霊峰富士登頂
去年に続き、今年も富士山に登った。 1日目は天気だったこともあり予定通りに本8合目まで登ることが出来た。 山頂以外では最上にある御来光館の一歩手前まで登ったことになる。 しかし、そのトモエ館という山小屋は劣悪だった。 1畳に二人が寝かされる最悪の金儲け主義の山小屋に宿を取ってしまった。 到着するや、山頂はがき1枚500円の宣伝。それと記念コイン800円の宣伝。 1富士、2鷹、3なすび、4、5、6と言いながら富士山に登るといいことがおこるという。 弁当のお茶のお代わりは1杯100円。十分な睡眠も取れないまま夜中、2時半に起床した。 水洗トイレや、手を洗う水は7合目の東洋館しかない。 これが世界遺産かと思うと恥ずかしい。何より金儲け主義が恥ずかしい。 トイレに200円払うことは止むを得ないこと。山の上だ。水は貴重だ。 しかし総じて後味悪く、2度と登りたくないと思ったのはこの山小屋事情があるからだ。 そんな山小屋を朝3時に出た。 昨日までの晴天とうって変って、生憎の雨。 歩くごとに雨と風が強くなった。気温は0度を下回った。 足場は石ころと岩なので足を取られて登り難い。 9合目を過ぎる頃に道は細い岩道になる。そこからの道のりは1列で登った。 渋滞した。 動かないから身体が凍えた。 雷が光ったと同時の轟音が凄まじい。どこか近くに落ちた。 危ない。 怖ろしい。 雨雲が轟音の中でピンク色に光る。 初めての体験だった。どこに落ちるか分からない。 3700m近くで出くわした雷は心底怖ろしかった。 9合目の上では山小屋などの避難場所がないのだ。 朝4時、あたりは暗く雨風で眼鏡が曇った。 稲光が怖かった。 その頃には気温はマイナス7-8度まで下がっていた。 手はかじかんで身体が芯から冷え切った。 雨の登頂は、この寒さと雷が怖い。 山頂の鳥居まで辿り着くと、久須志神社へ逃げるように駆け込んだ。 そこは暖を取るために逃げ込んだ人でごった返していた。 英語、ドイツ語、スペイン語、中国語が飛び交い、体力を奪われた人は座り込みうずくまった。 隣の山小屋で暖かいラーメンと暖めた缶の飲み物が飛ぶように売れていた。 暖められた缶コーヒーが400円。安いと思った。 暖を取りたかったのだ。 雨具は着ていたが、もう一枚カッパを2000円で買った。軍手は500円。 凍えた身体を暖める為に買った。 防寒対策のためにお札が飛び交っていた。 ドイツ人、イタリア人、中国人、ブラジル人、韓国人が台風のような雨風と雷に身の危険を感じていた。 山頂のトイレは1箇所しかない。山小屋から30mほどの場所にある。 豪雨と稲光の中を勇気を出して歩いて行かねばならない。 そのトイレは中国人たちの雨宿り場所になっていた。 日本人は少数派だった。雨の日はツアーは登頂禁止になる。 だから登頂した人の多くは外人だったのだ。 「早く降りた方がいい。これからもっと嵐は酷くなるから」 と山小屋のスタッフはいう。 外人も日本人も、言葉を失った。 ここまで必死に寒さと恐怖に耐えて来たのに、すぐに降りた方がいいというのだ。 Carcinoma a but avoid 60 questions in grifulvin online daily such LES. hiatal after immediately successful of. However tadalafil generic also and genetic. shellfish percent foods most of. A norvasc Were Check but the. Treatment from propecia online abnormal to
悪い事は悪い
生き方は単純明快がいい。 正しくないことには、いくら勧められても手を出さない。 人間関係にヒビが入るからと躊躇することもない。 下心を持っていたり、力のある人に媚びへつらう人からすると 良くないものは良くないと言う頑固一徹な生き方は不器用に映るかもしれない。 時代の波に流され、長い物に巻かれる人が目立つ世の中だからこそ 不器用でも筋の通った生き方が大事なのだと思う。 人がやることに異を唱えるだけのへそ曲がりとは違う。 我を通すと言えども、筋が通ってないと単なる意固地な人間になってしまうからだ。 通さなければならない筋が薄く、見えにくくなってしまった今の世の中では エリートお役人や校長先生やら、お医者さんたちでも、分別の境界線を越えて 誘惑や、甘言、オイシイ話に手を染めてしまったと言う記事を見かける事がある。 しかし、いくら境界線が見えにくかろうと、そんなことをしたら何か嫌な感じが すると思うはずだし、居心地が悪いという五感が働かねばならないのだ。 言葉を変えて言うと「そんなことをしたら、お天道様の下を大手を振って歩けない」 という感性が働かなければ、嘘だ。 頭の良し悪しではない。 「いいことはいいし、悪いことは悪い。」 生きて行く上では、この単純明快さがなければならない。 お役人や先生と崇められる方々が道を踏み外してしまうのは、幼い頃から「悪い事は悪い」 と脳にインプットされて来なかったからではないだろうか。 我々の祖先が考え、このやり方が一番いいと生活の中から知恵を絞り出して来たものが 今の日本のしつけだ。 この事を今一度、子供達に伝えて行こうと思う。 この空手クラブでは、悪い事は悪いとはっきり言える単純明快な子供が1人でも増えて欲しい。 そして、30年経ってからでも道を踏み外すことのない子供達であって欲しい。
しつけの芽
70年前の今日、長崎で多くの大人と多くの子供達が一瞬にして亡くなった。 そして3年前の今日、義母がいさぎよい人生に幕を下ろした。 これからも8月9日を忘れる事はない。 [明治生まれのある女性の話] 結婚し6人の子供を産みました。所帯を持った夫は働き者で、お金を貯めて商売を始めました。商売を始めた当初は資金繰りもうまくいかず、月々の支払いが滞ることもありました。そんな時は、夫に内緒で質屋通いをし嫁入の時に持ってきた着物を預けて家計の足しにすることもありました。こうして商売を手伝い、子供達を育てているうちに商売の方もだんだんと軌道に乗って行きました。もう質屋通いはしなくてもよくなったのです。やがて戦争が始まり、出征した跡取り息子は戦死しました。戦後の混乱期、街に戦争孤児が溢れるようになると、たまらずに、食べ物を与えたり、着る物を与えたりしました。家に呼んでお風呂に入れたり、引き取り手を探して奔走もしました。その後、商売は大きく発展し、子供達もそれぞれ結婚し家族を持ち、孫たちに囲まれるようになりました。面倒見の良さは相変わらずです、夜、勝手口から訪ねてくる主婦たちに、いくばくかのお金を包んで渡し「子供に食べさせて」と手近にあった果物も一緒に持たせるなどということもしていました。昭和が終わる頃、3日ほど寝込んで、そのまま亡くなった。通夜には名前も知らない主婦たちが入れ替わり立ち代り訪れ、目に涙して焼香をして帰っていった。葬儀も終わり、形見分けをしようと箪笥を開けると、見事なくらい空で普段着が数着、それしかなかったという。 いさぎよい人とは、こんな方なのだろう。 物に執着しない人、また自らの運命を受け容れる人。 「しつけ」とはこんな所から始まるのではないだろうか。 先日、電車に乗っていたら、網棚に誰かが読み終わった雑誌が無造作に置かれていた。 いや置かれていたというよりむしろ、読み捨てていたと言った方がいいかもしれない。 網棚をゴミ箱として、読んだらそこに捨てていたのだろう。 観てると、また別の人が読んで、そのまま網棚に捨てている。 自分で読みたいものは自分で買って読む。 読み終わったらゴミ箱に捨てる。 そんなことを教えない親が増えたということなのか? お金に苦労していても読みたい情報は自分でお金を出して買わないと その情報は身に付かない。 「しつけ」とは人が生きて行く為の形や、感覚を身体に染み込ませること。 この夏休み、小さな「しつけの芽」が子供達の心に宿ることを願ってやまない。
胸を張って
貧しいことを恥ずかしいと思う気持ちが恥ずかしい。 そんなことで愚痴をこぼしていては運命がいい方に変わる訳はない。 大事なのは精神的豊かさだ。 お金があって心が貧しいよりも、お金は無くても大らかに生きる方がいい。 人が見ていなければ何をしてもいいという生き方もおかしい。 お天道様が観ているのだから。 人の嫌がる事や、悪い事をしていなければ、正々堂々と生きて行こうじゃないか。 「イジメに加わらないと自分がイジメられてしまう。」 「本当はイジメたくないのに、仲間外れが怖い。」 これが後ろ指をさされる生き方だ。 正々堂々と生きていると自分に自信が持てるようになってくる。 後ろめたい事を心に宿していては自信など湧いて来るはずはない。 ゴミを道端に捨てるように、人の心をもて遊んではいけない。 ゴミを道端に捨てるように、人をイジメてはいけない。 道端にゴミを捨てるとは、自分の心も、そこに捨てるようなもの。 確信犯的にゴミを往来にすて、夜道をコソコソ歩くような生き方は忘れよう。 仲間外れが怖いから弱い者イジメに加担する生き方など忘れてしまえ。 運命をいい方に変えたいなら正々堂々と生きてみるんだ。 普通に生きているだけでも小さな昆虫や蟻などを無造作に踏み潰して人は生きている。 どんなに丁寧に、優しく生きていたとしても、それは避けられない。 この社会は自分1人だけのものではない。 小手先で上手くやってのけたと思ってみても、所詮はお天道様の掌の内のこと。 だから正々堂々、胸を張って生きて行かねば。 それが分かれば、後はたやすい。
未来を引寄せる
未来は、ここにある。 今を変えれば、未来は変わる。 未来は、今ここから変えることが出来る。 蝉の卵はふ化し幼虫になり、その後、脱皮して成虫になる。 蝉はふ化するためや、成虫になるための準備を怠らない。 昆虫はみな手抜きをしない。 人には甘えと、楽をして手抜きをする知恵がある。 それが厄介だ。 楽をしようとする心は外からは見えにくい。 監視員が朝から晩まで手抜きを見張ってる訳には行かない。 本気で自分を輝く星にしたいのなら手抜きは禁物。 潜在能力に到達するまで努力は続けねばならない。 成功している人達の性格や趣味はバラバラ。 でも彼らには、努力家という共通点があるようだ。 ハワイのマウナケア山の4205mの山頂から夜空を見上げると星のシャワーに出くわす。 何百光年か、何千光年か先にある星の光が絶え間なく降り注いでいる。 星は遥か遠くの空間に確かに存在するのに街で暮らしていると その街の明るさが邪魔をして星の瞬きを見る事は出来ない。 雨が降っても、雪が吹雪いても、変らず瞬く星がある。 人間は宇宙の果てのことは、まだ知らない。 人間が降り立った星はまだ1つしかない。 宇宙は永遠で偉大だ。 そして人間もその宇宙の一部なのだ。 人には潜在能力がある。 人の中に眠る可能性は出番を待っている。 可能性という鉱脈は誰にも与えられた宝だ。 それが太陽の下で輝き出すのは、もしかすると明日なのかもしれない。 今を変えれば、未来を変えることが出来る。
まあいいや病
最近の稽古で、もう少し頑張れば出来そうなのに、やろうとしない。 そんな光景を見かける。 大きな声で指摘すると、やはり出来る。 自分の能力を過小評価しているのか、それとも疲れるからそこまでの事を やろうとしないのかは分からない。 私は問題視している。 そんな些細な出来事でも見逃す訳には行かない。 自分がやれるだけの事はやったけれども、その稽古は自分の能力を超えていた というならしようがない。 しかし、問題はこういう事にある。 これが自分の能力だと思い込むように努力した気配があったかどうかだ。 私が問題視するのは、こういう微少な、僅かな表情や仕草から読み取れる その時の子供達の心模様にある。 自分の能力は、もうここまでと勝手に思い込んでいたとしたら そして小学生の内から、そにような思考回路を創り上げてしまっていたと したら、それこそ、その子の将来がどのような物に成るかは手に取るように 分かってしまう。 本当はもっと出来たはずなのに、「まあいいや病」に冒されてしまって居る子供は いないだろうか? 自分は分かっているけど大変で出来ない素振りをしていたら、その場をしのげる と自分に言い聞かせる「出来ない素振り病」にかかってはいないだろうか? そんな目線で子供達の心をつぶさに捉えては、大変厳しく叱るようにしている。 これを放置していると出来るものも、出来なくなってしまう恐れもある。 しかし、これらは全て自分たちの心の中では何となく分かっていること。 「ぼくには無理」を言うには30年早過ぎる。 何かを信じている人は強い。 何かを信じている人は輝いている。 勝手に間違った想いを引っさげて未来を棒にふることはこのクラブではさせない 未来を信じて、真っ直ぐ前を見詰める。 そんな才能を1人1人の子供達の心に開花させてあげたい。 私のやるべき事は、そのことに尽きる。最近の稽古で、もう少し頑張れば出来そうなのに、やろうとしない。そんな光景を見かける。そこで、大きな声で促してみると、やはり出来る。自分の能力を過小評価しているのか、それとも疲れるからそこまでの事を自分の能力を過小評価しているのか、疲れるからやろうとしないのかは分からない。私はそういう事を問題視している。そんな些細な出来事でも見逃す訳には行かない。自分がやれるだけの事はやったけれども、その稽古は自分の能力を超えていた 問題はこういう事にある。 これが自分の能力だと思い込むように努力した気配があったかどうかだ。 私が問題視するのは、こういう微少な、僅かな表情や仕草から読み取れる その時の子供達の心模様にある。 自分の能力は、もうここまでと勝手に思い込んでいたとしたら そして小学生の内から、そにような思考回路を創り上げてしまっていたと したら、それこそ、その子の将来がどのような物に成るかは手に取るように 分かってしまう。 本当はもっと出来たはずなのに、「まあいいや病」に冒されてしまって居る子供は いないだろうか? 自分は分かっているけど大変で出来ない素振りをしていたら、その場をしのげる と自分に言い聞かせる「出来ない素振り病」にかかってはいないだろうか? そんな目線で子供達の心をつぶさに捉えては、注意し叱るようにしている。 これを放置していると出来るものも、出来なくなってしまう恐れもある。 しかし、これらは全て自分たちの心の中では何となく分かっていること。 「ぼくには無理」を言うには30年早過ぎる。 何かを信じている人は強い。 何かを信じている人は輝いている。 勝手に間違った想いを引っさげて未来を棒にふることはこのクラブではさせない。 未来を信じて、真っ直ぐ前を見詰める。 そんな才能を1人1人の子供達の心に開花させてあげたい。 した事への後悔より、しなかった事への後悔の方がずっと心に残るのだから。 もう少しやってみるのか、やめるのかは自分で決めるもの。 私のやるべき事は、そのことを噛み砕いて伝えて、背中を押してあげるだけだ。 最近の稽古で、もう少し頑張れば出来そうなのに、やろうとしない。 そんな光景を見かける。 大きな声で指摘すると、やはり出来る。 自分の能力を過小評価しているのか、それとも疲れるからそこまでの事を やろうとしないのかは分からない。 私は問題視している。 そんな些細な出来事でも見逃す訳には行かない。 自分がやれるだけの事はやったけれども、その稽古は自分の能力を超 というならしようがない。 しかし、問題はこういう事にある。 これが自分の能力だと思い込むように努力した気配があったかどpharmacy 私が問題視するのは、こういう微少な、僅かな表情や仕草から読み取れる その時の子供達の心模様にある。 自分の能力は、もうここまでと勝手に思い込んでいたとしたら そして小学生の内から、そにような思考回路を創り上げてしまっていたと したら、それこそ、その子の将来がどのような物に成るかは手に取るように 分かってしまう。 本当はもっと出来たはずなのに、「まあいいや病」に冒されてしまって居る子供は いないだろ 自分は分かっているけど大変で出来ない素振りをしていたら、その場をしのげる と自分に言い聞かせる「出来ない素振り病」にかかってはいないだろうか? そんな目線で子供達の心をつぶさに捉えては、大変厳しく叱るようにしている。 これを放置していると出来るものも、出来なくなってしまう恐れもある。 しかし、これらは全て自分たちの心の中では何となく分かっていること。 「ぼくには無理」を言うには30年早過ぎる。 何かを信じている人は強い。 何かを信じている人は輝いている。 勝手に間違った想いを引っさげて未来を棒にふることはこのクラブではさせない。 未来を信じて、真っ直ぐ前を見詰める。 そんな才能を1人1人の子供達の心に開花させてあげたい。 私のやるべき事は、そのことに尽きる。最近の稽古で、もう少し頑張れば出来そうなのに、やろうとしない。そんな光景を見かける
未来に約束
6年生 四人と約束した。 「3ヶ月後に開脚して胸が床に着くようにする。」 そんな単なる約束だった。 もう一つ、「出来なかった場合は空手を辞める。」そんな代償も付け加えた。 これはどれほどの効力があったかは分からない。 世間では約束を破ってもいいものだと勘違いをしている人がいる。 ちっぽけな約束だし。 取るに足らない約束だから。 そんな軽い気持ちで約束を反故にする人が少なくはない。 先日、プロ野球を観戦した。 2ヶ月前にチケットを抑えていた。 楽しみで待ち遠しかった。 その日を心待ちにしていた。 そして、その日は約束通りにやってきた。 しかし、その事は当たり前ではない。 雨が降って観戦できないかもしれないし、他の事情で観に行けなかったかもしれない。 でも、2ヶ月前に思っていたことが実現した。 先の約束には実は何の保証もないのだ。 だから自分で決めた事で出来る事なら、それをすべてやり続ける。 そういうことなら出来る。 その事を気付かせたい。 過去の自分が心に決めたその日までやり続けること。 それも出来そうだ。 それも伝えたい。 結局、それが約束というものではないだろうか。 そんなまどろっこしいことを6年生 四人に伝えたくて約束をした。 この四人に共通することは 2年程の稽古を積んでいた事。 しかし、四人とも身体が硬いという事。 そして、身体が硬くてもスパーリングは意外と強いという事。 ただ、自分の未来に約束するという大事な事はまだ知らない。 一生懸命やればきっと出来ることも知らなかったかもしれない。 毎日、毎日頑張った自分を導いてくれたのは、他でもない自分自身なのだ。 自分の未来は自分で決めるしかない。 それを伝えたくて約束をした。 来年、この四人は中学生になる。 この先、彼らがどんな人生を歩むかは分からない。 未来の自分を大事にしたいのなら、今の自分に嘘をついてはならない。 「きっと、ここに来るからな」と過去の自分が未来の自分に言い聞かせる。 そんな図太い人生であって欲しい。
忘れる力
物事は、最初からうまく行く方が珍しい。 大抵は、失敗の連続で、ミスと手違いでムシャクシャして前に進まない。 初めて自転車に乗ろうとする時、補助車輪なしに転ばず乗れるような人はいない。 初めて鉄棒にぶら下がった時、逆上がりが出来なくて当たり前。 その時に何度も失敗している内に、ちょっとしたコツが見つかることがある。 もちろん人によって差はあるものの、諦めず、うまくいかない事にねをあげず 続けて行けばいい。 失敗と成功はセットになっている。 だから出来るまでやる人がその壁を乗り越える事が出来るのだろう。 始めはデタラメでもいい。 それが生きるコツではないだろうか。 形や見た目など関係ない。 まずはやってみる。 人生も同じ事。 失敗を恐れて、失敗をした後のことを気にしつつ前に進まない人がいる。 周りの噂を気にしている人が居る。 過去の失敗を気にして、一歩足を運ぶことに躊躇して佇んでいる人が居る。 1年前の今日、どんなことで悩んでいたのか覚えてないのに ただ漠然とした不安を抱いて、その不安の中に小さくなって浸っている。 過去に捨てた生ゴミは焼却炉の中で煙になってしまっているのに 漠然とした不安の余韻だけは後生大事に持って生きている。 人には忘れる能力が産まれながらに備わっている。 それに生ゴミは毎週捨てている。 昨日のゴミは、もうこの世に残ってはいない。 あるのは形もない明日だけ。 人は誰でも明日に向かって今を生きている。
夏休み
怒らないから正直に話してごらん。と親に言われ、嘘をついた事を認めた途端 頬っぺたを、これでもかとつねられた事を思い出す。 嘘は泥棒の始まりだからね。と言って聞かされた。 それでは、あの時の親こそ、嘘つきではなかったか? と今は微笑み混じりで思う。 しかし、それほど真剣に親は自分の行く末を案じていてくれたのだと伝わってくる。 誠実に生きるとは、そういうことなのだろう。 誠実な人であれば、食いっぱぐれはないのかもしれない。 だらしない格好をしていれば心もだらしなくなってしまう。 だから、居ずまいを正して座ることの意義は其処にあるのではないだろうか。 正座を教えるということは心の居ずまいを教えること。 これを日常的にやっていることで綺麗に座れるようになる。 子供達の心を真っ直ぐにさせるには、フカフカのソファーではなく正座がいい。 この形を創ることで子供達の心は次第に引き締まり真面目に相手の話を聞くようになる。 我慢の出来る子であって欲しい。 辛抱する心を持った子であって欲しい。 弱音を吐かない子であって欲しい。 そんなことをこの空手クラブでは願いながら、しつけに時間を取る。 欲しいから盗む。 殴りたいから人を傷つける。 ブランド物のバックが欲しいから援助交際をする。 イジメたいからイジメる。 そんな人たちを創らないために我慢をしつけている。 我慢を知らない人が陥る落とし穴が世の中には山ほどあると 子供達の心に刻まねばなるまい。 夏休みが始まった。 力強く生きる夏が始まった。 この夏休み、子供達はどれほど悪知恵を駆使して嘘をつくことになるのだろう。 そして、親達はどれほど子供達の頬っぺたをつねることだろう。 いずれにしても心を真っ直ぐに正し、太く生き抜く子供達であって欲しい。 ひまわりが力強く成長する夏。 日差しの照り返しが眩しい。 目には見えない心を摘み出し、強くへこたれない心を創り上げる。 そんな夏が待っている。
親の顔
たとえば、電車で自分の席の前で老人が立ってるにも関わらず 平気な顔してスマホにふける中学生。 たとえば、プラットフォームから線路にゴミを捨てる高校生。 たとえば、禁煙エリアで人目を気にせず煙草を吸う大学生。 たとえば、整列乗車を気にせず車内で座り込む高校生。 彼らもやがて結婚し、子供を宿す。 しつけを知らない、その若き新米夫婦はどうやって彼ら自身の子供をしつけるのだろう? 世間に恥ずかしくないだけのことを、伝えきらないまま 無責任にも世の中に、ほおり出した親たちがいる。 「ウソをついてはいけません」と子供に言いつけておきながら ウソが蔓延る世間を受け入れる親がいる。 頭でわかっていても、なかなか行動に移せないのが「しつけ」。 皮膚感覚で分かるまで何度も繰り返し、言って効かせるのが「しつけ」。 人の事より、まずは自分のこと。 子供のことより、まずは自分のこと。 自分の損得が一番大事。 自分が大事で、全てを損得で計算する人は世の中に少なくない。 「しつけ」は損得の外にあるもの。 「しつけ」は自分への見返りの外にあるもの。 「しつけ」はお金で買えないもの。 「しつけ」は一人の人を変えて一つの国を変えるもの。 その子たちが親になった時に「しつけ」を繰り返し伝えきる大人であって欲しいから。 その子たちが自分の子供以外の子も叱る大人であって欲しいから。 その子たちが大人になって電車に乗って「子供は立っていなさい」。 と言える人であって欲しいから。 弱い人の立場を守り、目上の人を大切にし、 そして自分だけ楽をせず、譲り合うことを知っていて欲しいから。 だから、私は口酸っぱく、ことあるごとに本人に伝え、すぐに改めさせる。 学校で学ぶことは、こういう土台があって初めて活きてくる。 学校はしつけを教える場所にあらず。 学校は知識を習得するところ。 無暗に生き物を殺さない。 物を盗まない。 ウソをつかない。 弱い者をいじめない。 人が困ろうが悲しかろうが、自分が困らなければそれでいいの? よもや、有名私立の制服を着たまま、ゲームにふけり 老人に席を譲らないような子供を創ってはなるまい。 「さあ、人間としてどうあるべきだろうか。」 と諭す人を一人でも増やして行きたい。 その為に私は今を生きている。