小学生低学年であったら私は間違いなくここを受験させるでしょう。 その為には英語だけは慣れ親しませておきます。子供の為には、医学部一般入試の苦労はさせたく はない。これが本音です。 それほどキツイものがあったと我が子の医学部受験を観ていてそう思い ました。 その長男はまだ4年生後期に在学中。 まだまだ、ハラハラドキドキさせてくれています。 ピークは2016年3月の国家試験の結果発表。 あと2年半で順調にその時を迎えてくれることを 祈るばかり。 土日に出会う多くの子供たちの中で、何人かの子供には、その道の可能性を感じる時が あります。 そんな時には「大きくなったら何に成りたいの?」と聞くようにしています。 ただ漠然としたもので終わらせるのではなく、より具体的なものにしてあげるために。
二千日回峰
比叡山の山中を7年(1000日)かけて地球を1周する4万キロを踏破する荒行が千日回峰行。 700日目にはお堂に入り断食、断水、不眠、不臥を9日間行い不動真言を10万回唱える。 この間 体重は15キロほど減ってしまう。介添え役や一緒に読経をする僧侶が20人とお堂に入る。 その後 6年目からは比叡山の山中の回峰に加え京都の赤山禅院への往復が加わり1日60キロの行程を 100日、7年目は200日を巡る。その100日の前半は京都大回りで毎日84キロ、後半の100日は 元通りの山中で30キロをめぐり満行となる、すさまじい荒行のことを言います。 ここまで来るのも 大変なことですが、実はそれまでに「十二年籠山」を達成しなければなりません。 標高800メートル の比叡山で12年間下山せずに生活するという行。 その十二年籠山を達成した僧侶が願い出ると 比叡山幹部会議が執り行われて千日回峰可否を決めるようです。 織田信長公が比叡山を焼き討ち してから400年で満行者は47名。 その行を2回終えた方は3名しかおられません。 その内のお一人、酒井雄哉大阿闍梨様が昨日2013年9月23日午後に亡くなられました。 47歳で千日回峰を始められたのが73年のこと。私がテレビでその様子を見たのは79年1月。 ちょうど21歳のころでした。 日本にこんなことをされる人がいることに衝撃を受けたのです。 極真空手との出会いの前後です。 ただただ凄いという思いでした。 こんな方に出会えることは この先も、ないだろうともぼんやり感じていました。54歳で満行。そしてそのまま2回目の千日回峰へ。 そして60歳で2回目も満行されたのは1980年のことでした。 私のストイックなトレーニングは、間違いなく酒井雄哉大阿闍梨の後ろ姿を観てのこと。 昨日は、私自身一日外に居て、「寒い、寒い」と思っていました。 来るべき時が来たという思いと 大変残念な思いが入り混じった複雑な気持ちです。 9月23日は、二千日回峰を成し遂げられた方が旅立たれた日として忘れられない日となりました。
BLACK BELT
WHAT IS KARATE? WHAT IS BLACK BELT? You will know all of it in the movie " kuro Obi " Subtitulada en Español (completa) You can join the karate lesson in YOKOHAMA/JAPAN. PHONE / 080-6781-6658 Mr.Tanaka Call me soon!
桜台の帝王
「桜台の帝王。いやぁ、みたけの組長ったぁオイラのことだい。 腹だしユウちゃん、なんて呼んだ日にや 許さねえからな。 でもオイラと仲良くなりてえなら、聞いてやらねえこともねえよ」 「いくら腹を出しているからって、惚れちゃあいけねえよ、オイラも忙しいんでなぁ。横向くとこんな感じ」 「いくら小学生相手でもオイラ容赦しねえんだ。 ほらね、手も足も出ねえったぁ、このこっだぁな」 「でも、たまにはこういうことも」、「でもこれ、泣いてるんじゃぁねえぞ」、「ゴミが目に入っただけよ」 「ほら、この通り」、「男はつれーよ」、「みたけの組長だもんよ、泣いちゃあいられねんだよ」 「さあ、もういっちょ、いくか」 「隙があったら、かかってきなぁ~」 「いや、ちょっと、痛えじゃねえかよ~、やめろってんだい、痛いって」 「桜台の帝王にかかって来るなんて、根性あるじゃねえか。まあ今日はこれくらいにしといてやるか」 「まあ、こんな感じだよ。なんなら一緒にやってみっかい。オイラの指導は、ちい~と厳しいぞ」 「稽古が終ってもオイラはいつも元気いっぱいだよ」 「桜台の帝王ってみんなは言うけど、一人だけ叶わねえんだよな」 「ママ~、アイス頂戴~」、「ちゃんという事聞くってば~。ママ~。」 この桜台の帝王が、いつの日か極真の黒帯を締めてくれることを願ってやみません。
49年後
5歳~11歳くらいの子供たちの中には泣きべその子、お調子もの、我慢強い子、自由奔放な子。 そしてこの子供達を見守るご両親たち。 子供達を見詰める心配な眼差しに自分自身を重ねて しまうことなど実は度々あって、懐かしくもあり、お母さん、お父さん、もうちょっと我慢ですよと 言いたくなる場面も多々あります。子供の稽古で親が我慢するなど変な話ですが、声をかけたくなって しまうし、叱咤激励の気持ちで背中を押してあげようとするのも親心。 分かっています。 でも、子供たちは、そこの峠を越えれば成長する、その局面を乗り切れば一回り大きく成ると 創造出来るときには実は親御さんは傍に居ない方が子供のためになると思っています。子供たちは 自分の力で急な坂道をよじ登って行けるのです。 その達成感が自信につながるのだと思います。 昔、いくら突き方を教えても猫パンチしか出さない次男に、このまま空手をさせていていいものかと 自問自答していたのは、もう12年も前の事。そしてその子が5年生の時に試合に出ようとしていた 前の晩。張り切り過ぎて熱を出して結局、試合に出たのは6年生の時。 しかし、その次男、初めて出た試合で対戦することになった相手は前年度の全日本ベスト8。 いきなり、こんな相手が。運の悪い奴だなと我が子を憐れんでみたものの、今更逃げるわけにも 行かず、そのまま試合に出させました。 私の立てた戦略はこうでした。 相手は蹴りが上手いから 必ず試合開始と同時に上段蹴りが跳んでくるから、それはかわすこと。 あとは小学生は腹筋が まだ出来あがってないのでボディーへの攻撃を集中すること。これだけを伝えて背中を押しました。 予想はまんまと的中。 世の中分からないものです。 観客の予想に反してボディーを下突きと 前蹴りで強打すると、次第にベスト8の子供は顔をゆがめ半泣きで堪えている状態に。 試合に初めて出た次男は、これで本戦で勝ちを修めて戻ってきました。 子供より私の方が信じ られない勝ち方でした。 親は試合の中には入ってはゆけません。 試合場に立てば大人も子供も一人です。 自分で やるしかありません。 そんな経験を子供は見事にやってくれてその成長ぶりを見せてくれたのです。 ある日出くわす子供の成長は、度々味わえる訳ではなく、そしていつ味わえるのかもわかりません。 しかし間違いなく出会える、その瞬間を楽しみにして頂きたいと思いながら日々指導しています。 他の道場に顔を出す機会があると昔、中学生だった子供が高校に。高校生だった子は社会人に。 面影はあっても別人のようです。もちろん突きも蹴りも威力が格段に違う。 そんな時にこの子も 人知れず努力して頑張って来たんだと感じます。 子供達は日々成長している。 目には見えない 程度だけれども日々考え方も変わり、体つきも変わります。 昆虫のように脱皮したり、さなぎに なったりしないので、近くで一緒にいるとその変化が分からないだけです。 人間はその場に留まらず間違いなくプラスにもマイナスにも変化しています。そして感動したことは、 いつまで経っても忘れないものだとつくづく思います。 先日NHKで7歳の子供達を7年ごとに撮影し現在56歳になっている人たちのドキュメンタリーがあり ました。 良く撮れたものだと思います。 それも49年間も何人かの行く末を追い続けるなんて凄い。 引っ越しをして結婚・離婚を繰り返す人。 昔、子供の頃に語った自分の夢をそのまま実現している人。 様々です。 現在のその人の映像と子供の頃、高校生の頃、大学生の頃の会話、その後、職に 就いた頃の会話。 一人の人生がそこにありました。 そこに映っていた子供たちは思っていた ような人になって、そういう人生を歩んでるのです。 やはり人間、幼少のころ、小学校のころの 純粋な心にどんな人生を描いてあげるか非常に大事なんだと思います。 日々子供は成長しているので、その子供達に感動を与え、そしてそうなりたいと思わせる紙芝居 を見せてあげていると、純粋な心であればあるほど、やはりそうなるものなんだと、あらためて そう思いました。 私は子供にはお節介を焼くのが好きな方でしたけれども、今思うのは、それはマイナスであって、 子供にはあまりあれやこれやと世話はやかない方がいいということ。 それとただ、将来の紙芝居 を見せてあげるだけで十分、子供は理解し自分で心に焼き付けて行くものだと思っています。 長男が7歳のころ医者のいいことばかりを話してました。 14歳のころ、夢をあきらめそうになって いました。21歳にころ、まだ夢の途中です。 来週長男は24歳。その夢が実現するのには、まだ あと2年半が必要です。 その夢が叶うまで、あまり近づきすぎないで見守っていようと思います。
スーパーリンペイ
8月は型と移動を中心にした稽古。 稽古の中で話をしたことは三戦(サンチン)の立ち方。 後屈立ち、前屈立ち での移動の仕方。 この基本を伝えることが実は過去には十分には出来ていなかったので解説をして行きました。 元々極真は大山総裁が松濤館で空手を学び、剛柔流を学んだ中で創られた直接打撃系の流派です。 その為、型の多くは剛柔流に由来してます。 私が大学の時に習っていた剛柔流の型と現在の極真の型は微妙に 違ってました。 大山総裁の転掌の型を観た時に、そのスケールの大きさに剛柔流との違いを感じたものです。 剛柔流には太極、平安という型はありません。これらは松濤館や和道流から来ているようです。 そんな型の中で 私が一番好きなのは剛柔流の征遠鎮(セイエンチン)と、憧れでもあるスーパーリンペイ。 しかしこのスーパー リンペイは私は出来ません。 何故ならこの型は極真にはないのです。 この型を教えてもらえる師範も極真には いません。 ただ自分の型にして行きたい。そういう憧れの型でもあります。 全空連の型の決勝の多くは剛柔流 か糸東流の方々が占めています。 どういう訳か型の決勝はこの2つの流派から出るケースが多かったと記憶して ます。 それほど、この2つの流派の型は素晴らしい。 私は極真のセイエンチンではなく糸東流のそれが好き。 キレがあって、空手らしいと個人的には感じています。 スーパーリンペイはいつの日か自分も出来るようになりたい と思う憧れの型。 極真空手をやっていると、このような事が意外と疎かになってしまうと思い、この8月は伝統的な 稽古、型や移動の在り方などを解説し伝えてきました。 そしてやればやるほど奥が深く、まだ修行の途中である ことを強く感じた夏でした。 広い体育館で蚊取り線香を点けながら型稽古をやった夏もそろそろ終わるのかと 昨晩の虫のなき声で感じました。 虫の声はもう秋のようでした。 伝統空手の四大流派 剛柔流 (ごうじゅうりゅう) 那覇手出身の宮城長順が創始。その名称は、長順所有の拳法書「武備誌」の中にある拳法大要八句の「法剛柔呑吐」から取られた言葉に由来している。 松涛館流 (しょうとうかんりゅう) 首里手出身の船腰義珍が創始。義珍は本土空手の父と呼ばれるが、本人が流派名を名乗ったことはない。昭和14年、義珍の書号「松涛」を冠した道場「松涛館」設立。その松涛館出身の義珍の弟子たちが名乗った流派名が松涛館流である。 糸東流 (しとうりゅう) 琉球唐手三系統を学んだ摩文仁賢和(まぶに・けんわ)が創始。琉球唐手のすべての技術系統を網羅した流派が糸東流である。当初は「摩文仁流」という名称だったが賢和が大日本武徳会に“練士”の称号を授与されたときに「糸東流」と名乗ったのが最初。ちなみに“糸東”とは、賢和の師である、糸洲、東恩納の二人の名字からとった名称である。 和道流 (わどうりゅう) 四大流派のなかで唯一、本土出身者によって創始された。創始者の大塚博紀は、元々は神道揚心流の柔術家であったが、船越義珍に学び、本部朝基や宮城長順とも交流。空手と柔術の長所を取り入れ、和道流空手として創始した。
根気
組手やスパーリングは心の強さを養います。 型は基本を整え、根気を養います。 その為、この空手クラブは、空手の技を伝えながらも、実は「心の強さ」と「根気」を養うための場 であると考えています。 もちろん「気合い」も大事。 気合いとは「気持ちの勢い」のこと。 生きて行く上でやはり 大事なことです。 気力もしかり。 気力とは何かを行おうとする精神力のこと。 この空手クラブでは、こう言う目に見えない「気」に関わることに着目して指導を行って います。 何故なら「気」とは生命力を与えるエネルギーであるから。 この「気」というものを年中さんから低学年の間に養うことが出来れば、そして自ら「物事に 飽きずに耐えうる力」を備えられたとしたら、その子の足元は明るい灯で照らされ、如何なる 困難にも立ち向かい、それを乗り越えて行くことでしょう。 根気とは物事を飽きずに長くやり続ける気力のこと。 不可視のパワーであり分厚い岩盤をも貫き、目標への道を切り開いてくれるもの。 だとしたら自身の人生が遅々とした歩みであったとしても決して忍耐を崩してはならないのです。 卑しい心の持ち主は、不出来をその環境のためであると考えます。 自分の環境とは自身の心を映す万華鏡です。 その鏡の中で刻一刻と変化する多様な 色彩の移り変わりは、動くことを止めない自身の心と思いの数々が絶妙に投影されたもの。 心の中で繰り返し巡らされる思いは、たとえそれが良いものでも、悪いものでも、その人の 人格と環境内で、それ自身の結果を寸分の誤差もなく発生させてしまいます。 つまり人間が自分の思いを完璧にコントロールすることが出来るのであれば、それを根気よく 全うすべきです。 気高い夢を観ることです。 自分の理想は、自分の未来を予言するものに他ならないのだから。 根気はそれを成し遂げる原動力だと信じ、それを幼き頃に養うしかありません。