浜井識安という男 その3
一橋大学空手道部は松濤館。私がいた同志社大学空手道部は剛柔流。お互い伝統派空手がベースにあった。伝統派は動きが早いく顔面を直突きで連打する。そんな練習ばかりやっていた。浜井会長は「顔面ありでやったら極真は負けてしまう」といつも危惧していた。一橋大学の空手稽古が終わってから池袋本部に稽古に出ていたのでクタクタだった」というのが口癖だった。「空手バカ一代のヒットで池袋本部には入会者がどんどん来るから黒帯の先輩が間引くんだよ。いきなり顔面を叩いて辞めさせちゃうんだよ」。「そんな中でも後輩に優しい先輩がいたんだ。佐藤塾の勝昭先輩と大道塾の東先輩は後輩に無茶なことは絶対にしなかったよ。俺もそんな先輩を見てきたからそうしようと思ったんだ。でもな中には後輩に無茶クチャする先輩もいたよ。今でも好きじゃない」。浜井会長ははっきりしていた。そんな浜井会長がどうしても距離をちじめられなかったのが徳島の長谷川先輩だった。「顔面ありの試合を何度も長谷川先輩に掛け合ったけどダメだ」。極真護身空手を広めるには長谷川先輩の了解がないと進まないんだよ。長谷川総師は大きな壁だった。 私が鳴門の長谷川総師のご自宅に伺った時は風が強く瀬戸内に白波が立つほどで四国総本部道場の入口ドアが風の力で外れてしまった。総師も「ドアが外れるなんて初めてだわ。君が来たから海が荒れとるんちゃうか」。活舌がはっきりされてなかったが、言葉のニュアンスはそんな感じだった。総師は今でも眼力がするどかった。士道館の添野総帥は男気のある方で男の中の男。鳴門の長谷川総師は今でも戦う目を持った戦士。極真創成期の中心におられたお二人とも浜井会長にとって頼りになる先輩であったに違いない。鳴門のご自宅の6畳の部屋で3時間ほど話をして、地元の海鮮問屋のお店で食事をして大阪に移動した。閉め切った6畳間で二人っきり。そして3時間、総師はずっとタバコを吸っていた。6畳間の空気が真っ白になっていた。タバコを吸わない私にとってこの3時間は試練だった。2箱目のタバコがなくなった。あ~これで試練も終わったかと思いきや、引き出しから次のタバコが出てきた。ジャケットもズボンももちろんタバコ臭さくなっていた。「今までで10円玉を折ったのは二人居ったわ。大山総裁と鳴門の陸上の先輩や。二人ともグローブみたいな手をしとるんや。普通は出来へんで」。「80歳にもなるその先輩は今でも400mのグラウンドをうさぎ跳びで2周も回るんじゃ。怪物やで」。私より10歳上で76歳の長谷川総師も私には生きる怪物のように思えた。「浜井にも言ったんじゃ、顔面アリは大山総裁もやってないからアカンでて」。返す言葉は「押忍」のみでした。
IBKO選抜とキックボクシング
今日は横浜武道館でIBKOの選抜大会、そして八王子ではキックボクシングの試合がありました。IBKOでは2年女子タマキが全国大会出場権獲得。他の子供達も一歩一歩前進してるよ。よく頑張りました。そして引率の笹井代表、福西事務局長、いつもありがとうございます。 湘南からも引率して頂きありがとうございました。 キックボクシングの試合では高校生のショーヤが1ラウンドKO勝利で、通算7戦7勝。今日はいい膝蹴りがあり最後はフックでフィニッシュ。来月にはタイトル戦が組まれる予定です。 そして今日も3箇所で稽古指導をしてくれている先生達、ありがとうございます。皆さんのお陰で試合参加と通常稽古の両輪が上手く回す事が出来ました。子供達の為に、ありがとうございます😊 保護者の皆様もお疲れ様でした😊
天翔塾とGTジム
今日は梅ケ迫先生が天翔塾メンバーを、後藤会長がGTジムメンバーを連れて出稽古に来てくれました。忙しい中、そして遠いところから、わざわざありがとうございました。たまたま梅ヶ迫先生と後藤会長は極真会館神奈川西支部当時、一緒に稽古をされていたようです。25ー30年ぶりの再会だったようです。みんな組手に慣れてる子供達ばかり、いい動きをしてました。涙を流しながらも、またスパーリングに参加する強い意志を持った子もいました。強くなるなあ、この子達は。そんな思いで「未来の全日本上位入賞者達」を見つめてました。みんな、澄んだいい目をしてるなあ。それって大事なことだわ。梅ヶ迫先生と後藤会長、貴重な経験をさせて頂き、ありがとうございました。また試合会場でお会いすることがあると思いますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。
モンゴルの子
モンゴルの子供は身体が強いなあ、それが第一印象です。明らかに日本人の子供より強い。インドネシア、ベトナム、中国、イギリスの子供達がいるけど、元々、持ってる物が違うように思えるほどです。大相撲の世界にモンゴルの人が多いのも、頷けます。今、一番強い高校生のショーヤが年中さんで入って来たのは13年前。当時のショーヤより強いものを、この年中さんは持ってるように感じました。早速入会してくれたので、また会うのが楽しみです。 今、新しい子供達を教えてくれてるのが彼らの先輩の大学生、高校生、中学生。自分が教わって来た事を分かり易い言葉で伝えてくれているので大人の説明を上手くサポートしてくれていて、頼もしい先輩達です。
強い心
去年11月に宮崎市で開かれた空手大会で、小学生が試合中、背後から後頭部を蹴られる反則行為でけがをする動画がSNSに投稿され、波紋を呼んでいました。反則をした選手が所属する道場は「いけ」と攻撃を指示したセコンド役の指導者を無期限の謹慎処分とする事態となってます。今ではその道場指導者がみな、全身入れ墨をしてることがクローズアップされ、見た目で判断するのが世の中の風潮となっているようです。 ただ、その試合から約半年が経過しましたが、これら一連の流れの中でも、勝ち負けだけの試合偏重主義や、主催者側の姿勢・体制はあまり大きくは変わってないように感じられます。 当道場ではもちろん試合に出たい子供達にはその道を閉ざすことなく背中を押してあげてますが、試合に出ない多くの子供達に日々の稽古で、「一歩前へ出る強い心」を育み、子供の「健康や命」が最優先される道場でありたいと願っています。
浜井織安という男 その2
大連本部へ出稽古に行く時は毎回焼酎を空港で買って行った。「出稽古参加費用、ありがとう」。浜井会長はいつも焼酎を月謝のように受け取っていた。「大連で買うと高いから助かるよ」。こうやって2011年から2018年頃までの7年間で23回大連まで出稽古に行った。日本から何度も来てくれる人が居なかったようで、いつも大きな声で歓迎してくれた。 大連本部での稽古でキツかったのは30kgの重りをつけたサーキットトレーニング。プロレスラーがやってる内容を取り入れていた。浜井会長はマットに座ってトランプを並べ1枚づつ裏返しながら、ジャンピングスクワット30回、次、拳立て20回、、、とやる事と回数を言っていく。これが延々と続いて、最後には足も動かなくなって唇が紫色に変わってしまった。終わりが見えない練習ほどキツいものはない。会長が裏返すトランプがどこまで行ってるのか見る余裕はなかった。一通り練習が終わると決まって、「田中先生、飲みに行こう。いい焼肉屋があるんだよ」。そう言いながら、会長は毎回、先の尖った靴を履いて事務所をでた。「これで一発で倒せるんだよ」。まるで中学生が喧嘩に行くように言っていた。2人で焼肉を食べたら決まってカラオケだった。女性目的の中国カラオケではなくて、歌🎤を歌いに行くだけのカラオケだ。2人で毎回2時間は歌って帰った。 若かりし頃、大山総裁のお供をして、黒○明さんという裏社会の親分さんに可愛がってもらった事や、その道の方々とのお付き合いの事など大山総裁に付いていた頃の話をよく話して頂いた。ほぼ会長が喋って私は聞き役だった。 浜井会長の大連での指導は中国語だった。大きな声で喋る中国語を聞いてると中国人そのものだった。ビルのオーナーと会食をされていた時、その方が実は反日の中国人ヤク○だと言って来たらしい。「中国では人の命は5万円くらいだ。そいつが目配せしたら、若いのが自分を殺していただろう」。「田中先生、ヤツらに弱さを見せたり、ビビってるのが分かったらおしまいよ」、「中国人は相手が強いと思ったら手は出して来ないんだよ。これが分かってないと全部、持ってかれちゃう」。「ある時はこんな事があった」「タクシーに乗ってる時に全然違う場所に下ろして、携帯で仲間を呼ぶ運転手がいたんだよ。金を取れると思ったんだろうね。運転手の仲間が6人、取り囲んでだもんだから、自分も呼称ワイヤン(元ヤク○の道場主)に電話して、事情を説明してすぐ人を集めさせたんだ。そしたら10人くらいすぐに集まってきちゃって、それを見た相手の6人が小さくなっちゃって逃げ出そうとしたんだ。そしたらワイヤンが「こいつらやっちゃいますか」って言うから、「いいよ。そんな事は」。「タクシー代を払おうとしたら運転手がびびって受け取らなかったよ。田中先生、中国って面白いよなあ。」 浜井会長の話は実話だから面白い。私はそんな面白い話を聞く為に何度も大連に行った。当時の浜井派の支部長で大連まで出向く先生は居なかった。それが不思議だった。
大森鈴木道場 審査会
今日は大森にある極真会館大森鈴木道場の審査会に笹井代表と参加しました。 代表の鈴木先生の人柄がわかる元気のいい子供達が居ました。 中学生、壮年部の方々にいいものが垣間見れました。 この1年、大森では、いろんな事がありましたが、何があっても決して人を悪く言わない先生に感心していました。こういう人が代表でいるところは上手く廻っていくんだろうな、と漠然と感じていました。 だからか。大森が落ち着いて、活気ある道場になってきている。 大森道場と鈴木代表のこれからが楽しみです。
浜井識安という男 その1
出会ったのは14年前。当時、中国大連は日系企業が多く、仕事柄大連への出張が多かった。ホテルは毎回、日航ホテルだった。ホテルの近くに極真の道場があるのは知っていたが、なかなかタイミングが合わない。ある時、仕事の終わりに時間が空いたので、フラッと道場に立ち寄った事がある。声が大きく、話したら止まらない、人懐っこい大雑把な人がそこに居て、出会ったその日から奥の事務所兼自宅で2人でビールを片手に第10回全日本大会の動画を観ていた。年齢は4つ違いで、どちらかというと2人とも異端児のようなものだ。そんな2人の出会いはこんな感じだった。その後、何度か大連本部に出稽古をしているうちに、しまいには関東で浜井派の支部をやってくれんかと言われた。当時、浜井派は石川県、静岡県、愛知県、長野県、和歌山県だけだったので会長は首都圏に出たがって居たようだ。私は会社勤めをしながら土日だけならできそうかなと軽い気持ちで聞いていたが、いつしかその話だけが進んで行って、成り行きに任せていたら、浜井派神奈川県支部長になっていた。とは言え、練習場所探し、生徒探しは遅々として進まなかった。「これはどこの先生もぶち当たる最初の難関だ」。そう思って自分自身を慰めてはみたものの、3か月経ってもなかなか人が集まらない。やっぱりゼロからでは無理だ。と思ってるうちに徐々に人が増えだした。するとあれよあれよといううちに1年目で50人、2年目で75人。3年目では100人を超え、会社員の副業としては順調過ぎるくらいだった。その後、150人、200人へと増えていくうちに黒帯も育ってきた。そんな中、浜井会長とよく事業戦略について話をした。浜井会長自身も事業家であったために、私達は話が合った。当時、私は会社では半導体・電子部品事業の営業統括を担う立場にいたために空手も一つの事業ととらえてランチェスター戦略で広める考えに浜井会長も納得されて2人で大連の飲み屋でカラオケを歌っては極真空手を首都圏でどうやって広めて行くかを語りあっていた。浜井会長は極真空手は「全日本で入賞してない人」はいくら強くても認めてなかった。「入賞する人は何かあるんだよ。いくら体がデカく腕っぷしが強くても極真のトーナメントでは勝ち上がれない。入賞するには武運がないとダメだ」と飲む度に言われていた。「私は入賞してませんよ。」「田中先生はいいんだよ。空手道場をたくさん創って生徒数も凄く増えた。今では吉村君の次くらいに多いんじゃないか」と褒めて頂いた。吉村先生は熱心な先生であったが、他の金沢の先生方々と折り合わず、結果として浜井派を追い出される羽目になってしまった。私は「何か流れがおかしいな」と感じて、少し会派の本流からは距離を置いて静観していく日々を送っていた。会社が忙しく空手だけに専念できなかったのが逆に、頭をリフレッシュする結果にもなり、新鮮な思いで空手に取り組めた。 思い返せば大連出稽古のときも、初台に浜井会長が引っ越してこられてからも私は一度も浜井会長から𠮟責をうけたことはない。ところが近くに居る他のメンバー達には会長は、きつい言葉で罵ることもあったが浜井会長に心酔する人たちに取っては大きな声で発せられる暴言も苦じゃなかったのだろう。私は横浜だったので、静観できる距離に居て全体の流れを見ながら自分の道場の拡大発展に注力できた。