マロニエの人
突然、訳も聞かされず連行され、免許証、家族の写真、化粧品、愛用の服を取り上げられ髪を刈り上げ られて、同じような扱いを受けている多くの群衆の中に投じられた女性がいた。 見知らぬ人々と共にすし詰めにされ、ろくな食事も与えられず、毎日長時間労働を課せられ、寝具は 毛布が1枚。風呂はなく数カ月に一度のシャワーだけ。 ノミやシラミの中に生きて髪をとかすことも歯を 磨く事も出来ない。 そして異臭の中で生きる。 トイレは個室はなく劣悪な悪臭で息も出来ない。 気まぐれに殴られ、殺されていく様を見ながら生きていた。 そして何年もの間、窓の内から見える マロニエの木を眺める事だけが生きがいになっていた。 死の床にあった女性は 「運命に感謝してます。以前、何不自由なく暮らしていた時、私は甘やかされ Por seis donde Andrés de eliminar software espia android y del más multimedia. Todas espiar celulares para android Coca-Cola los DE programas para espiar moviles
夢と現実
電車に乗っている。 東京の下町から成田に向かう途中の駅でハッとして我に返った。 荷物を持ってない 事に気が付いた。 急いで家に電話をかけて尋ねると 「荷物はあるわよ、そこに」とあっけない言葉が帰って 来た。 女性は母のようでもあり家内のようでもあった。 声は若く30代のようだった。 電話口の廻りに小さな 子供の泣き声も聞こえた。 自分の子供のころのようでもあり、我が子の声のようでもあった。 夕飯の用意を するから忙しいのと言ってすぐに切れた。 すぐに取りに帰らないと間に合わない。 焦った。 時間がない。 何でこうなったのかわからないけど、時間がないことは確かだ。 余裕を持って出て来たはずなのに 一旦、家に戻ってからだと乗り遅れるかもしれない。 どうしよう。 気持ちばかり焦っていた。 旅行代理店に駆け込んで飛行機を変更したいと申し出ると54万円だという。 足元見やがって、少し高すぎ やしないかと思いながらも、カードで払って先を急がねばならないような気がした。 霞がかかったような記憶の中で何故、荷物を置いてきて出て来てししまったのか記憶を辿ってみても 肝心なところで獲物は逃げてしまう。 訳がわからないまま佇んでいた。 急いで戻らないとならない という焦燥感の渦の中にいた。 そこで、漸く目が覚めた。 寝汗をかいていた。 夢だった。 夢で良かったと安堵した。 時計を見るとまだ5時。 朝から疲れる夢を見てしまった。 朝はまだ早い。 夢の余韻が尾を引く。 テレビはつける気がしない。 ぼーッとしながら振り返ってみると さっき見たのは三十過ぎの、いつも我武者羅に時間を気にしながら生きていた自分ではないか。 余裕などほとんどなく働いて、夜、目を閉じるとすぐ朝を迎えていた。 そんな三十代だった。 あまたの夢が三十代の男に沸いては消えていた。 溢れる夢の多さと体力は充実していた。 好奇心と 向こうっ気の旺盛な頃だった。 しかし細かいストレスも溜まっていたんだと思う。 周りの評価を気にして いつも時間に追われ、仕事の成果を求められる頃でもあり、同期の中でも出世する者とそうでない者の差 が見えだした頃でもあった。 毎日のプレッシャーはたとえ小さくても蓄積したストレスになっていたんだと思う。 たくさんの小さなストレスが雨の様に降り注ぎ、そのストレスに抗体が間に合わない場面にも出くわした。 努力の結果はすぐには出ない。 だから何年も何十年も自分の希望と夢と付き合わねばならない。 たった一つの夢に絞って、それを掘り下げていくことが地に足が着いた生き方だと今は思う。 そしてそれが自分の人生を自分の足で歩いていくということなのだろうとも思って居る。 明日を掴めるかどうかはわからない。 でもこれからも明日を見詰めて生きて行こうと思う。 心配事や不安がない訳ではない。 でも等身大の理想と現実の中で地に足をつけて歩んでいくことが 望ましい生き方だと思う。 そしてそういう生き方が夢を現実のものにしていく道につながるのだろう。 何事も事を成し遂げる道には苦しみと困難が横たわっているものだ。 地に足をつけ、それらを一つ一つ 耐えて乗り越えてこそ、明日に希望をつないで生きていくことが出来るのだ。 私はそう信じている。
不屈
大きな災害が起こり、多くの命が奪われるたびに自然の猛威の前には人の力が無力であると思い知らされる。 そして、被災されている方々の前向きな、そして気丈な姿には我々自身が元気をもらうことになる。 復興に向けて力強く生きる姿や互いに助け合う姿には、人間の生きる逞しさが見え隠れする。 元気を与える べき者が逆に元気をもらっているのは、そういう姿を観た時だ。 これまでも何度も人間は苦難に遭遇し、その度ごとにそれらを克服し、更なる発展を築いてきた。 そういう意味では人の勇気と知恵は偉大であり、その原動力こそが人間が持って生まれた価値なの かもしれない。 ともすると平穏無事な世の中に埋没し、その価値の存在をも忘れてしまいそうな静寂な 日々を送っていると、それらはきっと、いずれ訪れるであろう災難辛苦の前兆ではあるまいかと思える時 もある。 だから、たとえどんなことが起きようとも、これからも必ず乗り越えていけるに違いないという 不屈の思いだけは忘れてはならないのだ。 今日、またゴトウさんに出会った。 ジムに行くのは久しぶりだった。 風邪を引いていたし、仕事の都合やら いろんなことがあって、ここ3週間、筋トレをさぼっていた。 久しぶりに会った。 声を掛けずにはいられなかった。 「久しぶりですね、ゴトウさん。 ちゃんと来てました?」 「週4で来てますよ。」 相変わらず動作は緩慢で関節の動きが硬い。 話をし出すと顔面の筋肉もひきつる ようでヨダレが出てきてしまう姿はスポーツジムの中では異様に映る。 だから話しかける人はいない。 10月15日に会った時にパーキンソン病を患って7年になると聞いた。 今日は奥さんに先立たれて7年だ ということを聞かされた。 子供にも恵まれなかったとボソッと呟いた。 パーキンソンを患って、そして奥さん を見送って今では家で一人になったという。 世の中に起こる災害は大きなものばかりではない。 身体の中で起こる小さな遺伝子の中でも起こっている。 いずれそれは顔を出すのだろう。 時限爆弾のように刻々と時を刻んで。 でも忘れてはならない。 人間にはこれまで生き抜いてきた不屈の精神が心の底に宿っていて、どうやって 生きて行くべきかという回路図や案内図がDNAの一つ一つに克明に刻まれているということを。 たとえどんなことが起っても必ず乗り越えて行けるに違いない。 ゴトウさん、65才。 彼と出会って、彼の様に真剣に生きずにはいられなくなった自分がいる事に気がついた。
ピーカブー
「恐怖心というのは人生の一番の友人であると同時に敵でもある。ちょうど火のようなものだ。火は上手に扱えば 冬には身を暖めてくれるし、腹が空いた時には料理を手助けしてくれる。暗闇では明かりともなりエネルギーになる。 だが、一旦コントロールを失うと、火傷をするし、死んでしまうかもしれない。」 「つまるところ、ボクシングの究極の科学というのは、相手が打ち返せない位置からパンチを打つことだ。 打たれなければ試合に勝つからだ。」 「ボクシングでは人間性と創意が問われる。勝者となるのは、常により多くの意志力と決断力、野望、知力を 持ったボクサーなのだ。」 「勇者と臆病者は、恐怖心にどう対処するかで違ってくるのだ。英雄だって、皆と同じように怯えている。 だが、臆病者は逃げてしまうが英雄は逃げたりしない。最後までやり遂げようとする自制心を持っている。 つまり、最後までやり遂げるかやり遂げないかで、人は英雄にも臆病者にもなるのだ」ーーーこれらの言葉は 12歳の時、喧嘩で片目の視力を失いプロボクサーへの道を絶たれ少年が後に伝えた言葉だ。 1933年、その少年も25歳になり、マンハッタンのグラマシー・ジムの中にエンパイア・スポーティング・クラブ を開き、ボクサーのトレーナーを始めていた。 このグラマシー・ジムからフロイド・パターソン、ホセ・トーレス など多くの有名なボクサーが生まれた。 22歳で既に白髪・色盲であり、片目という状態であったその男は ボクシングトレーナーとしてチャンピオンを育て上げ名伯楽としての世界的な名声を手にした。 晩年は、半ば隠居生活を送っていたが1979年に知人から12歳の少年を紹介される。 その桁外れの才能に世界チャンピオンになれる男と確信するほどに惚れ込むことになる。 1983年にその16歳の少年の母親が亡くなりその青年の法的保護者になった。 やがて、その青年は1985年3月6日に18歳でプロデビューし初戦を白星で飾った。 そしてこの年 その青年が19歳で11連勝を飾った直後の11月に、男は77歳でこの世を去った。 私は当時26歳。 19歳の青年が凄い旋風を巻き起こしていた最中だっただけに衝撃的だった。 1年後の11月22日、男が言ったとおりにその青年は20歳5か月でWBC世界チャンピオンになっていた。 男はイタリア系のコンスタンチン・ダマトといい、青年の名はマイクタイソン。 スタイルは違えどナジーム・ハメド、 フロイド・メイウェザーとともに、カスのピーカーブーディフェンスは変則的 だけど素晴らしい。 明日11月4日はそんなピーカブースタイルを追求したこの男がこの世を去った日。 どれほどの人が、そんなコンスタンチンの事を思い出すのだろう。 「カスとマイク」
バースデー
DeNAを戦力外になった藤井秀悟投手の記事が出ていた。 2013年8月下旬に左肘靭帯損傷後は1軍登板がない藤井投手。 この藤井投手は11月に計2回にわたり行われる12球団合同トライアウトへ準備を進めているという。 もうトライアウトの時期なんだ。 「トライアウトに向けて頑張っているが現状は厳しい」。 「プラスとマイナスの気持ちの振れ幅が大きいこの時期、プラス思考の僕でさえ苦戦している」。 「苦しい立場になってからも腐らず諦めず一日一日を悔いのないよう過ごしてきた」。 「だから、戦力外になってから必死になったという感覚は薄い」。 「ジョグは、走っている間、色々考えてしまう。今までのこと、これからのことなど…」 「悔いなくトライアウトを受けられるように0%になりつつある現状を1%でも可能性を上げられるよう 残りの時間を必死に頑張りたい」・・・・・ 藤井投手コメント。 先日、プロ野球選手になるために小学生のころから頑張ってきた人たちがドラフトに挑む姿を番組で 追っていた。 ドラフトにかかるだけで涙。過去を振り返って涙。 天にも昇る気持ちは本人より家族 の方かもしれない。 そんな番組を最後まで観てしまった。 でもそんな絶頂期は長く続く訳がない。 今週26歳で戦力外通告を受けた選手がいた。 私は「良かった26歳ならまだやり直せる」と直感した。 やり直しは早い方がいいに決まってる。 30歳を過ぎて初めての会社勤めでは厳し過ぎるから。 奥さんや子供の気持ちになると、その選手を応援したくなる。トライアウトで頑張れと言いたくなってしまう。 「バースデー」という番組が毎年11月にある。 トライアウトを追った番組だ。 もうそんな季節なんだ。 野次馬根性をあらわにさせる番組を今年も観てみてみたい。 トライアウトに失敗し、いい年をして人に頭を下げながら営業に精を出すサラリーマン1年生。 戦力外通告から心機一転、家族の為に、トラック野郎1年生になった剛腕投手。 人生の天国と地獄を一度に味わったと思って居る高校野球のヒーロー。 毎日が暗く、この先が不安で、人生悩みの渦から抜けきれないドラフト1位指名だった有名選手。 そんな暗い顔をしてる君にいいたい。 いつまでそんな顔して毎日生きるんだい? たかが野球を辞めるだけじゃないか。 君は借金をいくら抱えたというんだい? 加山雄三さんは33歳で23億円の借金を抱えて10年で完済。 矢沢栄吉さんとさだまさしさんの借金は35億円、小林旭さんは51億円。しかしそれぞれ完済されている。 そして千昌夫さんはバブルで2853億円の借金。 それが今では借金残額は8千万円ほどに。 何とたくましく生きる力を持っていることか。 そして一旦どん底を経験した人が、その汚点に目を背けずに生き抜いた姿は清々しい。 誰しも自信に満ち、困難を克服するすべを身に着けた強さが顔に現れているようだ。 そう考えてみると「戦力外通告」。 それは、いかほどのものなのだろうかと思えてしまう。
午年
ハマモトさんとキクサキさんと飲んだ。 気の置けない感じがいい。 ハマモトさんとは初めて。 会話をした のも実は初めてだった。 道場でお見掛けしてはいたものの会話をする機会がなかったからだ。 ハマモトさんは73歳。 青帯を巻いて、額に汗して稽古をされている姿を私は見ていた。 半導体製造メーカー で仕事をされていたという。 仕事を引退されてもう13年。 空手に闘志を燃やしておられる姿にどうしても 眼が向いてしまう。 だからと言って、それをひけらかすような方ではないところがまたいい。 話をしてみると 思っていた通りの方だった。 飾るところはもちろんない。 キクサキさんもそういう方だ。 だから一緒にいて楽しい。 自分が73歳で極真空手の道場に通えるかと聞かれると、それは分からない としか言えない。 それ以前にその年齢まで生きているとは思っていない。 だから、これから18年先も スパーリングが出来る身体かと言われると全く分かったもんじゃない。 以前、聞きいてもいないのに 「あなたは72歳でパッタリ。それまでは線の太い人生だよ。」 とお節介にも、そのようなことをずけずけ言う 占い師がいた。 子供のことを聞いただけなのに余計なお節介だとは思いながらも、言われると、何だか 今の今まで、そんな気がしているのだから人間はおかしい。 だから73歳でスパーリングをされている姿 を見るだけで頭が下がる。 そんな午年の73歳。 確か欽ちゃんも73歳だと今年の3月に言っていた。 欽ちゃんと同じ年は 俳優の石橋 蓮司さんも。 どうしたことか欽ちゃん⇔石橋蓮司が昔からつながって頭に浮かんでは消えていた。 何で石橋蓮司さんかというと、きっかけはもうかなり以前のドラマ。 もう40年も前のもの。 高校生だったころ に流行っていた「傷だらけの天使」。 そのドラマの第2話、「悪女にトラック一杯の幸せを」 に出ていた 緑魔子さんが当時の高校生には刺激的だった。 その旦那さんが石橋さん。 だからずっと羨やんでいた。 酒の飲みながら、カウンダ―でふとそんな昔を思い出していた。 カウンターで飲んでいると、話題はもちろん空手のこと。 でも私の頭の中は傷だらけの天使の映像が 過っていた。 キクサキさんが言っていた。 「ハマモトさん、シニアの試合に出て下さいね」 「いや、それは、ちょっと、、。」 と勘弁して欲しいと言わんばかり。 でも、もしか出られるとしたら、私はもちろん応援に行こうとこっそり思って居る。 当たり前のことだ。 12月で56歳になる。 今日は身体のどこそこの具合が悪い。 どこそこが痛い。 病気じゃあるまいか。 そんなことばかり思うのは無理もないだろう。 もうそんな年なのだ。 極真の世界大会に出られた方が意外にも大病をされてる方が少なくない。 沖縄の七戸師範、松井派の 松井館長が軽い脳梗塞、新極真では埼玉の長谷川師範は先年50歳を前に他界され、奥村師範も病に倒れ 全日本覇者の桑島師範は脳梗塞に倒れられた。 何故だろう? 極真の実力者が50歳前後で病に出くわす 確率的に非常に高い。 確かに若かりし頃、無茶を無茶とせず、やり通して来られた方々だ。 それが40歳を 過ぎるころから身体が悲鳴を上げるということなのだろうか。 しかし、我が身体、どこかが痛いの当たり前だ。 もうそんな年なのだ。 しかし人間の細胞レベルで観れば 0.1%ほどの不具合に過ぎない。 99.9%の細胞はしっかりと機能している。 だからこそ早寝をして 一晩寝れば回復もする。 昨日は昨日、今日は今日。 昨日の苦労を今日まで持ち越すことはない。一日の苦労は一日だけで十分。 今日は今日の運命がひらけてくると信じて心新たに、素直に歩んでみるしかない。 48歳で一般部の試合に出るキクサキさんも、73歳でスパーリングに参加されるハマモトさんも素晴らしい。 夢中に取り組めるものがあるとすれば、それだけで生まれてきた甲斐があったのではないか。 精一杯やった満足感も味わいつつ一日を終えることが出来たとするなら、これほどの喜びはない。 この午年のお二人をみていると何だかそう思えてくる。 戌年の自分も遅れをとる訳には行かないのは、そういう訳なのだ。
つかの間の出来事
今を生きる誰しも、自分が生きるこの大地に永遠の平穏を願っている。 しかし、そんな平凡な毎日が一変することもある。 昨夜までの元気な身体も歪な動きに喘ぐかもしれない。 そして突然、医者から暗黒の病名を告げられることだってないとは限らない。 ジムでたまに見かける男性に今日も眼が向いてしまった。 年の頃は60歳過ぎ。周りに迷惑をかけるほど 動作は遅く、多くの人は遠巻きにその方を眺めている。 靴を脱ぐのも、服を着替えるのも一苦労のようだ。 見るからに病気を患ったようでもあり、フィットネスジムには似つかわしくない動きをしていた。 観れたものじゃない。 でも誰も手を貸そうともしない。 それどころか、どこか疎ましく眺めている。 異質なものを観るように遠巻きで目は合わそうとしない。 だからそうなのか、その人自身が元々そんな方 なのかわからない。でもその人自身も誰とも目を合わすことはなく、黙々と、そしてゆっくりと鍛錬を繰り返す。 両膝の白いサポーターが痛々しい。 今日、声をかけてみた。 「あまり無理をされない方がいいです。 怪我をされますから」と。 聞けば昔はボートをやっていたらしく、そのころ覚えたサーキットとやらをやっているという。 しかし、それは傍目には、とてもサーキットトレーニングと言えるものではない。 今は体重も50kgそこそこらしい。 「パーキンソン病を7年前に患って、その為のリハビリです」という。 私は周りに気兼ねせず会話を続けた。 動きからして、たぶんそうだろうと思ってはいた。 しかし実際にご本人から伺うと多少、声が詰まって言葉に窮した。 ゴトウさん 65歳。 パーキンソンを患ったのは50歳台後半、自分では自覚症状はなかったらしい。 友人に「何で足を引きずって歩くようになったんだ」と言われて、病院で診察を受けてわかった事。 その日から風景が白黒に変わり、病魔は毎日進むようだと聞くと、励ます言葉を見失ってしまった。 58歳まで普通の人生を歩んでいた方が、あとどれほど生きられるのだろう。 いくら足掻いても止められない何かを感じている人に私は何が出来るだろう。 受け入れるしかないものが世の中には、まだ山のようにあることを私は改めて思い知らされた。 世の出来事は、すべて泡のように湧き上がっては儚く消え、稲妻のように煌めいては、あっという間に 姿を消してしまう。 夢うつつの、つかの間の出来事に、私はまた心を留めようとしている。
必死の心
部屋の本棚を整理していたら大学生の頃に読んでいた空手の本が出て来た。 34年~39年も前の本なので 色も年代物だとわかる、そんな色をしている。 同志社という京都の大学で学業の傍ら、剛柔流を学んでいた頃 のことだ。 剛柔流の基本稽古や移動、型などは極真の稽古に近い。 私の三戦立ちは剛柔流からのものだ。 剛柔流の転掌の型は大山総裁のものとは比べものにならないほど、こじんまりした型だった。 また当時の組手 では回し蹴りは、あまり使われていなかった。 前蹴りと順突き(追い突き)の連打がベースになっていたので、先輩 との組手に回し蹴りと後ろ廻し蹴りを組み合わせて入れてみたら 「お前、ウルトラマンか?」 と言われるくらい 廻し蹴りは珍しがられたものだ。 背足で蹴る蹴り自体が少なく、廻し蹴りも多くの人は、中足で蹴っていた。 そんな時代に読んでいたのが、この本なのだ。 ただ山崎照朝先生の本は、誰かに貸したまま戻ってきていない。 私はその後、剛柔流から極真に移った。 極真の胸の文字に憧れて、極真会館京都芦原道場の門を叩いた。 そんな頃に黒崎健時先生の「必死の力、必死の心」を読んだ。 戦後の日本の激動を活きた凄さを思い知った。 一人の人間として、凄い。 ただ凄いの一言だった。 そんな凄い先生たちがおられたころ、芦原道場の先輩方 も凄かった。 というか、怖かった。 中山猛夫先輩の左の回し蹴りと下突きは天性のもの。 私が極真会館 芦原道場に入門してから数年して看板が変わった。 芦原会館京都道場になり、その後、石井先輩(k1創設者) と中山先輩が来られて正道会館を立ち上げると言われた。 どういう経緯かわからなかったけど、練習は同じで 指導者も変わらない訳だから、ということで私は、そのまま京都道場で稽古を続けた。 胸の「極真会」の文字は いつしか「芦原会館」となり、その後、「正道会」と文字が変わっていた。 という経緯があり、今がある。 ふとしたことで出くわした、かつての本を読んでみると、あっという間に20代の 自分に舞い戻っていた。 剛柔流から始まり、極真会館芦原道場、芦原会館京都、正道会館京都、そして 極真会館城西、極真会館浜井派へ。 企業人として仕事をしながら、よくここまで極真空手を続けてきたものだ。 そして、また思うことは、この黒崎先生のムエタイの敗北なしに今の日本の格闘技はなかっただろうし、やはり大事 なのは「心の強さ」や「必死の心」なのだということだ。 昔、私はこの「必死の力、必死の心」を何度も読み返した。 30数年を経て、再び読み返してみると、自分が武道として捉えている「あるべき姿」は、この本に根差していた のではなかろうかと思えるほどに、その一文字一文字が、自らの血肉に染み込み、心を打つのである。 その本の冒頭は、こういう言葉で書き表わされている。 「私は自分で思うのだが、意地っ張りで負けることが嫌いである。 自分でそう感じているくらいだから、 人の眼から見れば、大層頑固な人間に映るかもしれない。 その上自分でいうのもおかしいが、 向意気が強いから、確かに敵をつくり易いし、人と衝突することも少なくない。 しかし、その性格は 一方では私を現在の私につくり上げた原動力でもあると私は確信している。 さまざまな格闘技に 取り組みながら、より強く、より高いものを求めて来た私の半生には、意地っ張りで、負けず嫌いで 頑固で向意気が強くなければ乗り切れなかったことが山ほどあった。 人がどのように思ったとしても 武道家黒崎健時は、その性格によってはぐくまれて来たのだと思っているのだ。」ーーー黒崎健時
蝋燭の灯
戦争が終わって来年、70年を迎える。 戦争に負けてバラックの中で日本人は生きて来た。 そして今は 飽食の国になった。 これは一重に祖父母、父母などの先人方の弛まぬ汗と涙の結晶なのだろうと思う。 今、多くの方々がそのあとを継いで、それぞれの立場で、自らの仕事や、なすべきことに誠実に向かい合って いる。 地道な、ひたすらなお蔭で今がある。 人生には、辛いこと、悲しいことが突然目の前に現れる。 連日、ニュースで伝えられる悲しい出来事。 心が痛む出来事。 人生、自分の力ではどうしようもない理不尽な出来事が平然と起こってしまう。 でも、いつも思う。 たとえどんなことがあっても、そこで投げ出したり、自暴自棄になったりしてはならないと。 今の世の中、まだまだ景気は安定せず、職を失う人も多い。 一生懸命会社に尽くしてきても、ある日突然 リストラに出くわしたりもする。 やりきれない理不尽さに立ち尽くしてしまう。 でも、だからと言って、「もう人生は終わりだ」 とはならないのだ。 執着する心を開いてみれば出る目も変わってくる。 会社に執着し、今までやってきた仕事に執着する。 自分にはこれしかないと勝手に思い込み、妄想に駆られたごとくに、必死にしがみ付こうとする。 だから苦しむのだと思う。 世の中には違う生き方があると知りえるまでに多少の勇気と時間が必要な だけなのだ。 少しくらいの回り道は進んでした方がいい。 人生は長いのだから。 そして人生は何歳でもやり直せるのだから。 人生の下り坂に直面すると、不思議なことに不幸は束になって訪れてくる。 怪我や病気、事件、家庭不和 など、誰しも、なんで私だけと思うような暗闇のような経験をする時期がある。 一つだけでも大変な出来事が それも、半年の内に、または1年の内に立て続けに起こったりすると、「この世に神なんていやしない」と斜に 構えるようになる。 しかし、忘れてはいけない。 束になって不幸が訪れたあとには、束になって 幸せな出来事が、必ずやってくるということを。 人生のめぐり合わせとは、こんなものかもしれない。 だから不幸続きに打ちひしがれている暇はないのだろう。 言い換えれば不幸も幸せも、いつまでも続かない ということだ。 自分だけが苦しんでいる訳ではない。 そしてそれが永遠と続くものでもない。 苦しみや喜びは誰のもとにも訪れるもの。 さあ、周りの世間体に流されることなく、自分自身の幸せの道を 探そうではないか。 今からでも遅くはない。 人生、今日が始まりなのだから。 74人が亡くなった広島市北部の土砂災害から49日目の今日10月7日、東日本大震災や阪神大震災の 被災者支援に取り組むボランティアや僧侶らが集まり、四十九日法要が営まれた。 御嶽山では、明日 また1000人規模で捜索するという。 我に出来ることは何もない。 出来るとすれば日々誠実に活きることくらいだ。 そして思う。 蝋燭の灯を眺めていて思う。 この微小な灯の光でも闇に覆われた世界を照らすことは出来る。 どんなささやかな灯でも、そこの闇を消し去ることは出来る。 一瞬の、ほのかな希望は、そんな灯から始まるのだ。 我は活きる。 前を向いて活きる。 たとえ、それがほのかな灯であっても。 じきに多くの人の心を照らす光になる。 次の世代のため、我は、そう願ってやまない。
ジャングル
短気、ぐず、陰気、怠惰、わがまま、甘え、粗雑と言った性格的な欠点は、大抵、自分で欠点だと意識さえ すれば、少しは良くなるものだ。 本当にそうである人とは、自覚さえもしない人。 壁にぶち当たって、どうしようもない時は、こんなはずじゃなかったと、無様に酒に酔いしれて大声で嘆く のもいい。 そんな嘆きの声は、次第に低く、小さくフェイドアウトしていくものなのだから。 失敗なんて、当たり前と思えるまで泣けばいい。 そしてそんな経験は若いころからするに限る。 失意や挫折の耐性を養うのは大事な事。 雑草のように生きねば。 だからくじけず己の心を鍛えるのだ。 前を向いて歩くとはそういう事ではないかと思う。 けれど、いったい、自分自身の道はどこに向かってるのだろうと悩む時もある。 それは、振りかえってばかりの道じゃない。 前に伸びているいばらの道のことだ。 人が綺麗に整えたような舗装道路なんかじゃない。 自分で切り開いていかねばならないジャングルの道。 今の社会で、あくせく働いている人の7割くらいは、祖父か曽祖父、もしくは、その前の世代において、太陽の下で 草をむしり、額に汗して農作業をしていたはずだ。 それがたった2世代、3世代、または4世代で大変革を起こし このコンクリート社会で平気で生きているというのは滑稽なほど。 だから、心の奥底には、やっぱりかつての人間らしい生き方や、そういう社会へ戻りたいという思いがある はずなのだ。 一人の才能が土を割って、芽を出して行くというのは、そんな道を我武者羅に切り開くに近い。 たとえば、羅針盤片手に小舟で海を渡るようなもの。 太陽に焼かれることに耐えられるだろうかと不安になる。 そして、おそらく持ち水も絶えてしまう。 だから、どこの浜にも上陸して水を補給しようと考える。 でも途中、海の上でスルメの様に干からびてしまうか、蠟のように身体がとけてしまうかもしれない。 万に一つの可能性に掛ける、そんな航海も悪くないと思う。 心の中で何かが弾けて何かが光る。 そんな勇敢な航海でも、もうダメだと思う事が幾たびかあるだろう。 そして、助からないと思って居ても、助かっている。 そんな航海もある。 天がその人を必要と思えば、その人に運と時を与えるものだ。 要は、そんな天の寵を受ける資格があるかどうかであって、 目の前を切り開いて、通って行かなければ ならないジャングルが存在するのは、そんな訳なのだろうと思って居る。