歯科医院
家の近くの交差点に5月中旬に歯科医院が出来る。 半年前にはそこから500メートル東に、そして1年ほど前には 家から歩いて1分の所に歯科医院が出来ていた。 なのにまた出来る。 歯医者さんはマーケティングという事をしないのだろうかと首をひねりたくなる。 それに5月に出来る場所は、角地だけど、今まで開業したお店は半年ともっていない。 最初は洒落た子供服のお店だった。その後別のショップ、それからオシャレな今風の 介護施設。それがいつの間にか閉じていた。 その後3ヶ月は入居者がなかった場所だから 近隣の人なら其処が商売に向いてない、いわく付き物件だとピンとくるはずだ。 なのに、そこに大きく「歯科医院 5月開業」という文字が現れた。 石を投げれば歯医者に当たる時代。 経営は難しかろうと察しがつく。 弁護士は司法試験に合格しても食べて行ける人は少ないと聞く。 それに法科大学院から司法試験に合格する割合は2006年に48.3%だったものが 2014年には22.6%にまで落ち込んでいる。 そんな合格率で世に出ても司法事務所に 就職出来ず公園で暇を潰す人は少なくない。 今年の歯科医師国家試験の合格率は63.8%だった。 しかし毎年の事だけど松本歯科大学とGReeeeNの奥羽大学を除けば70%は超える。 ただ歯学部の学費は国公立組であればまだいいが、私立では平均3000万円もかかる。 この先行投資には確実に回収出来る見込みがなければ進路を変える判断が真っ当だ。 そんなことを考えながら長津田駅北側の住宅街を歩いていたら 「歯科医院 5月19日開業」の文字が目に飛び込んで来た。 何で歯医者さんばかり増えるんだろう? やって行けるのかな? その歯科医院の立派な外観が気になってしようがない。 頭の良さとビジネスは別物なのに。 テストの点数は稼げてもお金を稼げるとは限らないのに。 運を引き寄せ、知恵を働かせる方法は学校では教えてくれないのに。 大丈夫なのかな? 来年のゴールデンウィーク、私の家の近くの交差点はどうなってるだろう。 たとえ高濃度ビタミンC点滴療法の内科であろうと eスポーツのお店であろうとも あの全戦全敗の場所では難しいかろう。 6月4日からの歯の衛生週間に向けて雨後のタケノコは、まだ芽を出しそうだ。 私にはわからない、生まれ死にゆく人は、どこからやってきてどこに去っていくのだろうか。また、生きている間の仮住まいを、誰のために心を悩まして、何のために目を喜ばせようとするのかということも、またわからない。家の主と家とが、無常を争っている様子は言うならば、アサガオとその葉についている露と同じようなものである。露が落ちて花が残ることがある。残るとは言っても朝日がさすころには枯れてしまうが。あるいは花がしぼんでも露が消えずに残っていることもある。消えないとは言っても夕方になるまで消えないとうことはない。 ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。 長明
ウォータースライダー
ダフネ、デュ、モーリアという方は1938年に31歳の若さで「レベッカ」を書き上げた。 その後「鳥」も書いた。 それをヒッチコックが映画にしてヒットさせた。 その91年前の1847年。31歳のシャーロット・ブロンテが「ジェーン・エア」を そして29歳のエミリー・ブロンテが有名な「嵐が丘」を世に出して翌年30歳で他界した。 不思議な事があるものだ。 共通することは30歳前後の若い女性であるということと文章力が並外れているということ。 そういうばアガサ・クリスティも1920年に30歳で作家デビューしている。 アガサは学校には行かず7歳まで字も書けなかったらしい。 それが30歳を過ぎると文字の達人になっている。 不思議な事があるものだ。 寂しく暗い幼少期は空想の世界で特有の能力を開花させ得るということなのだろうか。 話を元に戻そう。 ヒッチコックの「レベッカ」にはジョーン、フォンテーンという女優さんが出ている。 お姉さんは、「風と共に去りぬ」でメラニー役だったオリヴィア・デ・ハビランド。 2人とも東京生まれで、2人ともアカデミー主演女優賞を取っている。 兄弟姉妹で取ったのは、この2人しかいない。 不思議な事があるものだ。 妹は4回結婚し、姉は2回結婚している。 お父さんは96歳、お母さんは89歳、妹は96歳で亡くなった。 姉は99歳でまだ御存命だ。 これだけ波瀾万丈な人生なのに。 不思議な事があるものだ。 たとえば人生はロウソクのようなものなのかもしれない。 その灯が消えるまで自分では灯を消せないのではあるまいか? 何をやろうと、どれだけ苦労しようと、ロウソクの灯が消えるまで生きて行かねばならない。 もしそうだとしたら、他愛も無いことを気にしながらビクビク生きる人生なんて意味がない。 大地震が起こって多くの尊い命が奪われても、自分がいる部分に偶然、空洞が出来て 5日後に救出されることもある。 不思議な事があるものだ。 ただ分かっていることは大いなる流れの中で生かされている訳だからウォータースライダー のてっぺんに登ったら、あとは手を離して滑り落ちるだけのこと。 親切な人も、意地悪な人も、思い煩う人も、大胆な人も、みんな水しぶきを上げて滑り落ちる。 水の粒子に揉まれ流され落ちていく。 一粒一粒の圧力に負けるまで落ちていく。 天地が逆転して耳と鼻の奥に水と泡が届くまで落ちていく。 やがてその勢いも弱まって肩の力も抜けた頃、ようやくプールの底に辿り着く。 人生、摩訶不思議。 行き着く所まで行くようになっている。
閻魔大王
韓国ソウルで3月、本庄第一高校の男子サッカー部員が集団万引きをしたという。 4月24日、同部監督の男性教諭(48)を懲戒解雇、コーチの男性教諭(32)を 停職1カ月の処分とし、万引きした生徒29人は全員、無期停学以上の処分としたらしい。 29人でベルトや財布など78点(30万円相当)を窃盗したという事件は、彼らに とって、今回が初めてではなかったらしい。 高校生にもなって、それが悪いことだと思わなかったのだろうか? 監督は何故、そういう環境と雰囲気を作ってしまったんだろう? 個人的にはサッカーは大好きなスポーツの一つだ。正月の高校サッカーと日本代表の試合 、そして、なでしこの試合もほとんど観て来た。ドーハーの悲劇からずっと。 それが高じて私の次男が小学校2年の時小学生のサッカーチームに参加させたくらいだ。 しかし、振り返って見るとお習い事三昧は親のためだったかもしれない。と今は思う。 水泳にピアノ、サッカー、そして空手。思い出せないものが、あと二つ。 空手以外のものは全て子供がやりたいと言ったから始めたものだ。 子供が可愛くないという親はいない。だから甘やかしてしまう。 子供の楽しそうにしている顔が見たいから、容易に習わせてしまうのだ。 給料はお父さんのスーツや靴に化けることはなくても子供と奥様のものにはすぐ使われる。 子供が興味を示したから。 お友達が通ってたから。
浮草人生
お金に不自由せず、明日の食べ物にも悩むことのない幸せな家庭に育ち、好きなことを 思う存分させてくれる環境に浸り切るのもいい。 快楽三昧の生活が無縁の人生だったから、たまにそんな事を思う時がある。 フィットネスジムは年配の方々の憩いの場になっている。 定年を過ぎて老人ホームに入る迄の僅かの間、フィットネスジムやテニスで余暇を過ごす人が 増えているのかもしれない。 時間に縛られず金に糸目をつけず活きてみたいとつくづく思う。 ジムで筋トレをしていると、諸先輩方の悠々自適の生活が羨ましくなる。 悩みは人を成長させてくれるから逃げずに頑張ってみたら、とささやく声が聞こえる。 自分が好きで選んだ道でも、時とともに最初の意気込みは薄らいでくる。 そして次第に、つまらない人生だなと振り返るようにもなる。 果ては、こんなはずではなかったと悔やまれる。 人間である以上、その繰り返しだ。 そして毎日続ける練習は単調なものときた。 だから努力と忍耐がなければ続くものではない。 成り行きで始めたお稽古事も意気込みが薄らぐ時が来る。 人に勧められたお稽古なら尚更だ。 でもすべて最後に決めたのは他ならぬ自分なのだ。 そうだとするなら、これも自分の運命と心を定め、その稽古に打ち込むしかなかろう。 さもなければ中途半端な辞め方がお決まりの浮き草人間になってしまう。 周りに集まる原石を研くために私は鞍馬山の大天狗になると決めた。
責任者出て来い!
4月16日の毎日新聞の社会面に聖マリアンナ医大の指定医取り消しの記事があった。 見ると虚偽申請が常態化していたらしい。 ここまではよくある記事だ。 しかし、いつもより一歩踏み込んでいた事は、何より20名の医師の実名が掲載された ことだろう。申請時に不正があった医師11名、指導医として確認を怠った医師9名が 新聞紙上に曝されていた。 メモリーに記憶されたレポートを先輩医師から受け取り内容を書き換えて使っていたという。 もちろん指定医の診療報酬は高くこの11人で合計170万円も上乗せされていたのだ。 病院に行くとよく目にするのがこの指定医の認定証だ。 これ見よがしに一番目に付く場所に掲げられている認定証の持ち主は、果たして 真っ当な手順で取得されたものなのだろうか。 それともUSBメモリーを駆使して得たものなのだろうか。 何やら疑わしくなって来た。 此処まで来ると、この大学の調査委員会の委員長もどんなものかと勘繰られてしまう。 http://teccsolucoes.com.br/nib/youtube-dating-dark-uk/free south australian dating sitesphiladelphia sports club personal trainer salarysingles dating site free
本気で
世の中には、いろんな人がいる。 他の人には思いも及ばない事情があったり、想像を越えた悩みを抱えていたり。 見方や考え方もことごとく違う人もいる。 同じ事に出くわしても感じ方は千差万別。 悪気はなくても人を不愉快にさせてしまったりもする。 だから自分はこう思うから、人もみなそう思うはずだなどと思わない方がいい。 自分の物差しと他人の物差しは異なるのだ。 世の中にはいろんな人が居て、自分の思い通りに行かないのが人生だ。 そして多くの人達と肩を寄せ合い暮らしているこの世の中で、自分だけを大事にして生きて 行くことなど出来そうにない。 自分だけが、自分の家族だけが、うちの学校だけが、 うちの仕事だけが、、、。 online dating los angelesdahling dating divasview website もしそんなことをみんなが考えて暮らす世の中だったとしたら 対立や衝突の毎日が繰り返され、気が休まることはない。 若いご父兄に取って子育ては初めての事ばかり。 子供が熱を出しただけで慌てふためき、近所でイタズラをしたと聞けば、目を吊り上げる。 せわしない世の中は親の事情などを待ってはくれず試練に終わりはない。
情けは人の為ならず
他人には情けをかけるべきではないのだろうか? 先日テレビを観ていて、ふと、その言葉が頭を過った。 元ジャイアンツの清原さんが中居正広さんの番組に出ていたからだ。 昨年来、多くの人が清原さんから距離を置いていただけに どうしたことかと番組に目を留めた。 麻薬、ドラッグの噂は芸能界でも、ご法度なのだろう。 http://todiadiyatmo.com/kqd/dating-profile-writing-service-reviews/dating services tulsa okdating a bipolar alcoholic 潮が引くように人が去っていくのも当然だ。 清原さんからの電話を着信拒否にした人もいたらしい。 関わり合いになりたくはなかったのだろう。 しかし中居さん自身は、熱烈なジャイアンツファン。 そのことがそうさせたのか、それ以外に何かがあってのことかは分からない。 でもみんなが手を引いた清原さんとの距離を遠ざけなかった。 中居さんは大阪の森脇健児さんの時も、復活の目を創ってあげていたように記憶している。 以前、ナニワ金融道の灰原 達之さんを観ていて思った事がある。 天国と地獄は紙一重。 たった情けの差ほどしかないのだと。
志
志というものは、春の雪の様に儚く溶けて消えやすい。 人として生涯の苦労は、その志の高さをいかに守り抜くかによる。 でも、その高さを守る工夫は特別なものではない。 日常生活の自らの規範・規律にあるのだろうと思う。 たとえば、しゃべり方、動作、人との付き合い方、呼吸の仕方、お酒の飲み方遊び方 それら全てが志を高く保つためという思いに通じていなければならないと思う。 つまり、一旦、志を立てたらその成就に精根使い果たし、卑しくも弱音など吐いてはいけないのだ。 たとえば川が堤を切って氾濫する時のように、その情熱は止め処なく広がらねばならない。 理由も意味もなく、まるで自然現象のごとく、水の勢いのまま行きつくところまで行く。 若さと、情熱と、志とは、そういうものではないだろうか。 春は、いつの間にか桜とともにやってきていた。 ふと見ると庭の木香バラに若葉が目立ってきた。 あと一か月もすれば庭一面が木香バラの黄色一色に色づくはずだ。 しかし、その花も長くはもたず呆気なく花は散り、庭の活気は消えうせてしまう。 それはまるで人の臨終に立ち会うようなものかもしれない。 人は、ぼろに身を包み、こちこちの板の上に身を横たえ、苦しみ悶えながら息を引き取るようなもの。 人はその板の上で手を合わせ、死に怯え、その間際まで神の助けをつぶやき続けるもの。 そして、いまわの時を迎え、怯えも消え、意識がすっと消えていくのだ。 生を受けた者は必ずそれを経験することになる。 人は花が散るように息を引き取って灰になる。
今、思うこと。
人間は運という点で少し植物に似ているかもしれない。 昔、封建時代に生きた人は、植物の様に その位置に植わっているのと同じだった。 だから人を柿の木のように植え替えることは難しいと 思われていた。 dating 19 year oldsblack dating advice tipsfree sugar mummy dating sitedate of birth certificate online jaipur それがつい150年ほど前までの日本だった。 だから何事も天の成せる技なの かもしれない。 大きなものから受けている恩恵の中に吾々人間は活きている。 そんな気がしてならない。 今日、ある方からメールを頂いた。 暗闇の中を歩き漂う私に、ほのかな灯を分け与えてくれた。 いつも大変お世話になっております。この空手クラブに入会させていただいてから早二年が過ぎました。小学校生活1年目を終え、感謝の気持ちをお伝えいたしたくメールさせていただきました。直接お稽古の時にお会いしてお話しさせていただければ良かったのですが、家庭の都合でなかなか最近は伺うことができないため失礼ながらメールさせていただきます。 去年の今頃は小学校に入学するにあたり、我が子は他の子より背が小さかったり、あまり強くNOと言えない性格なので、学校で大丈夫かな…いじめられないかな…と親としてとても心配していました。入学してからこの1年、やはり男の子ですので色々とありました。お友達に言われたことを嫌だと断ったら蹴られたり、空手を習っているから殴ったり蹴ったりしても大丈夫と変な誤解をされ、一方的にやられて学校から連絡がきたり、ヒヤッとさせられることもありました。
試合
西田師範主宰の清武会第115回春季トーナメントに33人が出場させて頂いた。 結果としては入賞者は6名。(優勝1名、準優勝2名、4位3名) その他の方々も惜しい試合が多かったと思います。 空手は日常の稽古が大事。しかし非日常的な緊張感を経験することも大事。 そこに試合に出る価値がある。 スパーリングと試合は別物。鉛のように重く感じる手足と120%燃焼される心臓と肺。 相手の容赦ない蹴りとパンチ。この時ほど時計の針を意識することはない。 たった2分の必死の攻防がスローモーションのように感じられる。 「延長などしたくはない。」 でも判定で引き分け。 「あと2分もやるのか?」 2分という時間がこれほど長いと感じることはない。 「もういい、終わりたい。勝っても負けてもいい。」 そんな時に聞きなれた声が背中を押してくれる。先輩、後輩が応援してくれている。 「下がるな」、「前蹴り 入るよ」 「分かってるよ、でも足が上がらないんだ」 「頑張れ、残り30秒だ」 「まだ、30秒もあるの、無理だ。」 「ここからラッシュだ〜」 「相手の息づかいが聞こえる。相手は弱そうだったのに押してくる、あ〜無理だ」 お母さんの声、友達の必死の声援。