比叡山の山中を7年(1000日)かけて地球を1周する4万キロを踏破する荒行が千日回峰行。 700日目にはお堂に入り断食、断水、不眠、不臥を9日間行い不動真言を10万回唱える。 この間 体重は15キロほど減ってしまう。介添え役や一緒に読経をする僧侶が20人とお堂に入る。 その後 6年目からは比叡山の山中の回峰に加え京都の赤山禅院への往復が加わり1日60キロの行程を 100日、7年目は200日を巡る。その100日の前半は京都大回りで毎日84キロ、後半の100日は 元通りの山中で30キロをめぐり満行となる、すさまじい荒行のことを言います。 ここまで来るのも 大変なことですが、実はそれまでに「十二年籠山」を達成しなければなりません。 標高800メートル の比叡山で12年間下山せずに生活するという行。 その十二年籠山を達成した僧侶が願い出ると 比叡山幹部会議が執り行われて千日回峰可否を決めるようです。 織田信長公が比叡山を焼き討ち してから400年で満行者は47名。 その行を2回終えた方は3名しかおられません。 その内のお一人、酒井雄哉大阿闍梨様が昨日2013年9月23日午後に亡くなられました。 47歳で千日回峰を始められたのが73年のこと。私がテレビでその様子を見たのは79年1月。 ちょうど21歳のころでした。 日本にこんなことをされる人がいることに衝撃を受けたのです。 極真空手との出会いの前後です。 ただただ凄いという思いでした。 こんな方に出会えることは この先も、ないだろうともぼんやり感じていました。54歳で満行。そしてそのまま2回目の千日回峰へ。 そして60歳で2回目も満行されたのは1980年のことでした。 私のストイックなトレーニングは、間違いなく酒井雄哉大阿闍梨の後ろ姿を観てのこと。 昨日は、私自身一日外に居て、「寒い、寒い」と思っていました。 来るべき時が来たという思いと 大変残念な思いが入り混じった複雑な気持ちです。  9月23日は、二千日回峰を成し遂げられた方が旅立たれた日として忘れられない日となりました。

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「桜台の帝王。いやぁ、みたけの組長ったぁオイラのことだい。 腹だしユウちゃん、なんて呼んだ日にや 許さねえからな。 でもオイラと仲良くなりてえなら、聞いてやらねえこともねえよ」   「いくら腹を出しているからって、惚れちゃあいけねえよ、オイラも忙しいんでなぁ。横向くとこんな感じ」 「いくら小学生相手でもオイラ容赦しねえんだ。 ほらね、手も足も出ねえったぁ、このこっだぁな」 「でも、たまにはこういうことも」、「でもこれ、泣いてるんじゃぁねえぞ」、「ゴミが目に入っただけよ」 「ほら、この通り」、「男はつれーよ」、「みたけの組長だもんよ、泣いちゃあいられねんだよ」 「さあ、もういっちょ、いくか」 「隙があったら、かかってきなぁ~」 「いや、ちょっと、痛えじゃねえかよ~、やめろってんだい、痛いって」 「桜台の帝王にかかって来るなんて、根性あるじゃねえか。まあ今日はこれくらいにしといてやるか」 「まあ、こんな感じだよ。なんなら一緒にやってみっかい。オイラの指導は、ちい~と厳しいぞ」 「稽古が終ってもオイラはいつも元気いっぱいだよ」 「桜台の帝王ってみんなは言うけど、一人だけ叶わねえんだよな」 「ママ~、アイス頂戴~」、「ちゃんという事聞くってば~。ママ~。」 この桜台の帝王が、いつの日か極真の黒帯を締めてくれることを願ってやみません。

5歳~11歳くらいの子供たちの中には泣きべその子、お調子もの、我慢強い子、自由奔放な子。 そしてこの子供達を見守るご両親たち。 子供達を見詰める心配な眼差しに自分自身を重ねて しまうことなど実は度々あって、懐かしくもあり、お母さん、お父さん、もうちょっと我慢ですよと 言いたくなる場面も多々あります。子供の稽古で親が我慢するなど変な話ですが、声をかけたくなって しまうし、叱咤激励の気持ちで背中を押してあげようとするのも親心。 分かっています。 でも、子供たちは、そこの峠を越えれば成長する、その局面を乗り切れば一回り大きく成ると 創造出来るときには実は親御さんは傍に居ない方が子供のためになると思っています。子供たちは 自分の力で急な坂道をよじ登って行けるのです。 その達成感が自信につながるのだと思います。  昔、いくら突き方を教えても猫パンチしか出さない次男に、このまま空手をさせていていいものかと 自問自答していたのは、もう12年も前の事。そしてその子が5年生の時に試合に出ようとしていた 前の晩。張り切り過ぎて熱を出して結局、試合に出たのは6年生の時。 しかし、その次男、初めて出た試合で対戦することになった相手は前年度の全日本ベスト8。  いきなり、こんな相手が。運の悪い奴だなと我が子を憐れんでみたものの、今更逃げるわけにも 行かず、そのまま試合に出させました。 私の立てた戦略はこうでした。 相手は蹴りが上手いから 必ず試合開始と同時に上段蹴りが跳んでくるから、それはかわすこと。 あとは小学生は腹筋が まだ出来あがってないのでボディーへの攻撃を集中すること。これだけを伝えて背中を押しました。 予想はまんまと的中。 世の中分からないものです。 観客の予想に反してボディーを下突きと 前蹴りで強打すると、次第にベスト8の子供は顔をゆがめ半泣きで堪えている状態に。  試合に初めて出た次男は、これで本戦で勝ちを修めて戻ってきました。 子供より私の方が信じ られない勝ち方でした。  親は試合の中には入ってはゆけません。 試合場に立てば大人も子供も一人です。 自分で やるしかありません。 そんな経験を子供は見事にやってくれてその成長ぶりを見せてくれたのです。  ある日出くわす子供の成長は、度々味わえる訳ではなく、そしていつ味わえるのかもわかりません。  しかし間違いなく出会える、その瞬間を楽しみにして頂きたいと思いながら日々指導しています。  他の道場に顔を出す機会があると昔、中学生だった子供が高校に。高校生だった子は社会人に。  面影はあっても別人のようです。もちろん突きも蹴りも威力が格段に違う。 そんな時にこの子も 人知れず努力して頑張って来たんだと感じます。 子供達は日々成長している。 目には見えない 程度だけれども日々考え方も変わり、体つきも変わります。 昆虫のように脱皮したり、さなぎに なったりしないので、近くで一緒にいるとその変化が分からないだけです。  人間はその場に留まらず間違いなくプラスにもマイナスにも変化しています。そして感動したことは、 いつまで経っても忘れないものだとつくづく思います。  先日NHKで7歳の子供達を7年ごとに撮影し現在56歳になっている人たちのドキュメンタリーがあり ました。 良く撮れたものだと思います。 それも49年間も何人かの行く末を追い続けるなんて凄い。  引っ越しをして結婚・離婚を繰り返す人。  昔、子供の頃に語った自分の夢をそのまま実現している人。  様々です。  現在のその人の映像と子供の頃、高校生の頃、大学生の頃の会話、その後、職に 就いた頃の会話。 一人の人生がそこにありました。 そこに映っていた子供たちは思っていた ような人になって、そういう人生を歩んでるのです。 やはり人間、幼少のころ、小学校のころの 純粋な心にどんな人生を描いてあげるか非常に大事なんだと思います。  日々子供は成長しているので、その子供達に感動を与え、そしてそうなりたいと思わせる紙芝居 を見せてあげていると、純粋な心であればあるほど、やはりそうなるものなんだと、あらためて そう思いました。  私は子供にはお節介を焼くのが好きな方でしたけれども、今思うのは、それはマイナスであって、 子供にはあまりあれやこれやと世話はやかない方がいいということ。 それとただ、将来の紙芝居 を見せてあげるだけで十分、子供は理解し自分で心に焼き付けて行くものだと思っています。 長男が7歳のころ医者のいいことばかりを話してました。 14歳のころ、夢をあきらめそうになって いました。21歳にころ、まだ夢の途中です。 来週長男は24歳。その夢が実現するのには、まだ あと2年半が必要です。 その夢が叶うまで、あまり近づきすぎないで見守っていようと思います。

8月は型と移動を中心にした稽古。 稽古の中で話をしたことは三戦(サンチン)の立ち方。 後屈立ち、前屈立ち での移動の仕方。 この基本を伝えることが実は過去には十分には出来ていなかったので解説をして行きました。 元々極真は大山総裁が松濤館で空手を学び、剛柔流を学んだ中で創られた直接打撃系の流派です。  その為、型の多くは剛柔流に由来してます。 私が大学の時に習っていた剛柔流の型と現在の極真の型は微妙に 違ってました。 大山総裁の転掌の型を観た時に、そのスケールの大きさに剛柔流との違いを感じたものです。 剛柔流には太極、平安という型はありません。これらは松濤館や和道流から来ているようです。 そんな型の中で 私が一番好きなのは剛柔流の征遠鎮(セイエンチン)と、憧れでもあるスーパーリンペイ。 しかしこのスーパー リンペイは私は出来ません。 何故ならこの型は極真にはないのです。 この型を教えてもらえる師範も極真には いません。 ただ自分の型にして行きたい。そういう憧れの型でもあります。 全空連の型の決勝の多くは剛柔流 か糸東流の方々が占めています。 どういう訳か型の決勝はこの2つの流派から出るケースが多かったと記憶して ます。 それほど、この2つの流派の型は素晴らしい。 私は極真のセイエンチンではなく糸東流のそれが好き。 キレがあって、空手らしいと個人的には感じています。 スーパーリンペイはいつの日か自分も出来るようになりたい と思う憧れの型。 極真空手をやっていると、このような事が意外と疎かになってしまうと思い、この8月は伝統的な 稽古、型や移動の在り方などを解説し伝えてきました。 そしてやればやるほど奥が深く、まだ修行の途中である ことを強く感じた夏でした。 広い体育館で蚊取り線香を点けながら型稽古をやった夏もそろそろ終わるのかと 昨晩の虫のなき声で感じました。 虫の声はもう秋のようでした。 伝統空手の四大流派 剛柔流 (ごうじゅうりゅう) 那覇手出身の宮城長順が創始。その名称は、長順所有の拳法書「武備誌」の中にある拳法大要八句の「法剛柔呑吐」から取られた言葉に由来している。 松涛館流 (しょうとうかんりゅう) 首里手出身の船腰義珍が創始。義珍は本土空手の父と呼ばれるが、本人が流派名を名乗ったことはない。昭和14年、義珍の書号「松涛」を冠した道場「松涛館」設立。その松涛館出身の義珍の弟子たちが名乗った流派名が松涛館流である。 糸東流 (しとうりゅう) 琉球唐手三系統を学んだ摩文仁賢和(まぶに・けんわ)が創始。琉球唐手のすべての技術系統を網羅した流派が糸東流である。当初は「摩文仁流」という名称だったが賢和が大日本武徳会に“練士”の称号を授与されたときに「糸東流」と名乗ったのが最初。ちなみに“糸東”とは、賢和の師である、糸洲、東恩納の二人の名字からとった名称である。 和道流 (わどうりゅう) 四大流派のなかで唯一、本土出身者によって創始された。創始者の大塚博紀は、元々は神道揚心流の柔術家であったが、船越義珍に学び、本部朝基や宮城長順とも交流。空手と柔術の長所を取り入れ、和道流空手として創始した。

組手やスパーリングは心の強さを養います。 型は基本を整え、根気を養います。  その為、この空手クラブは、空手の技を伝えながらも、実は「心の強さ」と「根気」を養うための場 であると考えています。 もちろん「気合い」も大事。 気合いとは「気持ちの勢い」のこと。 生きて行く上でやはり 大事なことです。 気力もしかり。 気力とは何かを行おうとする精神力のこと。  この空手クラブでは、こう言う目に見えない「気」に関わることに着目して指導を行って います。 何故なら「気」とは生命力を与えるエネルギーであるから。  この「気」というものを年中さんから低学年の間に養うことが出来れば、そして自ら「物事に 飽きずに耐えうる力」を備えられたとしたら、その子の足元は明るい灯で照らされ、如何なる 困難にも立ち向かい、それを乗り越えて行くことでしょう。  根気とは物事を飽きずに長くやり続ける気力のこと。  不可視のパワーであり分厚い岩盤をも貫き、目標への道を切り開いてくれるもの。  だとしたら自身の人生が遅々とした歩みであったとしても決して忍耐を崩してはならないのです。  卑しい心の持ち主は、不出来をその環境のためであると考えます。  自分の環境とは自身の心を映す万華鏡です。 その鏡の中で刻一刻と変化する多様な 色彩の移り変わりは、動くことを止めない自身の心と思いの数々が絶妙に投影されたもの。 心の中で繰り返し巡らされる思いは、たとえそれが良いものでも、悪いものでも、その人の 人格と環境内で、それ自身の結果を寸分の誤差もなく発生させてしまいます。 つまり人間が自分の思いを完璧にコントロールすることが出来るのであれば、それを根気よく 全うすべきです。  気高い夢を観ることです。  自分の理想は、自分の未来を予言するものに他ならないのだから。  根気はそれを成し遂げる原動力だと信じ、それを幼き頃に養うしかありません。

8月15日、毎年民族性を意識してしまうのです。 中国や韓国からの見方もあるのは理解できます。  しかし私は日本で生まれ日本で育った日本人。 だから普通に日本を大事にする気持ちが湧いてきます。  ただ日本人は世界的にみると変わっているのかもしれません。 それは「菊と刀」に書かれている通り。  義理、恩、恥の感覚は日本人固有の物。そして日本人は礼儀正しいといわれる一方、横柄で実は 不遜も併せ持つようです。 電車に乗っていると、たまに横柄な人に出くわす事があります。  アジアに行くと不遜な態度を取る人もいます。 そういう人がいるのも事実。 でもそれは極一部に 過ぎず多くは平和的な国民のように思えます。 逆に平和ボケしている国民のように錯覚してしまう 時もあります。 日本人はもっと意思を貫かねばと歯がゆい思いもたびたびでした。 大昔、地球が凍える寒さに覆われていたころ日本は大陸と陸続きであったので大陸からいろんな民族が 流れて来ました。しかし、その後の温暖化で海面が上昇し、島国として固有の文化を築くようになるのです。 祖先を辿るDNAは韓国の方とは違い、中国、チベットやシベリアの民族に近く、その後の大陸からの 多くの渡来人との戦いと混血を繰り返し、今の日本人が創られたようです。    今、8月15日は東アジアでは特別な日になっています。 元を辿ればそれは同じ人種なのに近いからか なのか喧嘩をする相手になって久しいものがあります。 もうかれこれ1000年くらいは同じような いざこざを繰り返して来ました。 しかしいったいいつまで、このいざこざは続くのだろう?    子供たちはどこの国でも素直なのに。 

三浦雄一郎さんが80歳にしてエベレスト登頂に成功したのは今年の5月のことでした。 大変すばらしい偉業 だと世間はもてはやしていました。 私は、冷めた気持ちでテレビのニュースを観ていたことを思い出します。 この標高8000メートルの死の世界に関する思いを書いた雑誌を昨日、目にしてあらためて冷めた思いが よみがえって来ました。 「自分には無理だ。もういいやと諦めてしまえば、楽になれる。でも山を前に登ろうとも せずウロウロしているだけでは人生つまらない。自分を諦めてはいけない」という言葉はその通りです。 確か5月に三浦氏が登頂をされた翌日の新聞で日本の高齢の女性登山家がエベレストで亡くなられた記事を 見ました。 わずか300万円ほどの装備。 でもこれが一般的です。 かたや三浦氏は企業の援助を受け1億円 を超える装備と多くのスタッフに守られての登頂。下山はヘリコプター。 野口氏はこれを批判してました。 私も同感。 そもそも03年に70歳で初登頂、その5年後に2回目、そしてその5年後に80歳で登頂。 この結果を 創らんがためのスタッフと、ヘリコプターでは本来のエベレスト登頂とは言えないと思えたのです。 「冬にエベレストに上るとか、スキーで滑るとかだ。ミウラ・ユーイチローを知ってるか?」 「有名だ。1970年にエベレストをスキーで滑ったんだろう」 「そうだ。そのとき俺たちシェルパがそのエクスペディションに参加し、彼を高所にまで導いた。」 「だが、知っているだろう、途中で、氷塊の陥落で、シェルパが6人死んだ。シェルパの遭難死としては それまでの最大規模だ。だがミウラはそこでスキーをやめなかった。彼は上に行きスキーで滑った。」 「6人は何のために死んだんだ?」  「6人の遺族は今どうしている?」  「稼ぎ手の男がいなくなったんだ。それなのに慰謝料も補償金も何もない。細々と暮らしている」 三浦氏も こういう遺族に関わる活動をされてるのかもしれませんが、ニュース、雑誌などからは 全くその片鱗も感じられずにいるので、大変寂しいものを感じ、人間として正しいものなのか疑問に 感じているのです。

今年の夏は暑いというのはバイクに乗っていても分かる。 生温かいっていう感じではなくなって アスファルトの照り返しが熱風になって顔に押し寄せてくる。 冬の凍える寒さを足して2で割って 欲しいくらいだった。 そんな日の夕方、すすき野で型稽古。 これは自主トレのつもりで体育館 を押さえていたのです。 審査前で型を仕上げたいという人が誰かくれば、それは指導の時間に。 そう思いながら体育館に行くと上海でゴンファン師範の道場に通っていたSさん。では今日は Sさんと二人で型を仕上げますかと思いきや、三々五々子供たちが集まって終いに10人くらい。 さあ、型をやろう、そう言って30分。 あたりの空が暗く、遠くでゴロゴロ雷が。  子供たちは大変。 そんな中でも型稽古を続けていました。体育館は安全な場所だから。 その合間に年中さんのH君が太極そのⅠをやろうとしても、そこは年中さん。お母さんが傍に 居ないと出来ないのです。お母さん、2度ほど一緒にやってるうちに太極そのⅠをマスターされて しまいました。 子供は雷ではしゃぎ出し、走り回ってましたが、お母さんはいつも観ておられるから 型の流れを覚えておられる。 なんと素晴らしいって、そんなに関心し出してると土砂降りの雨に なってました。あたりは真っ暗に。 そして2分ほどの停電も。 夏の体育館で停電です。 耳を押さえて怖がっている子供や、はしゃぐ子供やら。 夏のいい経験でした。 この土砂降りで私のバイクのヘルメットには、ほんの15分ほどであふれるほどの雨が溜まって しました。 ヘルメットをひっかけていた紐が切れそうな重さ。 これってスイカみたい。 まあ、いいや。夏だから。夏休みだから。 熱風のバイクも、土砂降りのバイクも。みんないい。 びしょぬれのヘルメットをかぶって雨の中のバイク。 これもなかなかオツなものでした。  さあ、今日も想定外のことがありますように。

何も味がないということを味として。 小さいものを大きいものとして扱い、少ないものを多いものとして扱う。 難しい事は、それが易しいうちに手がける。 大きいことは、それが小さいうちに処理をする。 世の中の難しい物事は、必ず易しいことから起こり、世の中の大きな物事は、必ず些細な事から起こる。 安請け合いをすれば、きっと信用を無くす。 易しいと見くびることが多ければ、きっと難しいことが多くなる。 一抱えほどもある大木も毛先ほどの芽から成長する。 千里もの道のりも一歩歩く事から始まる。 ざっと、世の中の事はこういう流れの中にあるように思える。 名誉と身体と、どちらが身近なものであろうか? 身体と財産と、どちらが大切なものであろうか? 何かを得ることと失う事と、どちらが苦しいであろうか? 物を惜しんで生きると、いずれ散財する羽目になる。 多くを蓄えれば、必ずひどく失う羽目になる。 だから満足することを知っていれば免れることも多いだろう。 ただ「足るを知る」と言葉で分かっていても、 それを出来るかと問われると全く程遠い。失敗をしない為だと分かって居てもそれが抑えられないのが人間だ。 でもちょっと難しい。 頭で考えるのはもうよそう。 難しい言葉じゃなくても分かるものがある。  1885年に書かれた児童文学「イワンの馬鹿」を読むとわかる気がする。こんな人生を歩めたらとつくづく思う。     そんな真理を単純明快に、わかりやすく描かれた児童文学に心が洗われる。 夏は読書に限る。  ちょっと暑い中で単行本とにらめっこ。 スマホやバーチャルなゲームよりもこの農家の三男坊の話しは面白い。  ちゃんと働いて手にタコが出来ている者だけに食べる権利があると結んでいたその本の結末は、当時高校生で あった私の心の奥に普遍的なものの意味を伝えてくれた。 読み終えたあと大の字になりながら余韻に浸っていた。そんな夏休みは、あっという間に過ぎて行った。 夏は、やはり読書に限る。 そして昼寝もいい。 そんな気楽な夏休みが大好きだ。

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