会長のブログ

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組手やスパーリングは心の強さを養います。 型は基本を整え、根気を養います。  その為、この空手クラブは、空手の技を伝えながらも、実は「心の強さ」と「根気」を養うための場 であると考えています。 もちろん「気合い」も大事。 気合いとは「気持ちの勢い」のこと。 生きて行く上でやはり 大事なことです。 気力もしかり。 気力とは何かを行おうとする精神力のこと。  この空手クラブでは、こう言う目に見えない「気」に関わることに着目して指導を行って います。 何故なら「気」とは生命力を与えるエネルギーであるから。  この「気」というものを年中さんから低学年の間に養うことが出来れば、そして自ら「物事に 飽きずに耐えうる力」を備えられたとしたら、その子の足元は明るい灯で照らされ、如何なる 困難にも立ち向かい、それを乗り越えて行くことでしょう。  根気とは物事を飽きずに長くやり続ける気力のこと。  不可視のパワーであり分厚い岩盤をも貫き、目標への道を切り開いてくれるもの。  だとしたら自身の人生が遅々とした歩みであったとしても決して忍耐を崩してはならないのです。  卑しい心の持ち主は、不出来をその環境のためであると考えます。  自分の環境とは自身の心を映す万華鏡です。 その鏡の中で刻一刻と変化する多様な 色彩の移り変わりは、動くことを止めない自身の心と思いの数々が絶妙に投影されたもの。 心の中で繰り返し巡らされる思いは、たとえそれが良いものでも、悪いものでも、その人の 人格と環境内で、それ自身の結果を寸分の誤差もなく発生させてしまいます。 つまり人間が自分の思いを完璧にコントロールすることが出来るのであれば、それを根気よく 全うすべきです。  気高い夢を観ることです。  自分の理想は、自分の未来を予言するものに他ならないのだから。  根気はそれを成し遂げる原動力だと信じ、それを幼き頃に養うしかありません。

8月15日、毎年民族性を意識してしまうのです。 中国や韓国からの見方もあるのは理解できます。  しかし私は日本で生まれ日本で育った日本人。 だから普通に日本を大事にする気持ちが湧いてきます。  ただ日本人は世界的にみると変わっているのかもしれません。 それは「菊と刀」に書かれている通り。  義理、恩、恥の感覚は日本人固有の物。そして日本人は礼儀正しいといわれる一方、横柄で実は 不遜も併せ持つようです。 電車に乗っていると、たまに横柄な人に出くわす事があります。  アジアに行くと不遜な態度を取る人もいます。 そういう人がいるのも事実。 でもそれは極一部に 過ぎず多くは平和的な国民のように思えます。 逆に平和ボケしている国民のように錯覚してしまう 時もあります。 日本人はもっと意思を貫かねばと歯がゆい思いもたびたびでした。 大昔、地球が凍える寒さに覆われていたころ日本は大陸と陸続きであったので大陸からいろんな民族が 流れて来ました。しかし、その後の温暖化で海面が上昇し、島国として固有の文化を築くようになるのです。 祖先を辿るDNAは韓国の方とは違い、中国、チベットやシベリアの民族に近く、その後の大陸からの 多くの渡来人との戦いと混血を繰り返し、今の日本人が創られたようです。    今、8月15日は東アジアでは特別な日になっています。 元を辿ればそれは同じ人種なのに近いからか なのか喧嘩をする相手になって久しいものがあります。 もうかれこれ1000年くらいは同じような いざこざを繰り返して来ました。 しかしいったいいつまで、このいざこざは続くのだろう?    子供たちはどこの国でも素直なのに。 

三浦雄一郎さんが80歳にしてエベレスト登頂に成功したのは今年の5月のことでした。 大変すばらしい偉業 だと世間はもてはやしていました。 私は、冷めた気持ちでテレビのニュースを観ていたことを思い出します。 この標高8000メートルの死の世界に関する思いを書いた雑誌を昨日、目にしてあらためて冷めた思いが よみがえって来ました。 「自分には無理だ。もういいやと諦めてしまえば、楽になれる。でも山を前に登ろうとも せずウロウロしているだけでは人生つまらない。自分を諦めてはいけない」という言葉はその通りです。 確か5月に三浦氏が登頂をされた翌日の新聞で日本の高齢の女性登山家がエベレストで亡くなられた記事を 見ました。 わずか300万円ほどの装備。 でもこれが一般的です。 かたや三浦氏は企業の援助を受け1億円 を超える装備と多くのスタッフに守られての登頂。下山はヘリコプター。 野口氏はこれを批判してました。 私も同感。 そもそも03年に70歳で初登頂、その5年後に2回目、そしてその5年後に80歳で登頂。 この結果を 創らんがためのスタッフと、ヘリコプターでは本来のエベレスト登頂とは言えないと思えたのです。 「冬にエベレストに上るとか、スキーで滑るとかだ。ミウラ・ユーイチローを知ってるか?」 「有名だ。1970年にエベレストをスキーで滑ったんだろう」 「そうだ。そのとき俺たちシェルパがそのエクスペディションに参加し、彼を高所にまで導いた。」 「だが、知っているだろう、途中で、氷塊の陥落で、シェルパが6人死んだ。シェルパの遭難死としては それまでの最大規模だ。だがミウラはそこでスキーをやめなかった。彼は上に行きスキーで滑った。」 「6人は何のために死んだんだ?」  「6人の遺族は今どうしている?」  「稼ぎ手の男がいなくなったんだ。それなのに慰謝料も補償金も何もない。細々と暮らしている」 三浦氏も こういう遺族に関わる活動をされてるのかもしれませんが、ニュース、雑誌などからは 全くその片鱗も感じられずにいるので、大変寂しいものを感じ、人間として正しいものなのか疑問に 感じているのです。

今年の夏は暑いというのはバイクに乗っていても分かる。 生温かいっていう感じではなくなって アスファルトの照り返しが熱風になって顔に押し寄せてくる。 冬の凍える寒さを足して2で割って 欲しいくらいだった。 そんな日の夕方、すすき野で型稽古。 これは自主トレのつもりで体育館 を押さえていたのです。 審査前で型を仕上げたいという人が誰かくれば、それは指導の時間に。 そう思いながら体育館に行くと上海でゴンファン師範の道場に通っていたSさん。では今日は Sさんと二人で型を仕上げますかと思いきや、三々五々子供たちが集まって終いに10人くらい。 さあ、型をやろう、そう言って30分。 あたりの空が暗く、遠くでゴロゴロ雷が。  子供たちは大変。 そんな中でも型稽古を続けていました。体育館は安全な場所だから。 その合間に年中さんのH君が太極そのⅠをやろうとしても、そこは年中さん。お母さんが傍に 居ないと出来ないのです。お母さん、2度ほど一緒にやってるうちに太極そのⅠをマスターされて しまいました。 子供は雷ではしゃぎ出し、走り回ってましたが、お母さんはいつも観ておられるから 型の流れを覚えておられる。 なんと素晴らしいって、そんなに関心し出してると土砂降りの雨に なってました。あたりは真っ暗に。 そして2分ほどの停電も。 夏の体育館で停電です。 耳を押さえて怖がっている子供や、はしゃぐ子供やら。 夏のいい経験でした。 この土砂降りで私のバイクのヘルメットには、ほんの15分ほどであふれるほどの雨が溜まって しました。 ヘルメットをひっかけていた紐が切れそうな重さ。 これってスイカみたい。 まあ、いいや。夏だから。夏休みだから。 熱風のバイクも、土砂降りのバイクも。みんないい。 びしょぬれのヘルメットをかぶって雨の中のバイク。 これもなかなかオツなものでした。  さあ、今日も想定外のことがありますように。

何も味がないということを味として。 小さいものを大きいものとして扱い、少ないものを多いものとして扱う。 難しい事は、それが易しいうちに手がける。 大きいことは、それが小さいうちに処理をする。 世の中の難しい物事は、必ず易しいことから起こり、世の中の大きな物事は、必ず些細な事から起こる。 安請け合いをすれば、きっと信用を無くす。 易しいと見くびることが多ければ、きっと難しいことが多くなる。 一抱えほどもある大木も毛先ほどの芽から成長する。 千里もの道のりも一歩歩く事から始まる。 ざっと、世の中の事はこういう流れの中にあるように思える。 名誉と身体と、どちらが身近なものであろうか? 身体と財産と、どちらが大切なものであろうか? 何かを得ることと失う事と、どちらが苦しいであろうか? 物を惜しんで生きると、いずれ散財する羽目になる。 多くを蓄えれば、必ずひどく失う羽目になる。 だから満足することを知っていれば免れることも多いだろう。 ただ「足るを知る」と言葉で分かっていても、 それを出来るかと問われると全く程遠い。失敗をしない為だと分かって居てもそれが抑えられないのが人間だ。 でもちょっと難しい。 頭で考えるのはもうよそう。 難しい言葉じゃなくても分かるものがある。  1885年に書かれた児童文学「イワンの馬鹿」を読むとわかる気がする。こんな人生を歩めたらとつくづく思う。     そんな真理を単純明快に、わかりやすく描かれた児童文学に心が洗われる。 夏は読書に限る。  ちょっと暑い中で単行本とにらめっこ。 スマホやバーチャルなゲームよりもこの農家の三男坊の話しは面白い。  ちゃんと働いて手にタコが出来ている者だけに食べる権利があると結んでいたその本の結末は、当時高校生で あった私の心の奥に普遍的なものの意味を伝えてくれた。 読み終えたあと大の字になりながら余韻に浸っていた。そんな夏休みは、あっという間に過ぎて行った。 夏は、やはり読書に限る。 そして昼寝もいい。 そんな気楽な夏休みが大好きだ。

お互い、こうありたい、こうなりたいと心に抱く。それが時と共に修正を余儀なくされる。日々の暮らしの中で どこかに置き去りにされ、振り返れば何一つ自分の思うように生きて来れなかったという悔恨だけが残る。 しかし人生は自分が思うようにならないことの方が多い。 たとえ描いた姿とは異なっていようとも、それも 自分の人生だと受け入れたい。 一度きりの人生を「 こんなはずではなかった」と恨んで愚痴を言ってみて みても寂しい限り。 今、こうして生きていることだけでも素晴らしいのだから。 思い通りに行かず、何もかも投げ出したくなっても、自分を励まし自らの人生を全うしたい。   フランクルの「夜と霧」を読んで、あらためて、自分の人生の在り方を見つめ直そうと思った。

型がうまい人が少なくなった。 寸止め空手と言われる松濤館、剛柔流、糸東流、和道流などを修練されてる 方はうまい人が多い。毎日毎日型ばかりをされてるためであろう。 極真では出くわさない型もある。 綺麗で、スピードがある。但し、蹴りはうまくない。 やはり蹴りは極真に一日の長があるようだ。中足で蹴る スタイルは寸止めの特徴なので膝が廻って来ない分、強さに欠ける。極真では中足でも背足でも、カカトでも蹴る。 蹴りのバリエーションは格段に違う。 これは剛柔流でやってきた自分が身を以て感じたことだ。 だから極真の 人は接近戦でも頭やアゴを狙って蹴ってくる。 これは剛柔流ではなかったので初めのうちは驚いた。 今、思う事は部位を鍛える事よりも、自分のパンチや蹴りの出し方(効かせ方) が大事だと思う。 相手を倒すことは容易ではない。しかし人のパンチや蹴りが単位面積を小さくして、面に直角に入ると間違いなく 効いてしまう。  そのことを実現させるには型の基本が出来てないと難しい。 効かせる攻撃を身に付けるために 型の重要性を説いて行きたい。 極真で型が綺麗なのは大石師範、三和師範、岡本師範であろう。 他の道場の方々の型を見ても、さほど 美しいとは感じなかった。 美しい型は結果として強い組手を生む。  そういう観点から移動も型も美しくなくてはならないのだろうと今もそう思っている。

電車に乗って思う事は、ここ最近日本人はいい人、優しい人が増えたということだ。 昔、池袋や上野、新宿 辺りは、肩で風切るお兄さんたちが多かった。 時代は変わった。 日本は変わったんだとつくづく思う。 中国では危ない雰囲気の人がうようよしている。 日本の昭和の時代のようにギラギラしてる人が目に付く。 日本は、落ち着いた、いい人が増えた。 これも文化だと言ってしまえばそれまで。 人は丸くなって怒らなくなった。 しかしそれでいいのだろうかと首をかしげたくなる時がある。 スマートに活きる人間ばかりが日本では受け入れられる。 雑草のように生きることを忘れてしまった日本。 そんな日本で我はそれでも毒気のある男稼業を貫き通さねばならぬと強く思う。

人が幸せだと感じるのはどんな時なのだろう。それは十人十色。 でもこの四つは外れてないように思う。 ①人に愛されること。   ②人に褒められること。   ③人の役に立つこと。   ④人から必要とされること。 たとえ、これらのことの一つが欠けていたとしても、それはヨシとしよう。  もし、これらのどれも無かったとしても、遠い暗闇の先にある、ほのかな灯りをたよりに生きて行きたい。  そして出来るならば人を愛し、人を褒めることは心して活きて行きたい。   それが結果として人の役に立って、人に必要とされれば、それはそれでいい。 人は誰しもさまざまな悩みや心配事を抱え活きている。  もしそんな暗く沈んだ顔に出くわしたら、「大丈夫。 きっとうまく行くから」 と言ってあげたい。 

7月9日は大山総裁のお墓参りと観音様のお参りに護国寺まで行って来ました。 たまたま行った日が「四万6千日法要」という聞きなれない御利益のある日だったのでビックリでした。 夕方18時から境内で浄瑠璃があって、19時から「四万6千日法要」。 何が何やらわからない内の出来事で したが一升枡の入るお米の量が四万六千粒らしく、その一升と人間の寿命の一生をなぞらえて、年に1回、 その日にお参りに来られたら、四万六千日間毎日お参りをしたのと同じくらい御利益があるという有難い日なんだ と親切なお坊さんが教えてくれました。 それが7月9日と10日の2日間。 このことを全く知らずに、たまたま お墓参りに向かった日がその日であったというだけで結局、6時からの浄瑠璃と法要と偉い御坊様の説法を 20時過ぎまで聞いていました。 心が洗われる時間でした。  振り返ってみると偶然とは言え、 誰かがその説法を私に聴かせようとする意思があったような、ないような、何やら不思議なことの成り行きで 1日が過ぎました。 こんな日もあるんだなと思いながら四万六千日って何年? この日のお参りで125年 もの間、毎日お参りしたことになったんだと、帰りの電車の中でも感謝の気持ち、ひとしきりでした。

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