自閉症
すすき野小学校を何とか無事に卒業出来たことがただ有難く感じられたのは、もう7年も前のことです。すすき野 中学校では野球部に入り球拾いの毎日でしたが途中で辞めることなく3年間をつつがなく過ごさせてもらいました。 生まれてからの2年間は泣き喚いて、奇声を発するだけで言葉をしゃべりませんでした。漸く言葉を口にしだしたのは 3歳を過ぎてからのことです。保育園でも先生とのコミュニケーションが取れず好き勝手に動き回ってしまう始末。 ちょうど、そのころ同じ保育園にマサキ君という同じような症状の子供がいました。どういう訳か皆についていけない 二人は波長が合い、マサキ君とうちの次男はいつも一緒にいるようになったのです。よだれを垂らしたままのマサキ君と 、いつも自分の世界にこもっている次男は見た目で、変わった子供であることは判別できました。マサキ君のご両親も いろいろ悩まれていたと思います。お父さんは当時有名な野球選手。伸びのある速球を投げる方でしたがヒジの怪我で 長期間入院され、その後復帰した試合でヒジをプレートに付けて何かを祈っていた姿が印象的でした。現在のマサキ君 は確か桜美林大学に進まれたと聞いてます。もちろん野球をしながら。 うちの次男は普通のクラスでは無理だろうと あきらめてはいたものの、何とかすすき野小学校、すすき野中学校を卒業させて頂き、日大桜ヶ丘高校に進みました。 言葉をしゃべるのが遅かったため、小学校低学年の時には他の子供より2-3年は知能が遅れていたと思います。 いろんな機関に検査や受け入れ施設の相談に行きましたが結局は自分達が普通の小学校に入れて、普通に育てる んだと決めて、一つ一つをその子供のレベルに合わせて成長の過程を作り上げてきた結果が、今なのだと思うのです。 出来るだけ脳に刺激を与えること、そのために出来るだけ運動をさせたこと、空手もその一つでした。柔軟運動をさせ、 汗をかかせ、皆と一緒の行動に馴染ませること。これは自閉症の子供にはきっといい刺激になると思い空手の稽古を 続けました。もちろん家での勉強も毎日行い、一緒に復習をしたことなど、今から思えば気の遠くなる地道な作業でした。 もちろん塾に入れることも考えましたが、到底、塾に通えるレベルではなく、相手にしてもらえないということは親が一番 分かってました。そうなればあとは腹を据えてどん底から這い上がるしかないと踏ん切りをつけるだけのことでした。 いつも藁をもすがる思いで成長を見守ってきた気がします。そんな次男の野球は9番ライトが定位置。試合に出して もらえるだけでも有難かったと思います。その子が地道な苦労を重ねた結果、運よく日大桜ヶ丘高校に入学することが 出来て、そこで始めた陸上は、経験者ではなかった為、最初から同級生の背中を見て走る毎日でした。本人は何度も、 もう辞める、もう辞めると言っては明日だけーーー。と言いいながら何とか春夏秋冬を超え、1年をどうにかやり過ごす ことが出来ました。その頃も軽い自閉症の感覚は残ってましたが毎日の努力と適度な運動の効果は、次第に明らかに なってくるのが分かりました。長距離を走る息子の低位置は常に最後尾でしたが、2年生の秋を迎えるころには、多くの 生徒が疲労骨折や足首の怪我などで悪戦苦闘し出した為、いつしか本人は皆の真ん中を走るまでになっていました。 それから半年が経った3年生の春には同校の長距離で息子の前を走る生徒は誰もいなくなっていました。高校に入って から始めた長距離走は、わずか2年半で終わってしまった為か、本人は、そのまま大学の陸上部の寮に入り、朝5:25に 起きて早朝練習、夕方も練習という毎日に身を置く道を選択していました。いつも皆の会話について行けず、置いてきぼりが 低位置であった子供が今では普通の大学2年生になっています。まだまだ箱根駅伝に出れるレベルではありませんが、 それを目指して雨の日も風の日も、暑い日も寒い日も努力し続ける姿勢があれば、いずれ花は咲くような気がします。息子の 過去を振り返ってみると、そう思えてならないのです。
浦和高校
浦和高校は私の父が通っていた高校だけに妙に懐かしい響きがありました。父は昭和24年に入学しましたが家計 が苦しく浦和高校を中途退学して川口のサッポロビールの工場に働きに出ました。戦後間もない頃の話です。父は 勉強がしたくて浦和に入ったのですが、母子家庭であったことで自分の将来よりも今の家計を考えたようです。しかし 、このサッポロビールも一部上場企業なので学歴がものを言うのは明らかでしたが昭和24年当時は、この選択肢 しかなかったようです。30歳代になると、そのことが顕著になり父よりも若く、社歴の浅い人が上司についたなどと 愚痴っていたことを思い出します。浦和中退=中卒であった父の肩書きは班長、主任がいいところでした。そんな 父の口癖は大学は出ないと駄目だということで兄も私も、その通りにさせて頂きました。父は自分と同じ苦労をさせ たくはなかったのでしょう。今、私の長男が医者の道に進もうとしています。その息子が今の3年生から、その先、 留年することなく順調に行ったとして医師国家試験を受験できるのは2016年2月。亡き父がサラリーマン時代に学歴 で苦労し出した30歳ころ(1965年)から、医学の分野で学歴で頂点を極めるまで世代を超えて約50年もかかることに なります。しかし、是非成し遂げてもらいたいし、本人もそれを信じ勉強に励んでいてくれてることと思います。医者 の家庭から医者を出すの大変な苦労を伴うものではないでしょう。しかし、そうでない場合は素質・資金・運がない と叶わないと思います。それに加え何よりも、その親の信念・努力がないと子供は親の枠を超えられません。自分 が受けてきた教育以上の教育を子供に施す信念と余裕が、その親になければ、その子供は、その親以上には なれないのです。私が目指すものは、そのような世代を超えたワープです。子供が親以上になってくれること、 親が成し遂げられなかったことを成し遂げてくれることにあります。親がその気にならなければ子供の人生は 変わりません。 という訳で、この空手クラブは、単なる空手だけを教える場ではなく、教育の場であり、 いずれご父兄様方と子供達の人生設計を考え・語り合える場を設けることが最終目標です。 遠くない日に、 こういう会話をご父兄様達と出来るようになればと思います。努力はいずれ報われる。そう信じております。 またこの空手クラブは、そう信じてる方々との出会いの場でありたいです。
エミリーブロンテ
昔、大学で取ったゼミはSEのプログラムという訳の分からないものでした。なぜその科目を選択したのか、はっきり 覚えてませんが、後々何度も後悔したことは覚えてます。結局ゼミにはついて行けず講義には出るものの一番 後ろの席で夏目漱石の小説を読みふけっている日々が続きました。あわてたのは卒論です。ゼミの卒論で単位を 落とせば卒業出来ないわけですから、なけなしの知恵を絞って考え出した策がゼミの先生に、正直に話をしてSEは全く 理解できず夏目漱石の小説ばかり読んでましたと伝える事でした。最後には、それを卒論にしたい旨をあつかましくも 申し出ていました。しかし大村先生という方は粋な方で「君が熱中したことであるならそれでいい」と言ってSEのゼミ 始まって以来でしたが文学部の学生のように「夏目漱石に関する卒論」を書いてしまったのです。大村先生には 感謝の言葉しかありませんが、またそんな卒論に「優」を頂き私の成績表に色を添えて下さいました。 こういう訳で私はSEのプログラマーのゼミながら文学を好み、中でも夏目漱石については凝り固まっていたのです。 その夏目漱石が影響を受けたのは英国文学で、その中でも女流文学のエミリー・ブロンテの嵐が丘や、 シャーロット・ブロンテのジェーン・エアーは特に造詣が深かったようです。1902年12月に日本に帰国した漱石は 東大の講師となり、そのころから小説も書き出しています。その後、朝日新聞に勤めながら小説を書き続ける のですが、小説家としては大変、遅咲きであったと言えます。また漱石の蔵書目録にはブロンテ姉妹の小説が すべて残されてることから、ブロンテ姉妹の思想は多少なりとも漱石の小説に影響を与えた可能性は高いと 思えます。そのブロンテ姉妹はヨークシャーの人です。嵐が丘のエミリーは1848年12月19日に30歳で亡くなり 、その19年後、漱石が生まれ、49歳の1916年12月9日に亡くなられてます。エミリーが亡くなって68年後でした。 そのまた64年後の1980年12月9日(日本時間)ジョンレノンが亡くなりました。ジョンレノンは12月8日に亡くなった とされてますが、日本では12月9日でした。 私が好きなアーチストや小説家の命日となった12月9日に私は 生まれました。 エミリーブロンテの名前が、つい数年前に見え隠れしたのは「ハゲタカ」というドラマのラスト の曲に彼女の詩が使われたからでした。いい曲です。詩を読めばもっといいものだと分かりますし、それを 164年前の30歳の女性が書いたというのも驚きです。しかし嵐が丘を書いた方だと聞けば、納得です。私は それほど嵐が丘が好きで、漱石がブロンテ姉妹の蔵書をすべてコレクションしたという気持ちも何となく 分かる気がします。
東大秋入学
3月30日の ある新聞に東大のことが書かれていました。東大学生の家庭年収調査結果です。東大学生の 52%は年収950万円以上の家庭のご子息で、17%が450万円未満だというのです。この実態をどう見れば いいのでしょう。やはりお金がないと塾には通わせられないし、中高一貫校にも入れられない。結局のところ裕福 な家庭しか望めないというようにも読み取れます。しかし、親の年収が高いか低いかではなく、何に親の関心が あるのかということも子供の将来に影響を与えるように思えるのです。それは「親の思い」、「親の視野」、「チャレンジ 精神」、「親の経験」など様々です。 親が真剣に子供の将来を考えて、いつも気にかけ、あきらめずに育て上げれば 結果として鳶が鷹を産んだと言われるようになるかもしれません。東大に入るにはその家の年収ではなく、その 家の親の志のようなものが影響するのではないかと思えます。親とは母親です。母親があきらめないで志を高く もってこそ、子供の将来は大きく開けるように思えます。 東大の秋入学の記事を読ませて頂いて、なんだか勝手に、そんなことを考えておりました。 今は、春の高校野球が真っ盛り。なんとも心に残る選手宣誓。きれいな心の言葉は何度聞いても気持ちがすがすがしく なります。AIJの社長のニュースとは対照的なものでした。一流大学を出て一流企業に入り7千万円もの給料を 手にしても心が磨かれてないと結局は一時的な繁栄で終わるということが、また繰り返されていたようです。あの社長 なら秋入学を率先したのでしょう。私には、春でも、秋でも変わりはないように思えるのですが、ただ、心を磨くことを 怠ると一時的な繁栄に目がくらむ人ばかりが世に蔓延るように思えてなりません。 頭のいい子供を育てる過程では そこを誤ってはならないと強く思いました。
Fortune-teller
A written oracle : Pretty good. The fortune-teller says that You are suffering from a trouble no one has noticed. Be patient and faithful and abide your time, and you will have a great fortune. Abide time with patience, just as the tide
空手と受験
空手は私の生き様であり、生き方の根底にあるものです。大山総裁のYOU TUBEは今でも何度 も見返します。昔の全日本大会のYOU TUBEも、また現在の全日本や体重別の試合も必ず 応援や観戦に行きます。 そしてまた別の側面では、長男を中学受験と大学受験。また次男を 高校受験と付属大学への推薦入試など子供達の進学の過程の約12年は、長くスリリングな ものでした。そして、これから先の4年間で医師国家試験の受験で完結するだろうというのも、実は 私の人生の重要な部分でもあります。そういう意味では、そのすべてが臨場感ある受験人生の ドラマとも言えるでしょう。 自分の経験してきた受験とは、あくまで医学部の難関を目指すための 最短距離のことであり、それを実現するための近道のことです。 空手教室は まだ始めたばかりです。生徒が増えるのはまだ先のことでしょう。いや、増えない かもしれません。しかし、それでもいいと思ってます。 空手は私の生き様であり、医者になる為の 過程を作ることは私の生甲斐なのですから。 謂わば自己満足でも、それで十分なのです。 いつの日か医学部受験に真剣に取り組む親子に出くわして難関を越えるワクワク感を共有 できれば、それはそれでいいのです。その為のアドバイス要綱はすでにどの工程も使用実験 済みで、失敗項目に対する対策案も盛り込み済みですから。 何だか私が目指すことは医学生養成空手塾のようで、おかしなものです。 でもそれが 私の興味のあることなのだから、開き直ってやるっきゃありません。 あとは、この横浜青葉区 で、その出会いを待つだけです。 長男の医師国家試験までの4年間に何人の方とお会い出来るのか、 また、この先も留年した 息子が どう医学部3年次を乗り越えるのか、このブログでご報告させて頂きます。乞うご期待。
医学への道
医学の道を志す場合、二通りの道があります。一つは偏差値の高い、超難関の狭き門を超える 一般試験受験コース。もう一つは付属校に入り推薦で上るコース。医学部には、このコースが あるのは多くの方は知りません。私も認識不足で一般受験の道を息子に歩ませ、おかげで1年 浪人をして駿台の国公立医学部コースで勉強させていたのです。しかし慶応も日本大学も付属 高校からの推薦枠を持ってます。(東海も帝京もありますが、その枠は僅かです) いずれも 学校ではトップクラスでないと無理ですが、一般入試で医学部に入るよりは間違いなく楽です。 現在は、私立医学部の下位大学でも東大、早慶の理系偏差値レベルが必要です。もしくは東北大 の工学部よりも都内の私立医学部を目指すのが今の風潮となってきてます。その為に首都圏の医学部 の難易度は大変高くなってきています。 首都圏で医者になれば勤務医でも年収は1千5百万円~2千万円。 田舎に行って医者になれば2千万円~3千万円。僻地に行けば行くほど年収は上ります。 しかし、親元から離れて、遠い田舎で医者になるよりも都会で一緒に暮らしながら医者になって 欲しいと思う親が多いのでしょう。 過去は偏差値の低い地方の医学部を目指すという方法も選択肢 でありましたが、今では、その後の医者になる場所がその大学があった地方の病院勤務となってしまう ケースが多いために敬遠されてきてます。 以上のことから今では都会の推薦枠のある付属高校に入って、 そこでトップクラスに入って医学部に推薦されるという選択肢が脚光を浴び出しているのです。私のバカ息子が 結婚して子供をもって、その子が小学校に入った頃には、どうすれば比較的楽に医者の道を歩ませられるか、 お金はどれくらい必要か、いつからどういうコースを取らせるのかなど成功事例・失敗談など親として味わって きた経験をもとに近道の方法を伝えてあげようと思ってます。 私が教える空手教室で、もし こういう道に興味があって暗中模索されておられる方がいれば 経験談をお話して行きたいと思います。 小学生、中学生なら まだ間に合うと信じて。 勉強には 机に向かう辛抱がいることや、それは小学生の時から養うこと。そして勉強を極めるためには体力が必要で 体力がないと試験日の緊張感と長丁場に耐えれないことなど話し出したら限がありません。
医学部 その3
留年がきっかけとなって息子と話をする機会が増えたというのは何か複雑なものがあります。 今やってることは、去年の勉強時間の分析。その結果を見ると留年も明らかでした。1週間の 中で大学の授業以外で勉強にあてていたのが、わずか9時間。その他は部活が週3回、塾の 講師も週3回。おかげで塾では教え方がうまいと評判になり主任として扱われる始末。その塾 は医学部を目指す為の医学部専門の塾で講師は全員医学生だということで生徒数も増えて きた新進気鋭の塾です。そこで数学と物理を専門に教える主任講師になった以上、大学の 勉強はそこそこに部活をやり終えれば、塾の生徒を教えて年間のバイト代は百万円は超える ほどになってました。学費の足しにとやり始めた医学部受験専門の塾講師で、主任先生と おだてられれば誰だって悪い気はしません。 そこが本末転倒でした。 留年となった今は 当然、部活とバイトは辞めてもらいました。 今、大事なのは「捨てること」を明確にして、 やるべきことのみに集中すること。そして、なぜ留年になっかのかの現状分析です。昨年の 勉強時間が9時間であったことに対し、4月1日からは34.5時間を目標に毎週勉強に励む計画 表を作り上げてもらいました。もちろん祖父、祖母のお詫びの手紙も出しました。医者に なるために応援してくれてるいる方々へのお詫びと誓いを明らかにしたのです。ここまでは、 これでいいでしょう。しかし、これから先の「実行」が問題です。春夏秋冬をやり通す強い信念 をもってもらわねばなりません。これから、また医学部3年生の授業が始まります。 そういえば 先週、先々週に空手の見学に来てくれてた小学生も3年生が多かったのは奇遇です。うちの 中途半端なバカ息子が その純真な子供たちと一緒の頃に6年生に上って、春の桜の咲く頃に 場所が違えど、卒業式を迎えること夢見て、私は日々の生活を送ることにします。 あ~、長い。あと4年かぁ~。
医学部 その2
大学の医学部に入るときの難易度と大学卒業年度に行われる医師国家試験の合格者数と 合格率には大きな差があることを大学受験生は知らないようです。もちろん大学受験時の 最難関は東大医学部、2番が京大医学部、3番は阪大医学部の順です。旧帝大医学部の 偏差値が高いことは多くの方が認識してます、その後に続くのは慶応医学部、慈恵医大 でしょう。しかし2012年3月度の発表された今年の医師国家試験の合格率は東大92.7%、 京大83.8%、阪大91.6% という結果で有名な旧帝大は毎年、低いのです。一旦入学すると 留年しても学費負担が少ないために留年に寛容であったり、卒業、国家試験にも寛容さが 出てきてしまい勉強をしなくなって部活やバイトに精を出す結果、医師国家試験合格率が 低くなってしまうのでしょう。また問題なのは合格者数です。一般的に国家試験の合格率を 上げるためにレベルの低い学生は留年させるようです。現在日本で医学部を有する80大学 の多くは1学年をほぼ120名にしていますが医師国家試験を受験する医学生数は大学によって 差があります。毎年、120名 + 留年組の約10名程度を加えた数が医学部学生の受験数 であるはずですが医師国家試験受験者数が100~110名にも満たない大学が多く見受けられ ます。 これは学生の質が落ちてるため、国家試験を受けても通らない学生は卒業させずに 留年させて、合格率を上げるための大学の対策であることは過去から一般的な通念なのです。 ちなみに東大は110名、京大は117名、阪大が107名が受験し、合格したのは東大は102名、 京大は98名、阪大も98名と低迷しています。この傾向は過去からあまりかわりません。 大学別に医学部で力のある大学というのは医師国家試験95%以上を維持し、しかも合格者数 が毎年100名以上の大学であると自己判断してるのですが、そういう観点から見ると以下の 大学は堅実で、医学に真摯に向き合う先生方が多く、まじめに勉強に励む学生が多い大学 であるように思えます。 合格率95%超 合格者数 国公立 浜松医大 98.1% 103名 広島大学 97.1% 102名 私立 自治医大 98.1% 105名 慶応大学 98.0% 99名 日本大学 97.3% 107名 北里大学 95.0% 115名 大学受験の偏差値は医師国家試験合格者数と合格率にはなんら関係性がなく大学で勉強した 人と、勉強しなかった人が、ここで大きく分かれるということを、実は昨日も息子に伝え、留年した ことへの戒めとして、また人生設計をする上での指針を息子に伝えたところなのです。 いやはや、いつになれば安心させてくれるのやら。 早く医者として活躍してもらいたいもの です。
医学部
医学部に入れることが はたしていいものか疑問に思えてきました。 我が子が複数の医学部に 合格した時は、こんなことは想像もしていませんでしたが、それが3年生で留年するとは。 3月17日、一通の書類が大学医学部学長名で送られ、成績不良により留年が決定したとの 通知を受けたのです。 医者のご子息なら こういうケースは稀でバイトをしなくとも親が 生活費、仕送りを十分提供するのでしょうが、そうでない場合は負のスパイラルに陥ること も想定しなければなりません。 息子も大変ショックだったようです。小学校4年生から空手 道場に通わせ、それと同時に、医者を目指すため塾にも行かせて中高一貫の医学系に強い 学校を選び6年間、空手と塾と家での勉強の指導を続けてきて、何とか複数の医学部に合格 することが出来た訳ですが、親が出来るのは、ここまでです。医学部の大学生になってしまう と、もう親の出る幕はありません。 親が導いてあげた路線を、この先どう歩むのかは本人 しだいです。あとは本人が学業に本腰を入れて精進してもらうことを祈るばかりです。 小学校、中学校、高校と一緒に取り組んできた空手と勉強。 過去を振り返ると懐かしく もあり、息子のいたいけながんばりに今でも胸が熱くなり、目頭がうるうるしてしまいます。 よくがんばったから、もう好きにしなさいという気持ちと、あと少しで医者になれるんだから 、がんばるんだよという相反する複雑な気持ちが沸いて昨晩は浅い眠りになってしまいました。 いずれにしても、これからは自分の人生だから、この先は自分で切り開いて行って欲しい。 いつでも相談に乗ってあげるから。 生きていくすべは自分で掴み取るしかないんだからね。