昨日は長男の大学で医学部の卒業式が行われた。 その後、場所を目白の椿山荘に移して謝恩会が披かれた。 参加していたご父兄の内約7割は医者だ。 医者の奥様達の半数は和服で極めていた。 やはり日本人の女性には和服に勝るものはない。 この大学の現役111人が医師国家試験を受けたが結果は110名が合格。 1名だけ国試浪人となった。 国試は2月6日から一般問題、臨床実地問題、必須問題に分かれ3日間にわたって行われた。 その結果、その学生は必須問題で1点だけ足らなかったという。 それで今年1年を国試浪人として送ることになる。 たった1点。 されど1点だ。 一人だけ落ちたその学生も卒業式と謝恩会に出ていた。 辛かっただろう。 57歳にもなると1年の違いなんて、左程大きなものではない。 しかし25歳では人生と神様を恨むかもしれない。 たかが1点。 それが重い。 彼よりも成績の悪い人がその試験に受かっていたから尚更だ。 喜んで謝恩会ではしゃぐ若者達は彼に拍手を送っていた。 10年後、20年後、いや30年後、この学生はどういう人生を送っているだろう。 来年、彼が医者の扉を開けて一歩踏み出したとしたら、人の痛みを知った医者になるのは間違いない。 多くの弱い立場の人を助けてくれる医者になるかもしれない。 神様は、幸運を与える時には遠回りをさせるものだ。 今日、空手クラブの何人かの子供達に伝えたことがある。 「世の中、すべてこの1点差で決まる。」 「運よく滑り込んだ人生がいいとは限らない。」 「人生はマラソンだ。」 「挫折から何かを学ぶ人であるのか、挫折から人生を恨む人であるのか。」 「神様は可能性のある人には試練を与える」 子供達には難しい話だったはずだ。 多くは、何を言っているか分からなかっただろう。 でも、それでいい。 ただ真面目に何かを伝えようとしている大人がここにはいるのだ。

今日のこの日をどれほど待ったろう。 2月6日から三日間の試験はインフルエンザにかかっていやしないだろうか? 仕事をしながら、そして空手の稽古をしながら、ずっとそんなことを考えていた。 長男の中学入試では、志望の学校に合格するように祈った。 医学部入試では、どうぞ一校でもいいから受かりますようにと祈り 入学したら、留年などしませんようにと祈った。 しかしいくら祈ってみても勉強を疎かにした学生は留年するのだ。 神様は居ない、そう思って諦めた。 留年した翌年は、それこそ進級出来るように祈っていた。 体力勝負の三日間の卒業試験でも祈った。 どうか力を出し切れるようにと手を合わせていた。 そして医師国家試験が無事に終えられるように祈って 今日を迎えた。 第110回医師国家試験の合格発表は2016年3月18日 午後14時と決まっていた。 長男がお医者さんになりたいと言いだしたのは小1の6歳の頃だった。 振り返ると、その夢を実現するのに20年もかかったことになる。 14:02 メールが来た。 「合格してたよ」 今、長男は成田に向かっている。 オーストラリアに行くらしい。 6日前に他界した義父は今日のこの結果を知っていたのだろうか。 現在が変われば将来が変わる。 だから今を変えるんだとこの空手クラブの子供達にも言って聞かせてきた。 しかし、今日のこの日を迎え、それが間違っていることに気づかされた。 現在の心境が変わるだけで、忘れていた過去の楽しい記憶も思い出されて来たのだ。 そうだった、中高一貫校の受験や医学部受験は、決して辛い坂道ばかりではなかった。 現在が変われば将来も、そして過去も変わるのかもしれない。 長男は少々回り道をしたけど、それが彼らしい。 多少の寄り道があればこそ、より人間味のある人生を築いてくれることだろう。 春、門出の季節がようやくうちにも来てくれた。 今日は新たな未来と忘れていた過去に乾杯だ。

春三月は何かと忙しい。 卒業式に、転勤、転居。 桜が咲くころの入学式の準備。 制服がある学校は、その採寸もやらねば。 涙あり、笑いありの梅の季節は気忙しく過ぎて行く。 そんな中、お世話になりっぱなしの義父が昨日3月12日朝7時過ぎに肺炎の為、息を引き取られた。 義母は4年前のロンドンオリンピックが開催していた8月にお別れしている。 膠原病だった。 この二人なくして長男の医学部の卒業はなかった。 その長男の医学部卒業式まであと2週間を残すところだった。 経済的に援助してくださった義父も義母も今はこの世にはおられない。 空は、曇って肌寒かった。 昨日の稽古で出くわした子らの顔を観ながら、その子たちの10年後の顔を覗き込んでいた。 真っ当であれよ 辛抱強くあれよ 運に恵まれる子であれよ そう思いながら幼き子らの顔を観て居たら、あっという間に時が過ぎた。 今日は空手の演武会。 あれをこうやって、これはこうやってと考えていたことの半分も整理がつかないまま 当日を迎えてしまった。 困った。 自分の演武をどうするかまで正直なところまったく頭が回ってなかった。 そんな折、一本のメールをもらった。 見ると久しぶりの名前だった。 聖光学院3年生。 現役で東大理科1類を受験した秀才。 メールは無事合格した報告だった。 昨年夏以降、東大模試はずっとA判定をキープしていたからたぶん大丈夫だろうと 思ってはいたが、実際に結果を聞くと安堵する。 彼は昨年9月まで空手の稽古を続けながらも、勉学も怠らずいいバランスを維持したと思う。 10月から約5か月の集中勉強で東大理科1類合格だった。 すべてはバランスのようだ。 空手に偏っていては相当なプロになる以外は飯が食えなくなってしまう。 だから稽古の終わりには、必ず生き方、勉強の仕方の話をする。 幼稚園児や小1には飽きてしまう話だ。 指を嘗めたり、ゴソゴソしたり。 それもしようがない。 見ていてそう思う。 でもいずれ分かる時が来るから、その子たちの成長を見守らねば。 人の心には、一人一人の花があって、形や色は様々だ。 大事なのは、その花を啓かせることなのだろう。 誰しも、精一杯に生きようとする力があって、力いっぱいに咲き誇ろうとしている。 その蕾を見出し、開花させねば。 そんな思いを胸に抱いて、いつも子らを看ている。 春は、何かと忙しい。

春を見つけた。 庭のあじさいに蕾が見えた。 春が来た。 夏が過ぎて、秋になったら、冬が来ていた。 そしてまた、春を見つけた。 ずっと同じことを繰り返してきた気がする。 でも去年の春より、庭のあじさいは大きくなっている。 1年生が6年生になり、2年生が中学1年生になる。 この5年間で子供達も大きく成長したようだ。 風邪を引いて熱を出して、怪我をしたり、泣いたり、笑ったりしながら大きくなった。 でも、せっかく医者になっても、医療報酬詐欺で逮捕された女医が居たり 進路指導の面談を廊下で行い、間違った調査資料を元に、1人の中学生の 人生を終えさせた女教師が居たり そして陸前高田市で卒業式を待つ小学校6年生が居たり 自宅も職場も失い、家族を失い、どん底を味わった人が居る。 人生のどん底を味わった人と人生の快楽を謳歌した人が居る。 どっちが良かったんだろう? これから先を見ると、どんな5年が良かったんだろう? 一体全体分からない事ばかりだ。 ただ間違ってない事がある。 それは人間、どん底を味わって初めてDNAが覚醒するという事だ。 大事なのはこの身体の細胞が記憶している100万年前のホモエレクトスからの 経験則を呼び覚ます事かもしれない。 この短い人生でそれが出来たら、そこから人生は変わるだろう。 ジャワ原人が北京原人に変化する過程で ネアンデルタール人がホモサピエンスに変化して行く中で それぞれが経験して来た飢餓や外敵から逃れて来た記憶が細胞の一つ一つに 深く刻まれているはずだ。 それを覚醒するきっかけが、どん底に落ちることだ。 せっかく受け継いだこの100万年の間の遺伝子を眠らせたままでは勿体無い。 DNAのスイッチを入れるのは自分自身だ。 さあ、スイッチをオフからオンに切り替えようじゃないか? どん底に怯えてたまるか!

健康を志向し、服装や美容に心がける人は多いのに 教養をつけ、心を鍛える事に熱心な人は少ない。 稀に生まれ持って嘘つきな子供がいるのかもしれない。 でも普通は頭で計算して物を言う子供はない。 思った通りの事が口から出てきてしまうのが子供だし、それが可愛い。 だからよく家庭内の事が子供から伝わってしまう。 「うちのお母さんは、よくお父さんと喧嘩してるし、朝はなかなか起きてこないの」 単純に思った事を口にして、外聞をはばかる事はないのが子供だ。 しかし、大人になる過程で人は嘘を覚えて、それを上手く使いこなすようになる。 保身の為なら見え透いた嘘もお手のものだ。 思っている事と表現された事とは丸っきり違う人もいる。 計算高いのは達人の領域だ。 成就した人格の持ち主と、そうでない人。 その違いは付き合ってみると見分けがつくものだ。 澄ました顔をしていても、一瞬の動作や言動でお里が知れてしまう。 それは勉強によって身につくこともある。 本を読んで身につく事だってある。 他の人の言葉を黙って聞いているだけでもいい。 面倒な事を避けず、丁寧にやってみるだけでもいい。 波乱に明け暮れた人生でも、それが苦労とは思わなくなってきたら そして愚痴や、恨みつらみを言わなくなっていたら 「ああ、面白かった」という人生を送っているかもしれない。 よもや「幼稚園落ちた日本死ね!!!」などという言葉は聞きたくはない。 この方、匿名ブログで話題になった方で、そのあとこう書いていた。 「何なんだよ日本。」 「何が少子化だよクソ。」 「ふざけんな日本。」 「まじいい加減にしろ日本。」 言ってることや世の中の矛盾は良く分かる。 ママ達の気持ちを思うと同感だという人も多いだろう。 しかし、この言葉のトゲトゲしさは如何なものかと思う。 そして日本がそんなに嫌ならば もっと良いところを探し求めて生きて行くしかなかろう。 果たして日本よりいい国があると言うのだろうか? 幸せってなんだろう。

「あなたは自分の人生をどのようにして決めるのか」と聞かれても答えに困る。 ただ死の間際に自分の人生に悔いが残るのかどうかだけではないだろうか。 出家して生きてる人間ではあるまいし 人生のことなど深く考えて生きる余裕などもない。 若い時は、あっという間に過ぎ去って、気が付けば育児に追われ または出世を意識し、仕事に疲れる日々を過ごしてきた。 子供の受験に付き合ってるうちに、将来の夢を実現させてあげたいと思ったりもした。 だから高額な学費のためなら自分のことは二の次になる。 我が子が医学部に通ったら、どの親もそうなるのではないだろうか。 そしてやっと卒業し肩の荷が降りたと思ったら 地球は太陽の周りを7回も廻っていたのだ。 一日を自分の思い通りに過ごす事もせず 稼いだお金は目の前を通り過ぎて消えて行った。 しかし、いろんなことがあるにせよ、今の日本は実にいい国だと思う。 明日の食べる物に事欠くことは少ない。 お風呂は毎日入ることが出来る。 テレビはいつも視ることが出来て、路上で襲われることもない。 救急車はすぐに来てくれてただで病院まで運んでくれる。 役所でことを進めるのに袖の下を通す必要もない。 ただブランド物を買うために援助交際が後を絶たないだけだし 学校ではいじめが蔓延っているだけだ。 そして、それが家の中では気が付かないだけではないか。 しかし、そう思うと今の日本は違った意味で何かおかしい。 人間、何をしたって自由だなんて思いあがっている人も少なくない。 したいようにさせればいいだって? 間違っていることでも見過ごした方がいいって? 「今の時代仕方がない」という声が見え隠れする。 あなたは残りの人生で何をやろうと思っていますか? これだけは果たして死にたいというものがあるだろうか? 私はただ今日できることをしようと思う。 誕生日を聞いたら、それを祝ってあげたい。 ただそんな簡単なことを積み重ねていきたい。 今日、廻り廻って動いてくれた方が誕生日のケーキはどれにしたらいいか聞いてきた。 お店に出向いて写真まで送ってくれた。 いろいろと気をもんでくれたのだろう。 私の話を聞いてお祝いをどうするか伝えてくれた人も、 お店まで出向いてくれた人も 来週の土曜日、誕生日を迎えたその人の笑顔を見たら それだけで何か満たされるものが湧いてくるのではないかと思う。 そういう小さな満足がいくつあるかで人の人生は変わる。 だから、そんな満たされる一瞬に一人でも多くの人が出くわすようにしたい。 明日を満たすきっかけはどこに転がっているのだろう? ストロベリーの記念日はいったい誰の心に響くのだろう? 私はいつもそんなことばかり考えている。

生きて行く事は容易ではないとつくづく思う。 2月19日の毎日新聞にこんな記事を見かけた。 「相模原市の団地の一室で妻47歳が首をつり、中学3年の長男が倒れているのを 帰宅した48歳の男性会社員が発見した。長男はインフルエンザで体調を崩したまま 高校受験をして、うまく行かなかったと落ち込んでいた。などと話していると言う。」 今年、受験を迎えたご家庭では他人事ではありません。 まさに紙一重の人生がいつも待ち構えている。 この長男が生まれた時「この子は15歳でこの世を去りますよ」と占い師に言われていたら どんな事をしてでも、そして我が身を投げうってでも、その子を助けて長寿を全うさせて いたことでしょう。 いざ15歳というその年を迎え、体調を崩し受験を失敗したその日を迎えたとしても 「それがどうしたのさ。」 「受験なんてさ、そんなの気にしなくていいよ。」 「受験は時の運だからさ。どうでもいいじゃないか」 親がそういうと子供はそういうものかと思うようになる。 「あなた、仕事よりも子供の命よ。守ってね。」 と妻がご主人に言っていれば、その子は全く違う人生を送ることになっていたろう。 死という大きな壁を越えるための万策は夫婦二人に委ねられている。 しかし現実の人生とは日々の生活の中にあって、狭い視野の中にある。 だから、稀に不幸な結末が顔を出してしまう。 夜の星の囁きも聞こえず、空の蒼さも忘れて絶望の渦に吸い込まれて生きる人がいる。 そんな重箱の隅を生きる人には暗闇の出口は見えて来ないのだろう。 しかし子供が迷い、出口が見えない時には親の支えが効いてくる。 よもや親が一緒に迷った挙句に子供を道ずれにするなど親の身勝手も甚だしい。 もし自分の人生がわずか15年で消えてしまうと分かっていたら それは、それは、つまらないものだろう。 だから私はこう思う。 そもそも、私は未来永劫に私という人間を準備するためにこの世に来たのであって 私の震えも、叫びも、喜びも、哀しみも、全ては魂の浄化に欠かせない経験と心得る。 そしていずれ迎える自由な魂を作り得たら、この世を潔く去ってもっと清い人生を 送ろうと思っている。 だから15年では物足らず50年でもやり足りない。 腐った時には大の字になって雨粒を全身で受けてみるがいい。 泥んこになって生きてみるがいい。 地面を這いつくばって生きてみるがいい。 汗ばんだボロきれのような服を着て生きるがいい。 いつしか、まばゆい太陽のような君がそこに居て 暁の空を見上げて三日月と交信する君がそこに居る。 呆気なくこの世を去ってしまった中学3年の彼はいったいどんな思いで 三日月を見上げていた事だろう。 この世に生まれ落ちた子らが迷わず永遠の魂を築く為に 彷徨う心の持ち主に探し求める道筋を描いてあげる為に 今、私はまさにここに生きている。

ただ今、受験とインフルエンザが真っ盛り。 この空手クラブでは空手の試合に勝つことを目的にしている訳ではない。 子供達の生き方を大事にしている。 中でも中学受験は最も関心があるものの一つ。 空手クラブであるのに、スパーリングのあとの「講話」では勉強の事、日々の習慣の事などを伝える。 もちろん、いじめの対処法などもその一つかもしれない。 これがこの空手クラブの特徴だ。 今日の稽古で中学受験を終えた二人が戻ってきた。 第一希望は思い通りには行かなかったようだけれども芝と攻玉社に行くことになった。 それぞれ偏差値の高い中学校だ。 よく頑張ったと褒めてあげたい。 受験は体力だと常々、子供達やご父兄方に伝えて来た。 空手の稽古はその精神力と忍耐力を養う場であると思う。 世の中、楽しいことを優先するようでは後々苦労する。 ならば、少しくらいの苦労は買ってでもやらねば。 昨年10月に休会した高校生は、神奈川の聖光学院の3年生。 彼も大学受験の真っ最中だ。 現役東大理科一類合格を目指して空手を休んでいる。 このクラブの関心事がいつしかご父兄の関心事になり、またそういう子供が増えてきた。 それもこの空手クラブの特色なのかもしれない。 だからこのクラブは試合に勝つことだけを目指すのではない。 先日、行われた今年の医師国家試験は例年になく難しかったようだ。 それに非常に長丁場で2月6日のから3日間、朝9時半から17時まで缶詰状態で 一般、臨床問題、合計500題に答えねばならない。 到底、ひ弱な、がり勉君の出る幕はない。 今回の医師国家試験を受けて各医学部予備校では以下のようなコメントを寄せている。 「110回国試は今までの国試のうちで、最も問題の難易度が高い国試でした。臨床問題の症例文も 長文化し、受験生の苦労は並大抵のものではなかったと思います。3日間の長丁場をしのいだ受験生 の皆様に心からお疲れ様でしたと申し上げたいと思います。」 35年前の医師国家試験はわずか2日間だった。 それがいつごろからか3日間になり、更に難しくなる傾向にあるという。 やはりどんな分野でも、この先の受験を乗り切るには精神力と忍耐力が問われるのではなかろうか? 砂が水に浸み込むように歳月が心に浸みわたってくる。 子供達は、この先、「今は帰らぬ季節」を何度も過ごしていくことになるだろう。 それらは還らざる日々であるからこそ貴重なのだと言って聴かせて行こうと思って居る。

災害が起こると寄付が集まる。 そして有名人が100万円を寄付したとニュースが取り上げる。 満面の笑みで「被災された方のためになれば」と 鼻持ちならない見せ掛けの人が言っていた。 果たして本当の心はどこにあるのかな? テレビが追いかけて来なくてもそう言ったのかな? 毎年10億円も儲けている人にとって100万円はどれほどのものなの? 100万円の寄付と聞けばニュースや雑誌が取り上げてくれるよね。 年収が3000円ほどしかない国の人が1000円を寄付するのとは違う。 被災地に物を送ることが絆ですって? 絆は自分の便利や安全保障の意味から結ぶものじゃない。 最後に自分に何かしらの見返りがあるから結ぶものでもない。 それでも絆を結ぶと言うなら。 その人の不幸の人生を、悪い運命のすべてを引き受けねば。 そうでなければ嘘になる。 雨の日も、風の日も 夏の暑い日も、そして凍える冬の夜でも。 その人の運命の全てを受け入れねばならない。 たとえ貧しい娼婦になり下がったとしても そしてたとえ少額のコインであろうとも 生活費を削り身銭を切って 募金箱に投げ入れたものは それが本物の絆ではなかろうか。 よもや、その時々の都合で相手を見捨てる生き方や 人としての証を捨て去る生き方などしてなるものか。

「神様を信じますか?」と言われてもピンと来ない。 でも、21年前の1月17日、神戸に住んでいて、悲惨な光景の中に家族が住む家があったとしたら 神にすがり、神にしがみ付き、「どうぞ神様、助けて下さい」と懇願するのではなかろうか? 凍える手も顧みず、裸足であることも忘れ、両の手を合わせて祈るのではないだろうか? 崩れた家々の中ではすすり泣く声が洩れ聞こえ、途方もない力に押し倒されたマンションを 無言のまま通り過ぎて行くと見慣れた風景に出くわす。 そうだ、このあたりだった。 電話はもちろん通じない。 「どうぞ神様、無事で居ますように。 いや、生きていてくれますように。」 そう祈るのではないだろうか? そして神様と取引をする。 「もし家族を助けてくれたら、私の持ってるお金は全て世の為、人の為に使いましょう」と。 自分の利益のために、私はそう祈るだろう。 人間である以上、自分の利益の為に神様に祈ってもいい。 それが本当の姿だ。 人間の力の及ばない何か大きな力があると思えばこそ、そう祈りたくなる。 正直なところ、私は面倒なことはしたくはない。 でも、この世の中、そんな楽に暮らせる場所はないと思って居る。 複雑に入り組んだ世の中で、人生が絡み合って生きている。 困難な事ばかりが次から次から顔を出す。 いくら頑張っても、為せば成らない世の中が繰り返される。 地震が起こると電車が止まり、徒歩で歩いていくしかない。 歩けど歩けど、ほど遠い。 水は何処も売り切れて食べるものにも事欠く時を過ごす。 私は21年前、そんな震災を経験した。 そして、4年と11か月前。 大きな震災を経験した。 みな、神様を思い、祈っていた。 「どうぞ、家族が生きていますように」 人生は予期せぬことの連続だった。 だからこれからもきっとそうなのだろう。 今日、塾の前で小学生の女の子とお母さんが泣いていた。 昨日、今日の第一志望と第二志望の試験が思いの外、出来なかったのだろう。 その子の人生にとっては予期せぬ出来事だったのかもしれない。 たとえ試験の解答を導き出せても、人生を生き抜けるとは限らない。 だから試験の出来不出来で一喜一憂は意味がない。 神に祈るのはまだ早すぎる。 最後の切り札を出すのは今ではない。

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