魔法のランプ
電車の中で女子高生達が喋っていた。 「うちらさ、頑張るって似合わなくねえ?」 「つ〜うかさ〜、うぜ〜んだよ、そうゆ〜の」 よく見ると都内の有名校の制服だ。 目を閉じて言葉だけ聞いていると茶髪・ミニスカ姿に思えた。 努力とか忍耐という言葉は今の時代には合わないのかもしれない。 「本当にそうかな? 君達」、と聞いてみようかと思った。 人並みか、人並み以上に楽をして生きてみたいのだろうか。 お金持ちの旦那さんと結婚して人生をワープするんだと思っているのだろうか。 高校生が夢に生きるのも無理はない。 しかし人並みなことをしていたら、これから先、人並み以下の生活をすることになる。 それでもいいというなら、それは自由だ。 但し、その後の運命に不平を言ってはならない。 努力はしないし、忍耐は嫌いという人生を送って来たなら、それだけの結果しかもらえない。 それが今の日本だ。 そういう意味では日本は公平に出来上がっている。 神様がそうしてるのか分からない。 でも明暗の暗の部分があるから人は成長している。 苦痛に耐えて、屈辱に歯を食いしばってこそ次のお宝に出くわすものだ。 泥棒や詐欺師、犯罪を犯す人には、ある意味才能のある人もいる。 また学歴のある人もいる。 でも共通して、この「忍耐」という言葉には縁がない。 縁がないから何事も長続きがしない。 農家で作物を作っても、ビルや道路を作っても、漫画を描いても すべては忍耐や努力がないと続かないのだ。 だから「忍耐」さえあれば何とかなる。 この忍耐は心の中にあるものだから一旦手に入れたら盗まれるものでもない。 子供達に伝えてあげねば。 そんなアラジンの「魔法のランプ」は欲しくないかと。
蜂
子供達を観ていると日々成長していることに気付かされる。 水と酸素があって、太陽と愛情があるとすくすく育つ。 失敗したことを悔やまず 失ったものを数えず 幸運にも得られた事柄だけを大切に思い 良かった、良かったと生きて行けば その先が見えてくるから不思議なものだ。 与えられた偶然を見逃さないで素直に受け入れたらいい。 この空手クラブの子供達には、そう伝えて行こう。 そしてこうも付け加えねば。 東大などに受かっても喜んではいけないと。 東大を卒業し、国会議員や知事になっても決して喜んでは行けないと。 そこはスタートラインでゴールじゃないのだから。 いいことも、悪いことも、神様が決めていてくれるのだから。 昆虫は自分がしなければならない事を選ぶことは出来ないし その仕事が無意味で、自分の利益に反するものであっても文句は言わない。 夕方、駅のホームの列に蜂が舞い降りた。 サラリーマン達は手に手に新聞紙を握って蜂を打ち落として踏みつけようとしていた。 そこに高校生の男の子が出てきて、サッとノートをかざすと蜂をすくい上げ ホームの端の草むらに逃がしてあげた。 昆虫たちは情け容赦のない宿命的な戦いの中で今日も活きている。 さあ、君達もこの先の事は心配しないで自分が持って生まれた運に任せて 精一杯生きてみないか。 無駄な命などどこにもない。 全てに役割りがあるように君にも大切な役割りが有るのだ。
ベッキー
家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず 法あれども正しきを得ず 冤あれども誰にか訴えん 68年前、40歳の女性が言われなき疑いを掛けられ孤独な死を迎えた。 果たして、この世の中の事柄が正しい判断などで成り立っているのだろうか? 果たして、自分に関わっている人々から自分は正しく理解されているだろうか? それは誰も分からない。 人は神様ではないから。 間違いも当然ある。 ただ誤解されたとしても、それは堂々と生きねばなるまい。 人の評価を気にして、人にいいところを見せようとして生きている人は どことなくぎこちない。 自分が気にいられようが嫌われようが自分は自分なのだ。 この嘘つきめがと神様に言われるまでは、正々堂々と生きて行きたい。 冤罪のない世界はない。 人である以上、それは付き物だ。 それにもまして生まれながらに持っている原罪もある。 自分は何も悪くはないのに、その存在自体が不愉快だと言われる類のもの。 人は人を傷つけ、逆に傷つけられるもの。 だから、それに打ち勝つ強い精神を育むだけで片ずけられる。 逆境の後の快復は痛快だろう。 人目を気にせず 井戸の底にロープを投げ込むことはなお痛快だ。
風の電話
12月31日の木曜。 明日から来年で、今日が去年になった夜。 今年は穏やかな年であって欲しいとぼんやりと思って眠りについた。 ふと気が付くと、あれからもう4カ月と21日が過ぎていた。 今日、3月に間違って録画したNHKの番組を観てみた。 「風の電話」。 そこには津波の被害を受けた大槌町に残された人の声があった。 亡くなられた方が今もそこにいるような感じがした。 今年、阿蘇の山と阿蘇の神社がこんなになるとは思いもしなかった。 風の電話。 また話したかろう。 大槌町も熊本の街も、阿蘇の山も。 思い悩んでいる人もいる。 今日、答えを出さなくてもいい。 それを先延ばしにするってことも知恵なんだから。 ある朝、突然ものの見方が変わってしまうことだってある。 静かな夜は雨模様だった。 残された人たちの声が忘れられない。
熊本
空手クラブの子供たちに聞いてみた。 「君たちは何才まで生きるの?」 「、、、、、」 誰もピンときていない様子だ。 それはそうだろう。 今までそんな質問はされなかっただろうし 考えてもいなかったに違いない。 男性だと80歳、女性だと86歳。 これが今の日本の平均寿命だ。 男性の場合、80年のうちに余暇に25年、睡眠に24年、食事に10年も当てることになる。 しかし長い人生で仕事に当てる時間は延べで9年。学校で勉強するのは延べ5年ほどだ。 朝9時から夕方18時迄を22歳から60歳まで働いたとしても、延べで9年間たらずなのだ。 お風呂には延べで約3年、トイレにが延べ1.5年は入っている。 人間にはその人固有の砂時計が体内にあって、砂の量も固有だ。 元気な人でも砂が尽きるまでの命と決まっている。 産まれ落ちた時に授かった砂時計を恨んでみてもしようがない。 砂は着実に時を計り、最後の一粒が落ちる迄時を刻んでいる。 そして砂が尽きたら土に還るだけのこと。 ただ、呆気ない別れには言葉もない。 この4日ほどの熊本の尊い命には言葉が見つからない。 しかしいつまでもうつむいているのはよそう。 今、この砂の一粒一粒を大切に生きねば。 頑張って人の為に生きても一粒。 ぐうたら自分の為に生きても一粒。 同じ一粒か、ならば人の為に生きてみようか? 何の為の80年だったのかと悔やむ前に 動けなくなってベッドの上で横たわる前に 人の為に、人の笑顔の為に生きてみようか?
47名の嘘
土をこねて器を創り上げている。 人を創るとは、そんな事ではないだろうか。 小さい頃から自由にさせて、やりたい事をさせるだけでは難しい。 良い芽を更に伸ばす為に、その子の良い面を引き出してあげたいと いう先生は多いだろう。 何事も本人に気付かせるのだという。 確かにそういう習い事もあるかもしれない。 しかし私はこうも思う。 まだ土のうちならば器の大きさは変えられる。しかし焼き上がった器の 大きさを変えることは出来ない。のだと。 大事な事は無理にその大きさ以上のことを期待したり、押し込んでしまわない ことであって、無理やり物を押し込むと枡や器は割れるほかはない。 人間は強いものではなく弱いもので、嘘もつけば裏表もある。 考えている事と行っている事が違うのが人間ではないだろうか。 私は裏も表もありませんなどという人には嘘があるように思えてならない。 但し、ついていい嘘とそうではないものがある。 先日、防衛大学419名の卒業式の帽子投げの映像を観た。 「防衛大学任官拒否47名」とあった。 腑に落ちない。 防衛大学生は自衛官の幹部候補生を養う為の大学だ。 だから講義や訓練を受けながらも特別に国家公務員という立場にあって 学生なのに毎月109,400円の給与が出て年に2回の賞与も出る。 それを4年間やり過ごしたあとに任官拒否するとは如何なものだろう。 人間は、損得勘定で嘘をつくもにではない。 食うに困って野垂れ死にしそうな時に道端に1万円が落ちているのを見つけても 多くの人は警察には届けないだろう。 その嘘と、任官拒否した47名の嘘とは何かが違う。
微生物
いつも思っている。 人間は微生物に過ぎない。 今話題の素粒子の大きさは、10のマイナス35乗。 それが作り上げる原子核の大きさは、10のマイナス15乗。 原子1個の大きさは、10のマイナス10乗。 東京タワーの高さは、3 x 10の2乗。 富士山の高さは、3 x 10の3乗。 地球の直径は、10の7乗。 地球が太陽の周りを回る公転の大きさは、10の11乗。 地球がある太陽系は天の川銀河の片隅にある小さな星の集まり。 天の川銀河は地球の公転軌道の10億倍の、10の20乗。 その天の川銀河は他の銀河系と銀河団を作っている。 その銀河団の大きさは、天の川銀河の1000倍で、10の23乗。 人間は、そんな宇宙の点のような地球に生きる微生物。 地球は時速1666kmで自転し、時速10万kmで公転している。 ジェット機の速さは、たかだか800km〜900km。 人間は生まれてこの方、こんな超高速の地球の上で暮らしている。 46億年も前から地球は、その運動を変えてない。 そして、その運動はまだ続く。 だから思う。 この運動に沿う生き方でなければならないと。 それを探ったのが紀元前1000年前からある中国の十二支だ。 今年は申年。 いや違った。 普通のさる年じゃなくて、今年はひのえさるだった。 ひのえさるは、変革の年。形がハッキリする年で地が固まる年だった。 今年の芸能界を診てるとなるほど、隠れていた物が顕になり正しい形に整っている。 その運動はまだ続く。 地球に生きる微生物にも、着実にその力は及んでいる。 私はそんな微生物でしかない。
たった1点差
昨日は長男の大学で医学部の卒業式が行われた。 その後、場所を目白の椿山荘に移して謝恩会が披かれた。 参加していたご父兄の内約7割は医者だ。 医者の奥様達の半数は和服で極めていた。 やはり日本人の女性には和服に勝るものはない。 この大学の現役111人が医師国家試験を受けたが結果は110名が合格。 1名だけ国試浪人となった。 国試は2月6日から一般問題、臨床実地問題、必須問題に分かれ3日間にわたって行われた。 その結果、その学生は必須問題で1点だけ足らなかったという。 それで今年1年を国試浪人として送ることになる。 たった1点。 されど1点だ。 一人だけ落ちたその学生も卒業式と謝恩会に出ていた。 辛かっただろう。 57歳にもなると1年の違いなんて、左程大きなものではない。 しかし25歳では人生と神様を恨むかもしれない。 たかが1点。 それが重い。 彼よりも成績の悪い人がその試験に受かっていたから尚更だ。 喜んで謝恩会ではしゃぐ若者達は彼に拍手を送っていた。 10年後、20年後、いや30年後、この学生はどういう人生を送っているだろう。 来年、彼が医者の扉を開けて一歩踏み出したとしたら、人の痛みを知った医者になるのは間違いない。 多くの弱い立場の人を助けてくれる医者になるかもしれない。 神様は、幸運を与える時には遠回りをさせるものだ。 今日、空手クラブの何人かの子供達に伝えたことがある。 「世の中、すべてこの1点差で決まる。」 「運よく滑り込んだ人生がいいとは限らない。」 「人生はマラソンだ。」 「挫折から何かを学ぶ人であるのか、挫折から人生を恨む人であるのか。」 「神様は可能性のある人には試練を与える」 子供達には難しい話だったはずだ。 多くは、何を言っているか分からなかっただろう。 でも、それでいい。 ただ真面目に何かを伝えようとしている大人がここにはいるのだ。
花を咲かせる
春三月は何かと忙しい。 卒業式に、転勤、転居。 桜が咲くころの入学式の準備。 制服がある学校は、その採寸もやらねば。 涙あり、笑いありの梅の季節は気忙しく過ぎて行く。 そんな中、お世話になりっぱなしの義父が昨日3月12日朝7時過ぎに肺炎の為、息を引き取られた。 義母は4年前のロンドンオリンピックが開催していた8月にお別れしている。 膠原病だった。 この二人なくして長男の医学部の卒業はなかった。 その長男の医学部卒業式まであと2週間を残すところだった。 経済的に援助してくださった義父も義母も今はこの世にはおられない。 空は、曇って肌寒かった。 昨日の稽古で出くわした子らの顔を観ながら、その子たちの10年後の顔を覗き込んでいた。 真っ当であれよ 辛抱強くあれよ 運に恵まれる子であれよ そう思いながら幼き子らの顔を観て居たら、あっという間に時が過ぎた。 今日は空手の演武会。 あれをこうやって、これはこうやってと考えていたことの半分も整理がつかないまま 当日を迎えてしまった。 困った。 自分の演武をどうするかまで正直なところまったく頭が回ってなかった。 そんな折、一本のメールをもらった。 見ると久しぶりの名前だった。 聖光学院3年生。 現役で東大理科1類を受験した秀才。 メールは無事合格した報告だった。 昨年夏以降、東大模試はずっとA判定をキープしていたからたぶん大丈夫だろうと 思ってはいたが、実際に結果を聞くと安堵する。 彼は昨年9月まで空手の稽古を続けながらも、勉学も怠らずいいバランスを維持したと思う。 10月から約5か月の集中勉強で東大理科1類合格だった。 すべてはバランスのようだ。 空手に偏っていては相当なプロになる以外は飯が食えなくなってしまう。 だから稽古の終わりには、必ず生き方、勉強の仕方の話をする。 幼稚園児や小1には飽きてしまう話だ。 指を嘗めたり、ゴソゴソしたり。 それもしようがない。 見ていてそう思う。 でもいずれ分かる時が来るから、その子たちの成長を見守らねば。 人の心には、一人一人の花があって、形や色は様々だ。 大事なのは、その花を啓かせることなのだろう。 誰しも、精一杯に生きようとする力があって、力いっぱいに咲き誇ろうとしている。 その蕾を見出し、開花させねば。 そんな思いを胸に抱いて、いつも子らを看ている。 春は、何かと忙しい。
どん底
春を見つけた。 庭のあじさいに蕾が見えた。 春が来た。 夏が過ぎて、秋になったら、冬が来ていた。 そしてまた、春を見つけた。 ずっと同じことを繰り返してきた気がする。 でも去年の春より、庭のあじさいは大きくなっている。 1年生が6年生になり、2年生が中学1年生になる。 この5年間で子供達も大きく成長したようだ。 風邪を引いて熱を出して、怪我をしたり、泣いたり、笑ったりしながら大きくなった。 でも、せっかく医者になっても、医療報酬詐欺で逮捕された女医が居たり 進路指導の面談を廊下で行い、間違った調査資料を元に、1人の中学生の 人生を終えさせた女教師が居たり そして陸前高田市で卒業式を待つ小学校6年生が居たり 自宅も職場も失い、家族を失い、どん底を味わった人が居る。 人生のどん底を味わった人と人生の快楽を謳歌した人が居る。 どっちが良かったんだろう? これから先を見ると、どんな5年が良かったんだろう? 一体全体分からない事ばかりだ。 ただ間違ってない事がある。 それは人間、どん底を味わって初めてDNAが覚醒するという事だ。 大事なのはこの身体の細胞が記憶している100万年前のホモエレクトスからの 経験則を呼び覚ます事かもしれない。 この短い人生でそれが出来たら、そこから人生は変わるだろう。 ジャワ原人が北京原人に変化する過程で ネアンデルタール人がホモサピエンスに変化して行く中で それぞれが経験して来た飢餓や外敵から逃れて来た記憶が細胞の一つ一つに 深く刻まれているはずだ。 それを覚醒するきっかけが、どん底に落ちることだ。 せっかく受け継いだこの100万年の間の遺伝子を眠らせたままでは勿体無い。 DNAのスイッチを入れるのは自分自身だ。 さあ、スイッチをオフからオンに切り替えようじゃないか? どん底に怯えてたまるか!