這い上がれ!
今、私は生きている。 しかし、この人生、なかなか思うようにならない。 人の命というものは、人間個人が思い通りに扱えるほどたやすいものではないのだろう。 何か自分の力の及びそうもない、途方もなく大きな力に操られているように思える時がある。 これはと思いを込めてやってみるものに限って全く上手く行かない。 一生懸命にやってみても、ぬかるみを歩いているようで、どうにもならない時もある。 前に進むも地獄、下がるのも地獄の時もある。 自分を活かしてくれていた土台が前触れもなくひっくり返ってしまったりもする。 そんな「まさかの時」は誰にだって訪れる。 そして、その壁は立ちはだかって「逃げ失せてしまえ」とささやくのだ。 でも天を仰ぐのはまだ早い。 「これも運命か」とあきらめてしまう人もいる。 coreg onlinebuy flonasesymmetrelbuy zantac online 「新しい転機が訪れたのだ」と開き直る人もいる。 見えざる偉大な力の内に居て、自分の人生など思うようになる訳はない。 きっと、そう思うだろう。 しかし、いくら失敗しようが、奈落の底に落ちようが、悔し涙が頬をつたわろうが それは問題ではない。 ただ、この一瞬を全力投球しているかどうかが大事なのだ。 まだ見たこともない我が行くべき道の広大さ、険しさ、スリルを味わいながら生きるんだ。 明日が分からないのが人生。 思うようにならないのも人生。 そして全力で事にあたれば拓けてくるのも人生だ。 どん底を這いつくばる時に、どうにかなるのも人生。 人生とは順調と逆境の繰り返し。 しかし、どんなに追い詰められても考えぬけば一つや二つアイデアが生まれてくるもの。 それでもダメならこう思えばいい。 「どうせダメなら、もともと裸一貫。 この身体があれば明日から何でも出来るさ」 こんな、たった一言の言葉が人の人生を変えてくれる。 人は人に支えられながら生きている。 そして人を支えながら生きている。 自分を活かしてくれる人。 自分が活かす人。 そこに深い絆が見えてくれば自分の生きる道が広がる。 今、私はそんな道を歩いている。 思いどおりに行かない人生を手探りで生きている。 自分の人生は一回こっきりの自分だけのものに過ぎないのだ。 だからこそ言う。 「這い上がれ!」 「地の底から這い上がれ!」 「ただ、この今を這い上がれ!」 「この思うようにならない人生を這い上がれ!」
風来坊
生まれてから一度も病気にかかったことのない人を友にしない方がいい。という。 健康自慢の人には弱った人の気持ちは分からないからだ。 病気をしたり仕事でドン底を経験して来た人は、かつてない力を手に入れて復活している。 人は逆境に出合うと絶望するが、そこから立ち向かえば、何とかなって行くものだ。 そしてそれを克服すれば、そのことが自信にもなってくる。 そういう力が実は貴重なのだと思う。 失敗をしながらわがままに生きて行けばいいじゃないか。 多少、わがままさがなければ人は生きては行けないのだから。 自分を大切にしたいと思う人が多い。 でも、ある意味これもわがままだ。 自分らしく生きて行きたいと言う。 これもわがままだ。 出世したい。 幸せになりたい。 いい学校に入学させたい。 いい家に住みたい。 実は、こんなわがままな思いが生きる力を生んでくる。 buy neem http://viagra7pharmacy-online.com/buy-retrovir-online.html http://cialis7days-pharmacy.com/bactroban-price.php flonase online だからわがままに生きることは決して悪いことではない。 そして、わがままなだけではなく「ありがとう」の言葉が沢山あれば更にいい。 心の中に溜まった汚れた思いを、この「ありがとう」が救ってくれる。 失敗をして立ち直って大きく復活して、少しわがままに生きて そして大きな声でありがとうと言える人がいるとすれば それが浜井代表ではないだろうか。 私は掛け値なしに、そんな生き方を賞賛する。 その人の周りには、やはり同じような人達が集まる。 空手だけではなく生き方に魅力があるからだ。 DMMの亀山会長は昔、金沢にいたころからの繋がりらしい。 浜井代表は亀山会長の仲人。 そして今ではLINE友達なのだ。 そのカメちゃん、たまに1ヶ月ほど行方不明になるという。 風来坊のように世界を旅する為に。 珍しいものを見たり食べたり、思いがけない出会いがあったりする未知の体験に身を置く。 楽をして儲ける達人の生きるコツはそこにあるのかもしれない。 そんなカメちゃんの話を昨晩、浜井代表から聞いた。 旅をするように生きる。 心も身体も元気で日々新鮮な気持ちで生きて行く。 そんな人生にしたいものだ。 人生の分岐点のキッカケは自分にしか創れない。 一度きりの人生、風来坊のように生きるのも悪くはない。
インスパイア
宇宙の大きさから見ると地球は取るに足らない。 そこに住む人間など宇宙の大きさから見ると微生物よりも小さい存在にしか過ぎない。 137億年前に宇宙が出来てから、今も光速の3倍の速さで宇宙は膨張している。 おおいぬ座には光が1周するのに8時間もかかる星がある。 これは時速800kmのジェット機で1305年。 時速300kmの新幹線で3492年もかかる、そんな巨大な星がある。 今、地球は46億歳、月は45億歳。 人間が分かっている宇宙は、まだごく一握りのこと。 人の尺度で測れない宇宙がある。 そんな宇宙に人は生きている。 宇宙の時間から見たら、人の一生は一瞬の内に終わる短いものでしかない。 そんな短い人生。されど1日は長く、1月先、1年先はスローモーションのように動く。 いくら手繰り寄せようとしても、待ち遠しいその日は、なかなか訪れてくれない。 微生物に過ぎない人間は昔から宇宙の流れの中に生きている。 1ミクロンほどの細胞が60兆も集まった身体は親から受け継いだもの。 親はその親から、そしてその親はそのまた親から受け継いで60兆の細胞は生き長らえている。 猿から人間の形になって50万年ほど経って、今の人に至る。 DNAは受け継がれている。 堕落、妬み、おごり、喧嘩、偽り、暴力、戦争も宇宙の法則に則っている。 負の力も極自然なもの。 常軌を逸する行動があったとしても、それでも人間の脳は宇宙の法則に則っている。 大人が子供を殺めたとしても アルコールに溺れ人生を棒にふったとしても 負の力は、それでも宇宙の法則に則っている。 buy trentalartane costhttp://viagra7pharmacy-online.com/buy-noroxin-online.htmlprovigil dosage いい人が長生きするとは限らない。 シュノーケリングで亡くなった中には人に優しい親孝行の一人息子もいる。 人を騙して、落とし入れても、すまして生きている人もいる。 信心深くても早死にしたり、タバコを毎日吸っても長生きしたりもする。 それは人には、それぞれ持って生まれたシナリオがあるからなのだ。 その命のシナリオは常に宇宙の法則に則って書き換えられている。 過去から受け継いだDNAにその人の魂が加わると、その人の命のシナリオは時を刻み出す。 そしてその人に宿った魂が何かに目覚めた時にシナリオは書き換えられる。 シナリオが早く終わることもある。 図太く生きるシナリオに書き換えられることもある。 たとえ公園で野宿してブルーシートに包まれようとも命のシナリオは終わってはくれない。 そんな一人一人の命のシナリオに生きる力とインスパイアを与えたい。 世の中にはそう思って生きている人も決して少なくはない。
悪い事は悪い
生き方は単純明快がいい。 正しくないことには、いくら勧められても手を出さない。 人間関係にヒビが入るからと躊躇することもない。 下心を持っていたり、力のある人に媚びへつらう人からすると 良くないものは良くないと言う頑固一徹な生き方は不器用に映るかもしれない。 時代の波に流され、長い物に巻かれる人が目立つ世の中だからこそ 不器用でも筋の通った生き方が大事なのだと思う。 人がやることに異を唱えるだけのへそ曲がりとは違う。 我を通すと言えども、筋が通ってないと単なる意固地な人間になってしまうからだ。 通さなければならない筋が薄く、見えにくくなってしまった今の世の中では エリートお役人や校長先生やら、お医者さんたちでも、分別の境界線を越えて 誘惑や、甘言、オイシイ話に手を染めてしまったと言う記事を見かける事がある。 しかし、いくら境界線が見えにくかろうと、そんなことをしたら何か嫌な感じが すると思うはずだし、居心地が悪いという五感が働かねばならないのだ。 言葉を変えて言うと「そんなことをしたら、お天道様の下を大手を振って歩けない」 という感性が働かなければ、嘘だ。 頭の良し悪しではない。 「いいことはいいし、悪いことは悪い。」 生きて行く上では、この単純明快さがなければならない。 お役人や先生と崇められる方々が道を踏み外してしまうのは、幼い頃から「悪い事は悪い」 と脳にインプットされて来なかったからではないだろうか。 我々の祖先が考え、このやり方が一番いいと生活の中から知恵を絞り出して来たものが 今の日本のしつけだ。 この事を今一度、子供達に伝えて行こうと思う。 この空手クラブでは、悪い事は悪いとはっきり言える単純明快な子供が1人でも増えて欲しい。 そして、30年経ってからでも道を踏み外すことのない子供達であって欲しい。
しつけの芽
70年前の今日、長崎で多くの大人と多くの子供達が一瞬にして亡くなった。 そして3年前の今日、義母がいさぎよい人生に幕を下ろした。 これからも8月9日を忘れる事はない。 [明治生まれのある女性の話] 結婚し6人の子供を産みました。所帯を持った夫は働き者で、お金を貯めて商売を始めました。商売を始めた当初は資金繰りもうまくいかず、月々の支払いが滞ることもありました。そんな時は、夫に内緒で質屋通いをし嫁入の時に持ってきた着物を預けて家計の足しにすることもありました。こうして商売を手伝い、子供達を育てているうちに商売の方もだんだんと軌道に乗って行きました。もう質屋通いはしなくてもよくなったのです。やがて戦争が始まり、出征した跡取り息子は戦死しました。戦後の混乱期、街に戦争孤児が溢れるようになると、たまらずに、食べ物を与えたり、着る物を与えたりしました。家に呼んでお風呂に入れたり、引き取り手を探して奔走もしました。その後、商売は大きく発展し、子供達もそれぞれ結婚し家族を持ち、孫たちに囲まれるようになりました。面倒見の良さは相変わらずです、夜、勝手口から訪ねてくる主婦たちに、いくばくかのお金を包んで渡し「子供に食べさせて」と手近にあった果物も一緒に持たせるなどということもしていました。昭和が終わる頃、3日ほど寝込んで、そのまま亡くなった。通夜には名前も知らない主婦たちが入れ替わり立ち代り訪れ、目に涙して焼香をして帰っていった。葬儀も終わり、形見分けをしようと箪笥を開けると、見事なくらい空で普段着が数着、それしかなかったという。 いさぎよい人とは、こんな方なのだろう。 物に執着しない人、また自らの運命を受け容れる人。 「しつけ」とはこんな所から始まるのではないだろうか。 先日、電車に乗っていたら、網棚に誰かが読み終わった雑誌が無造作に置かれていた。 いや置かれていたというよりむしろ、読み捨てていたと言った方がいいかもしれない。 網棚をゴミ箱として、読んだらそこに捨てていたのだろう。 観てると、また別の人が読んで、そのまま網棚に捨てている。 自分で読みたいものは自分で買って読む。 読み終わったらゴミ箱に捨てる。 そんなことを教えない親が増えたということなのか? お金に苦労していても読みたい情報は自分でお金を出して買わないと その情報は身に付かない。 「しつけ」とは人が生きて行く為の形や、感覚を身体に染み込ませること。 この夏休み、小さな「しつけの芽」が子供達の心に宿ることを願ってやまない。
胸を張って
貧しいことを恥ずかしいと思う気持ちが恥ずかしい。 そんなことで愚痴をこぼしていては運命がいい方に変わる訳はない。 大事なのは精神的豊かさだ。 お金があって心が貧しいよりも、お金は無くても大らかに生きる方がいい。 人が見ていなければ何をしてもいいという生き方もおかしい。 お天道様が観ているのだから。 人の嫌がる事や、悪い事をしていなければ、正々堂々と生きて行こうじゃないか。 「イジメに加わらないと自分がイジメられてしまう。」 「本当はイジメたくないのに、仲間外れが怖い。」 これが後ろ指をさされる生き方だ。 正々堂々と生きていると自分に自信が持てるようになってくる。 後ろめたい事を心に宿していては自信など湧いて来るはずはない。 ゴミを道端に捨てるように、人の心をもて遊んではいけない。 ゴミを道端に捨てるように、人をイジメてはいけない。 道端にゴミを捨てるとは、自分の心も、そこに捨てるようなもの。 確信犯的にゴミを往来にすて、夜道をコソコソ歩くような生き方は忘れよう。 仲間外れが怖いから弱い者イジメに加担する生き方など忘れてしまえ。 運命をいい方に変えたいなら正々堂々と生きてみるんだ。 普通に生きているだけでも小さな昆虫や蟻などを無造作に踏み潰して人は生きている。 どんなに丁寧に、優しく生きていたとしても、それは避けられない。 この社会は自分1人だけのものではない。 小手先で上手くやってのけたと思ってみても、所詮はお天道様の掌の内のこと。 だから正々堂々、胸を張って生きて行かねば。 それが分かれば、後はたやすい。
まあいいや病
最近の稽古で、もう少し頑張れば出来そうなのに、やろうとしない。 そんな光景を見かける。 大きな声で指摘すると、やはり出来る。 自分の能力を過小評価しているのか、それとも疲れるからそこまでの事を やろうとしないのかは分からない。 私は問題視している。 そんな些細な出来事でも見逃す訳には行かない。 自分がやれるだけの事はやったけれども、その稽古は自分の能力を超えていた というならしようがない。 しかし、問題はこういう事にある。 これが自分の能力だと思い込むように努力した気配があったかどうかだ。 私が問題視するのは、こういう微少な、僅かな表情や仕草から読み取れる その時の子供達の心模様にある。 自分の能力は、もうここまでと勝手に思い込んでいたとしたら そして小学生の内から、そにような思考回路を創り上げてしまっていたと したら、それこそ、その子の将来がどのような物に成るかは手に取るように 分かってしまう。 本当はもっと出来たはずなのに、「まあいいや病」に冒されてしまって居る子供は いないだろうか? 自分は分かっているけど大変で出来ない素振りをしていたら、その場をしのげる と自分に言い聞かせる「出来ない素振り病」にかかってはいないだろうか? そんな目線で子供達の心をつぶさに捉えては、大変厳しく叱るようにしている。 これを放置していると出来るものも、出来なくなってしまう恐れもある。 しかし、これらは全て自分たちの心の中では何となく分かっていること。 「ぼくには無理」を言うには30年早過ぎる。 何かを信じている人は強い。 何かを信じている人は輝いている。 勝手に間違った想いを引っさげて未来を棒にふることはこのクラブではさせない 未来を信じて、真っ直ぐ前を見詰める。 そんな才能を1人1人の子供達の心に開花させてあげたい。 私のやるべき事は、そのことに尽きる。最近の稽古で、もう少し頑張れば出来そうなのに、やろうとしない。そんな光景を見かける。そこで、大きな声で促してみると、やはり出来る。自分の能力を過小評価しているのか、それとも疲れるからそこまでの事を自分の能力を過小評価しているのか、疲れるからやろうとしないのかは分からない。私はそういう事を問題視している。そんな些細な出来事でも見逃す訳には行かない。自分がやれるだけの事はやったけれども、その稽古は自分の能力を超えていた 問題はこういう事にある。 これが自分の能力だと思い込むように努力した気配があったかどうかだ。 私が問題視するのは、こういう微少な、僅かな表情や仕草から読み取れる その時の子供達の心模様にある。 自分の能力は、もうここまでと勝手に思い込んでいたとしたら そして小学生の内から、そにような思考回路を創り上げてしまっていたと したら、それこそ、その子の将来がどのような物に成るかは手に取るように 分かってしまう。 本当はもっと出来たはずなのに、「まあいいや病」に冒されてしまって居る子供は いないだろうか? 自分は分かっているけど大変で出来ない素振りをしていたら、その場をしのげる と自分に言い聞かせる「出来ない素振り病」にかかってはいないだろうか? そんな目線で子供達の心をつぶさに捉えては、注意し叱るようにしている。 これを放置していると出来るものも、出来なくなってしまう恐れもある。 しかし、これらは全て自分たちの心の中では何となく分かっていること。 「ぼくには無理」を言うには30年早過ぎる。 何かを信じている人は強い。 何かを信じている人は輝いている。 勝手に間違った想いを引っさげて未来を棒にふることはこのクラブではさせない。 未来を信じて、真っ直ぐ前を見詰める。 そんな才能を1人1人の子供達の心に開花させてあげたい。 した事への後悔より、しなかった事への後悔の方がずっと心に残るのだから。 もう少しやってみるのか、やめるのかは自分で決めるもの。 私のやるべき事は、そのことを噛み砕いて伝えて、背中を押してあげるだけだ。 最近の稽古で、もう少し頑張れば出来そうなのに、やろうとしない。 そんな光景を見かける。 大きな声で指摘すると、やはり出来る。 自分の能力を過小評価しているのか、それとも疲れるからそこまでの事を やろうとしないのかは分からない。 私は問題視している。 そんな些細な出来事でも見逃す訳には行かない。 自分がやれるだけの事はやったけれども、その稽古は自分の能力を超 というならしようがない。 しかし、問題はこういう事にある。 これが自分の能力だと思い込むように努力した気配があったかどpharmacy 私が問題視するのは、こういう微少な、僅かな表情や仕草から読み取れる その時の子供達の心模様にある。 自分の能力は、もうここまでと勝手に思い込んでいたとしたら そして小学生の内から、そにような思考回路を創り上げてしまっていたと したら、それこそ、その子の将来がどのような物に成るかは手に取るように 分かってしまう。 本当はもっと出来たはずなのに、「まあいいや病」に冒されてしまって居る子供は いないだろ 自分は分かっているけど大変で出来ない素振りをしていたら、その場をしのげる と自分に言い聞かせる「出来ない素振り病」にかかってはいないだろうか? そんな目線で子供達の心をつぶさに捉えては、大変厳しく叱るようにしている。 これを放置していると出来るものも、出来なくなってしまう恐れもある。 しかし、これらは全て自分たちの心の中では何となく分かっていること。 「ぼくには無理」を言うには30年早過ぎる。 何かを信じている人は強い。 何かを信じている人は輝いている。 勝手に間違った想いを引っさげて未来を棒にふることはこのクラブではさせない。 未来を信じて、真っ直ぐ前を見詰める。 そんな才能を1人1人の子供達の心に開花させてあげたい。 私のやるべき事は、そのことに尽きる。最近の稽古で、もう少し頑張れば出来そうなのに、やろうとしない。そんな光景を見かける
未来に約束
6年生 四人と約束した。 「3ヶ月後に開脚して胸が床に着くようにする。」 そんな単なる約束だった。 もう一つ、「出来なかった場合は空手を辞める。」そんな代償も付け加えた。 これはどれほどの効力があったかは分からない。 世間では約束を破ってもいいものだと勘違いをしている人がいる。 ちっぽけな約束だし。 取るに足らない約束だから。 そんな軽い気持ちで約束を反故にする人が少なくはない。 先日、プロ野球を観戦した。 2ヶ月前にチケットを抑えていた。 楽しみで待ち遠しかった。 その日を心待ちにしていた。 そして、その日は約束通りにやってきた。 しかし、その事は当たり前ではない。 雨が降って観戦できないかもしれないし、他の事情で観に行けなかったかもしれない。 でも、2ヶ月前に思っていたことが実現した。 先の約束には実は何の保証もないのだ。 だから自分で決めた事で出来る事なら、それをすべてやり続ける。 そういうことなら出来る。 その事を気付かせたい。 過去の自分が心に決めたその日までやり続けること。 それも出来そうだ。 それも伝えたい。 結局、それが約束というものではないだろうか。 そんなまどろっこしいことを6年生 四人に伝えたくて約束をした。 この四人に共通することは 2年程の稽古を積んでいた事。 しかし、四人とも身体が硬いという事。 そして、身体が硬くてもスパーリングは意外と強いという事。 ただ、自分の未来に約束するという大事な事はまだ知らない。 一生懸命やればきっと出来ることも知らなかったかもしれない。 毎日、毎日頑張った自分を導いてくれたのは、他でもない自分自身なのだ。 自分の未来は自分で決めるしかない。 それを伝えたくて約束をした。 来年、この四人は中学生になる。 この先、彼らがどんな人生を歩むかは分からない。 未来の自分を大事にしたいのなら、今の自分に嘘をついてはならない。 「きっと、ここに来るからな」と過去の自分が未来の自分に言い聞かせる。 そんな図太い人生であって欲しい。
夏休み
怒らないから正直に話してごらん。と親に言われ、嘘をついた事を認めた途端 頬っぺたを、これでもかとつねられた事を思い出す。 嘘は泥棒の始まりだからね。と言って聞かされた。 それでは、あの時の親こそ、嘘つきではなかったか? と今は微笑み混じりで思う。 しかし、それほど真剣に親は自分の行く末を案じていてくれたのだと伝わってくる。 誠実に生きるとは、そういうことなのだろう。 誠実な人であれば、食いっぱぐれはないのかもしれない。 だらしない格好をしていれば心もだらしなくなってしまう。 だから、居ずまいを正して座ることの意義は其処にあるのではないだろうか。 正座を教えるということは心の居ずまいを教えること。 これを日常的にやっていることで綺麗に座れるようになる。 子供達の心を真っ直ぐにさせるには、フカフカのソファーではなく正座がいい。 この形を創ることで子供達の心は次第に引き締まり真面目に相手の話を聞くようになる。 我慢の出来る子であって欲しい。 辛抱する心を持った子であって欲しい。 弱音を吐かない子であって欲しい。 そんなことをこの空手クラブでは願いながら、しつけに時間を取る。 欲しいから盗む。 殴りたいから人を傷つける。 ブランド物のバックが欲しいから援助交際をする。 イジメたいからイジメる。 そんな人たちを創らないために我慢をしつけている。 我慢を知らない人が陥る落とし穴が世の中には山ほどあると 子供達の心に刻まねばなるまい。 夏休みが始まった。 力強く生きる夏が始まった。 この夏休み、子供達はどれほど悪知恵を駆使して嘘をつくことになるのだろう。 そして、親達はどれほど子供達の頬っぺたをつねることだろう。 いずれにしても心を真っ直ぐに正し、太く生き抜く子供達であって欲しい。 ひまわりが力強く成長する夏。 日差しの照り返しが眩しい。 目には見えない心を摘み出し、強くへこたれない心を創り上げる。 そんな夏が待っている。
親の顔
たとえば、電車で自分の席の前で老人が立ってるにも関わらず 平気な顔してスマホにふける中学生。 たとえば、プラットフォームから線路にゴミを捨てる高校生。 たとえば、禁煙エリアで人目を気にせず煙草を吸う大学生。 たとえば、整列乗車を気にせず車内で座り込む高校生。 彼らもやがて結婚し、子供を宿す。 しつけを知らない、その若き新米夫婦はどうやって彼ら自身の子供をしつけるのだろう? 世間に恥ずかしくないだけのことを、伝えきらないまま 無責任にも世の中に、ほおり出した親たちがいる。 「ウソをついてはいけません」と子供に言いつけておきながら ウソが蔓延る世間を受け入れる親がいる。 頭でわかっていても、なかなか行動に移せないのが「しつけ」。 皮膚感覚で分かるまで何度も繰り返し、言って効かせるのが「しつけ」。 人の事より、まずは自分のこと。 子供のことより、まずは自分のこと。 自分の損得が一番大事。 自分が大事で、全てを損得で計算する人は世の中に少なくない。 「しつけ」は損得の外にあるもの。 「しつけ」は自分への見返りの外にあるもの。 「しつけ」はお金で買えないもの。 「しつけ」は一人の人を変えて一つの国を変えるもの。 その子たちが親になった時に「しつけ」を繰り返し伝えきる大人であって欲しいから。 その子たちが自分の子供以外の子も叱る大人であって欲しいから。 その子たちが大人になって電車に乗って「子供は立っていなさい」。 と言える人であって欲しいから。 弱い人の立場を守り、目上の人を大切にし、 そして自分だけ楽をせず、譲り合うことを知っていて欲しいから。 だから、私は口酸っぱく、ことあるごとに本人に伝え、すぐに改めさせる。 学校で学ぶことは、こういう土台があって初めて活きてくる。 学校はしつけを教える場所にあらず。 学校は知識を習得するところ。 無暗に生き物を殺さない。 物を盗まない。 ウソをつかない。 弱い者をいじめない。 人が困ろうが悲しかろうが、自分が困らなければそれでいいの? よもや、有名私立の制服を着たまま、ゲームにふけり 老人に席を譲らないような子供を創ってはなるまい。 「さあ、人間としてどうあるべきだろうか。」 と諭す人を一人でも増やして行きたい。 その為に私は今を生きている。