極真の試合は顔面へのパンチや急所への蹴りなどは禁じ手になってます。しかしそれ以外は実際に当てます。ですから
稽古では、どこを、どうすれば、人を倒すことが出来るのかを研究します。実際に日常生活で人を倒す為ではありませんが
実践で通用しない突きや蹴りをいくら練習で繰り返しても意味がありません。突き一発で倒せる自信があれば、また蹴り一発
で自分より大きな相手を倒せる自信があるだけで、どんな場面に出くわしても冷静でいられるのです。極真カラテは弱い人が
強くなるために習得する技です。最初は弱い人でも繰り返し繰り返し極真の基本を稽古し、型を稽古し、それをスパーリング
で活かしていく中で自分でも想像できないほど強い人間に成長していきます。また逆に言うと、試合で強い選手ほど基本が
出来ているということです。基本が出来て、その応用に入るという過程がないと強くなりません。強いということは、もちろん
攻めも上手いのですが、それ以上に守りが上手いということです。相手の強い蹴りやパンチをさばいて、攻めに転じること
が出来れば相手に勝てます。蝶のように舞って蜂のように刺すのはボクシングも空手も同じこと。それが出来るには基本。
基本が出来てないと我流の形になり、いくらやっても上達せず、スパーリングで余裕を持てなくなります。基本をマスター
して相手の攻撃を自由にさばけるようになればミット稽古が活きてきます。 このことは極真の試合を見に行けばわかる
ことです。いつか稽古に来てる子供達を極真の試合に連れて行ってあげようと思います。小さい人が大きな人の重い蹴り
やパンチを受けながら起死回生の上段蹴りで相手を倒すシーンはよく見ます。しかしパソコンの動画ではなく試合会場で
見る極真の試合は迫力が違います。上手い組手をする人の余裕ある姿に刺激を受けるでしょう。身体の大小は関係あり
ません。余裕あるカラテに大事なのは基本のマスターなのです。子供たちに基本を伝えるのは大変難しいことですが、
辛抱強くやっていくしかありません。繰り返し繰り返しやる過程が人を変えると信じて、そして子供達が一つ一つの峠を
越えられるよう見守って行こうと思います。時には厳しく、時には優しく。子供たちに何かを残して行きたいといつも思い
ながら指導をしてます。そう思って今日もみすずが丘に行きましたら、稽古の前にある子供からおみやげをもらいました。
沖縄の「星の砂」。 何だか気持ちが嬉しかったです。この子達が成人するころには空手はオリンピック種目になっている
でしょう。空手は世界的に広がっているのですが柔道と違って、寸止め空手や直接打撃系、また極真も松井派、浜井派、
新極真、連合会など多岐に分かれているのが実態です。それが昨年あたりからJKJO、新極真を中心に一つにまとまる
動きが出てきたのです。 今、ロンドンではオリンピックが開かれてます。 いつの日にか空手がオリンピック種目に
なればと思いまがら見てました。それを目指すくらいに努力していたら、「いじめ」という言葉とは無縁の環境になっている
はず。目標がある人には「いじめ」という寄り道もなくなるのでしょう。 環境は自分で創るもの。そして過去は変えられない
けれども明日は自分の思い通りに方向転換が出来ます。そんなことが注目もされてなかった日本の男子サッカーに見る
ことが出来ました。優勝候補のスペインを切り崩し、予選も突破。日本の若者の突破力と荒削りさが妙に新鮮で、何かを
成し遂げそうな予感が湧いて来ました。 そういう若者たちの物怖じしない度胸に、人知れず努力した結果が備わった瞬間
、何かがはじけて奇跡が起きるように思えます。 逆に金メダル確実と言われる人たちが早々に負ける試合を女子柔道に
見ました。相手を見すぎて攻めが一歩遅く、何もはじけるものもない。そんな試合でした。力負けと言えるかもしれません。
捨て身になっていない行儀の良さに奇跡は無縁なので何となく試合前に本人たちは何かを感じているはずです。
「いっちょやってみるか」という奇跡の予感なのか、ただ漠然とした空回り感なのか。 日本の若者には綺麗ごとや
行儀の良さよりも 荒削りな度胸を見たい。 サッカー男子には迷いはなく、2日目までの柔道女子二人には迷いが
あったかも。 オリンピックは心の迷いを規準に見てみると勝敗の予想は外れないかもしれません。 明日を信じて
活きる人。奇跡の予感の人。世界を食ってしまう番狂わせの人。見せて欲しい。 そんな物怖じしない姿を!!!