蜂
子供達を観ていると日々成長していることに気付かされる。 水と酸素があって、太陽と愛情があるとすくすく育つ。 失敗したことを悔やまず 失ったものを数えず 幸運にも得られた事柄だけを大切に思い 良かった、良かったと生きて行けば その先が見えてくるから不思議なものだ。 与えられた偶然を見逃さないで素直に受け入れたらいい。 この空手クラブの子供達には、そう伝えて行こう。 そしてこうも付け加えねば。 東大などに受かっても喜んではいけないと。 東大を卒業し、国会議員や知事になっても決して喜んでは行けないと。 そこはスタートラインでゴールじゃないのだから。 いいことも、悪いことも、神様が決めていてくれるのだから。 昆虫は自分がしなければならない事を選ぶことは出来ないし その仕事が無意味で、自分の利益に反するものであっても文句は言わない。 夕方、駅のホームの列に蜂が舞い降りた。 サラリーマン達は手に手に新聞紙を握って蜂を打ち落として踏みつけようとしていた。 そこに高校生の男の子が出てきて、サッとノートをかざすと蜂をすくい上げ ホームの端の草むらに逃がしてあげた。 昆虫たちは情け容赦のない宿命的な戦いの中で今日も活きている。 さあ、君達もこの先の事は心配しないで自分が持って生まれた運に任せて 精一杯生きてみないか。 無駄な命などどこにもない。 全てに役割りがあるように君にも大切な役割りが有るのだ。
得をしようと思わない
お金の話はやはり低次元の話だ。 でも確かにお金がないから苦労することもある。 子供達の学費、住まいのこと、そしてたまの食事会やお付き合い。 世の中の夫婦喧嘩の多くは、このお金にまつわることが少なくない。 だから、貰えるものは貰っておかないと損だという気になる。 歳を取ると尚更かもしれない。 介護保険料を払ってるんだから、介護をどんどん受けなければ損だという。 そんな言葉をよく耳にするし、ある程度理解も出来る。 昔の日本人は教育レベルは今のそれよりも低かった。 でも精神の浅ましさはなかった。 だから、心が腐らないようなことはことくらい決めておかねば。 その一つは、「何かの選択がある時には得をしようとはおもわないこと」 そんな他愛もないことかもしれない。 子供の教育と同じで、あまりに子供にベッタリせず、子供の失敗にも距離を保つ事。 あまりに近づきすぎて、毎日一緒にハラハラドキドキしすぎると子供はいつも 親の顔色を伺うようになり、親に助けを求めるようになる。 最後は親に泣きつけば、いいよ、いいよと回避策を授けてくれさえする。 これでは性根の座った子供は育たない。 子供を育むとは、ある適度の距離を保って見守るに限る。 お金の乞食根性は、教育の仕方にも出てしまう。 だから何事も頓着し過ぎず生きて行きたいものだ。
半分半分
今日の昇級審査会で素晴らしい組手をいくつも観た。 真剣に生きる顔をいくつも観た。 泣いた顔も。 苦痛にゆがむ顔も。 そして安堵の顔も。 人生には、いいことも悪いことも半分づつ訪れる。 苦しいことや辛いことがあれば、不思議に楽しいことや嬉しいことが付いてくる。 辛く単調な空手の基本稽古と移動稽古。 恐怖感と痛さのスパーリング。 空手はどれをとっても楽はない。 そんな稽古の極めつけは組手だろう。 怖い、痛い、悔しい。 そんな泥沼に足を踏み入れて何が面白い? そう、面白い訳がない。 でも、その泥滑の後には、決まっていいことがふって湧いてくる。 人生、良し悪いが半分半分だとしたら 悪い方を先取りしたらあとはいいことしか残ってない。 そういう意味では空手は苦労の先取りではないか。 良いことも悪いことも、降っては湧きあがる中に私は今日も生きた。 今日がそうであったように私は明日もそうやって生きているだろう。 多くの子供達にもその半分半分の原理は伝えてあげねば。 運命が傾きかけている人にも伝えよう。 この居心地の悪い世の中だからこそ伝えねば。 人は何をするのか、何をしたのか。 それが人の運命を変える。 いったい昨日の君は何を思って、何をしたのだろう?
ベッキー
家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず 法あれども正しきを得ず 冤あれども誰にか訴えん 68年前、40歳の女性が言われなき疑いを掛けられ孤独な死を迎えた。 果たして、この世の中の事柄が正しい判断などで成り立っているのだろうか? 果たして、自分に関わっている人々から自分は正しく理解されているだろうか? それは誰も分からない。 人は神様ではないから。 間違いも当然ある。 ただ誤解されたとしても、それは堂々と生きねばなるまい。 人の評価を気にして、人にいいところを見せようとして生きている人は どことなくぎこちない。 自分が気にいられようが嫌われようが自分は自分なのだ。 この嘘つきめがと神様に言われるまでは、正々堂々と生きて行きたい。 冤罪のない世界はない。 人である以上、それは付き物だ。 それにもまして生まれながらに持っている原罪もある。 自分は何も悪くはないのに、その存在自体が不愉快だと言われる類のもの。 人は人を傷つけ、逆に傷つけられるもの。 だから、それに打ち勝つ強い精神を育むだけで片ずけられる。 逆境の後の快復は痛快だろう。 人目を気にせず 井戸の底にロープを投げ込むことはなお痛快だ。
頃合い
すべての物には旬がある。 生まれる時があって、死ぬ時がある。 出合う時があって、別れる時がある。 物には寿命があるように、時にも寿命がある。 黙っている時があって、語る時がある。 もう少し早く出会っていたら結婚していたのにと思う相手が居ても それは叶わぬこと。 イチゴには食べ時があって青いイチゴは苦くて食べられない。 健康がにわかに消えうせ、ベッドに横たわる。 もう終わったかとあきらめて、天井を眺めていると 回復した身体が戻って来る。 もうだめだと天を仰いだ時から、時計の針は廻りだすものだ。 人生、こんなものなのだろう。 それぞれの旬を見抜く力がいるだろうし。 それぞれの頃合いを感じる五感もいる。 出会いは戻らない。 一瞬のもの忘れから、躊躇する時間が生まれ その一瞬のずれで新たな出会いに巡り合う。 出合うべくして出会った必然がそこにある。 その一瞬は計って創られている。 朝、出かけぎわに、靴の紐が切れる。 焦っていてもバスは待ってくれずに遅刻する。 そうなるように計られている。 それに気づくのは1カ月後か、半年か1年後。 長い目で振り返れば、それがよく分かる。 そうなるようにしてなった今を視ると 良くも悪くもない人生などないということが分かる。 良くも悪くも満載なのが人生だ。 猪瀬氏と同じように舛添都知事にも、そろそろ頃合いが来たようだ。 そんな頃合いを駆使する週刊文春にも、頃合いが見えた気がする。 人生、良くもあれば悪くもあるものだ。 週末に出会う子供達には、そのことを伝えておかねばなるまい。
風の電話
12月31日の木曜。 明日から来年で、今日が去年になった夜。 今年は穏やかな年であって欲しいとぼんやりと思って眠りについた。 ふと気が付くと、あれからもう4カ月と21日が過ぎていた。 今日、3月に間違って録画したNHKの番組を観てみた。 「風の電話」。 そこには津波の被害を受けた大槌町に残された人の声があった。 亡くなられた方が今もそこにいるような感じがした。 今年、阿蘇の山と阿蘇の神社がこんなになるとは思いもしなかった。 風の電話。 また話したかろう。 大槌町も熊本の街も、阿蘇の山も。 思い悩んでいる人もいる。 今日、答えを出さなくてもいい。 それを先延ばしにするってことも知恵なんだから。 ある朝、突然ものの見方が変わってしまうことだってある。 静かな夜は雨模様だった。 残された人たちの声が忘れられない。
熊本
空手クラブの子供たちに聞いてみた。 「君たちは何才まで生きるの?」 「、、、、、」 誰もピンときていない様子だ。 それはそうだろう。 今までそんな質問はされなかっただろうし 考えてもいなかったに違いない。 男性だと80歳、女性だと86歳。 これが今の日本の平均寿命だ。 男性の場合、80年のうちに余暇に25年、睡眠に24年、食事に10年も当てることになる。 しかし長い人生で仕事に当てる時間は延べで9年。学校で勉強するのは延べ5年ほどだ。 朝9時から夕方18時迄を22歳から60歳まで働いたとしても、延べで9年間たらずなのだ。 お風呂には延べで約3年、トイレにが延べ1.5年は入っている。 人間にはその人固有の砂時計が体内にあって、砂の量も固有だ。 元気な人でも砂が尽きるまでの命と決まっている。 産まれ落ちた時に授かった砂時計を恨んでみてもしようがない。 砂は着実に時を計り、最後の一粒が落ちる迄時を刻んでいる。 そして砂が尽きたら土に還るだけのこと。 ただ、呆気ない別れには言葉もない。 この4日ほどの熊本の尊い命には言葉が見つからない。 しかしいつまでもうつむいているのはよそう。 今、この砂の一粒一粒を大切に生きねば。 頑張って人の為に生きても一粒。 ぐうたら自分の為に生きても一粒。 同じ一粒か、ならば人の為に生きてみようか? 何の為の80年だったのかと悔やむ前に 動けなくなってベッドの上で横たわる前に 人の為に、人の笑顔の為に生きてみようか?
子離れ
新学期は春の桜の季節にピッタリだ。 海外では9月を新学期と定めている国が多いけど日本はこのままでいい。 桜が咲く4月は大地の底からほとばしる力を漲らせる若葉の季節なのだ。 希望に胸膨らませ、不安と期待が入り混じった新入生と新入社員が 幼稚園、学校、そして企業にも活気を与えている。 保育園のバスに乗れるだろうか? 一日中泣いてやしないだろうか? 友達は出来るのかなあ? 今頃何をしてるのかなあ? 不安と希望は何も子供達だけのものではない。 そうやって親は子離れをしなければ。 良かれと思っていても決して子供の為になっていないことが意外と多い。 親と子供には適度の距離感があった方がいいのだろう。 野生のエルザの心配事は、どの家庭にもあって、どの親も経験する事だ。 今、我が家は夫婦2人だけの生活に戻ってしまった。 あっという間だった。 長男が産まれたのがついこの前のようにも感じられる。 2人の子供は大学を卒業し仕事場の近くに住むようになった。 ガラ〜ンとしたリビングで子供達の幼稚園のことや小学校のこと 受験の泣き笑いを懐かしんでいる。 懐かしいし、淋しい。 けど、これでいい。 まとわりついていた子供達。。 いつしか大きく成長していた子供達。。 いつまでも物思いに耽ってないで さあ、子離れをしなければ。
47名の嘘
土をこねて器を創り上げている。 人を創るとは、そんな事ではないだろうか。 小さい頃から自由にさせて、やりたい事をさせるだけでは難しい。 良い芽を更に伸ばす為に、その子の良い面を引き出してあげたいと いう先生は多いだろう。 何事も本人に気付かせるのだという。 確かにそういう習い事もあるかもしれない。 しかし私はこうも思う。 まだ土のうちならば器の大きさは変えられる。しかし焼き上がった器の 大きさを変えることは出来ない。のだと。 大事な事は無理にその大きさ以上のことを期待したり、押し込んでしまわない ことであって、無理やり物を押し込むと枡や器は割れるほかはない。 人間は強いものではなく弱いもので、嘘もつけば裏表もある。 考えている事と行っている事が違うのが人間ではないだろうか。 私は裏も表もありませんなどという人には嘘があるように思えてならない。 但し、ついていい嘘とそうではないものがある。 先日、防衛大学419名の卒業式の帽子投げの映像を観た。 「防衛大学任官拒否47名」とあった。 腑に落ちない。 防衛大学生は自衛官の幹部候補生を養う為の大学だ。 だから講義や訓練を受けながらも特別に国家公務員という立場にあって 学生なのに毎月109,400円の給与が出て年に2回の賞与も出る。 それを4年間やり過ごしたあとに任官拒否するとは如何なものだろう。 人間は、損得勘定で嘘をつくもにではない。 食うに困って野垂れ死にしそうな時に道端に1万円が落ちているのを見つけても 多くの人は警察には届けないだろう。 その嘘と、任官拒否した47名の嘘とは何かが違う。
微生物
いつも思っている。 人間は微生物に過ぎない。 今話題の素粒子の大きさは、10のマイナス35乗。 それが作り上げる原子核の大きさは、10のマイナス15乗。 原子1個の大きさは、10のマイナス10乗。 東京タワーの高さは、3 x 10の2乗。 富士山の高さは、3 x 10の3乗。 地球の直径は、10の7乗。 地球が太陽の周りを回る公転の大きさは、10の11乗。 地球がある太陽系は天の川銀河の片隅にある小さな星の集まり。 天の川銀河は地球の公転軌道の10億倍の、10の20乗。 その天の川銀河は他の銀河系と銀河団を作っている。 その銀河団の大きさは、天の川銀河の1000倍で、10の23乗。 人間は、そんな宇宙の点のような地球に生きる微生物。 地球は時速1666kmで自転し、時速10万kmで公転している。 ジェット機の速さは、たかだか800km〜900km。 人間は生まれてこの方、こんな超高速の地球の上で暮らしている。 46億年も前から地球は、その運動を変えてない。 そして、その運動はまだ続く。 だから思う。 この運動に沿う生き方でなければならないと。 それを探ったのが紀元前1000年前からある中国の十二支だ。 今年は申年。 いや違った。 普通のさる年じゃなくて、今年はひのえさるだった。 ひのえさるは、変革の年。形がハッキリする年で地が固まる年だった。 今年の芸能界を診てるとなるほど、隠れていた物が顕になり正しい形に整っている。 その運動はまだ続く。 地球に生きる微生物にも、着実にその力は及んでいる。 私はそんな微生物でしかない。