あと何日
父が他界したのが確か72歳。母は今年の7月で80歳。 これを日に直すと父は26,280日で他界、母は7月で 29,200日を迎えることになります。私は現在19,800日を生きています。 私の人生は贔屓目に見ても70年。 そう考えると私は25,550日で人生を終えることになります。 私はすでにそのほぼ77.5%を終えているので人生の 第4コーナーを曲ったあたりに居ることになります。そうすると残日数は約5,750日。 昨晩、これをどのように活きるかを考えていたところです。 あと15年も生きると言われると、何だまだまだ先の事と 考えがちですが、あと5,750日で終焉を向けると考えると 砂時計が着実に時を刻み、 残りが少ないことに気づき ます。 もちろんこの砂がなくなるまで自分の人生を好き勝手に活きることもあるでしょう。 今までもそうして来たの だから、そういう生き方も続くでしょう。 しかしちょっと真面目に活きることもたまにはやっておこうかと思っています。 私は人生80年として29,200日の中でまだ2,000日しか生きてない子供達や10,000~15,000日を生きている 大人の方々と土日を共にしています。 ならば、おせっかいと言われようと、このつたない経験をもとに失敗をより少なく 生きるすべなどは、都度伝えていこうと思います。 この人生を「日にちで観て行く生き方」を若いうちから知ってもらう のも大事なことかも知れません。
イソップ
縄文時代後期、今から2900年も前のこと。 日本の人口は8万人に減っていました。遡って4300年前の縄文時代中期 には日本の人口は26万もいたのに、その後の栄養不足や疫病蔓延などのために人口は減ってしまったのです。 その後弥生時代に入った1800年前には稲作も普及し国家が形成されて人口も59万人に増加しています。 そしてそんな日本がまだ縄文時代後期の、今から2500年前に小アジアのフリジア島の貧しい羊飼いの黒人の家に 生まれたのがイソップ。 顔はひどく醜く、そのうえどもりで、人とまともに向かい合って話をすることもできなかった人。 まるでコンプレックスのかたまりのような男が、そののちエーゲ海の東の端にあるサモス島に渡り奴隷として働いて いました。 しかし、さまざまな苦難に耐え、ひたむきに努力をした結果、2番目に雇ってくれたご主人がイソップの天賦 の才を見込んで奴隷の身から解放して自由人にしてくれました。自由の身になったイソップは、アテネ、コリントなど ギリシア各地を寓話を語りながら渡り歩きます。 イソップは語り屋として次第に認められ人気を博していきますが、時の権力や体制に反するような人間であると 言いがかりをつけられ、紀元前550年頃、デルフィであらぬ罪を着せられたまま処刑されてしまいました。 まだ当時のギリシャですら言論の自由も生きる自由もなかったころの話です。 旅人の服を脱がそうとする北風と太陽の話や、カメとうさぎのかけっこの話、アリとキリギリスなど今でも通じる話ばかりを 2500年も前に生きたイソップは考え、それを語り広めて行ったものだと感嘆しきり。 そしてその後、現在に至る2500年 の間、よくもそれに関わり合った人達は、その話を語り継いで来られたものだとつくづく思います。 今日、そんなイソップの話をみすずが丘の稽古のあとの個人レッスンでしていたのです。 個人レッスンと言っても集中 することの習慣づけ。そして一緒に本を読むというもの。 本は百瀬昭次さんの「君たちは偉大だ」。 これを6冊、木曜日に 購入し、1冊は今日、個人レッスンの子供に渡しました。 これから一緒に最後まで読んで行こうと思います。 30分の個人レッスンの20分は空手の基本稽古、10分は、この本の朗読にあてることにしています。 今回6冊も買ったのは、他の子供たちとのことも考えてのこと。 いずれ朗読に興味がある子がいれば一緒に参加できれば いいと考えているからです。 朗読は脳を活性化させ、豊かな想像力を導きだしてくれるものです。 声を出して読むことは 他人にも自分にも聞かせる事になる為に黙読よりも記憶に残りやすいのです。 今日は二人で代わる代わる声を出して 読み、時間になったところに今日の日付と名前を節目のように書きました。 この作業は春が終って、蚊に悩まされる夏に なれば終っているだろうと思います。 何でこんなに時間をかけるかというと、文章の段落ごとに何を言いたいのかを 考えてみる時間を取ったり、今日のイソップの話などで脇道に反れたりする「大事な寄り道」をするからです。 実はこういう寄り道が子供たちに取ってかけがえのないものになると思っているので欠かすことは出来ません。 そして、この個人レッスンはもちろん無償。 自分の心が動いて始めた活動なのですから。
能力善用
強いって 何? どういうこと? 強靭な身体を持つこと? 空手の試合で勝つこと? いやそんなもんじゃない!! 本当の強さは 優しさ。 生きる力。 逆境に耐える力。 弱い人を助けてあげる心。 ありがとうと素直に言える心。 自分より相手を大切に思う心。 そんなものがなくて外見だけ形を作ってみてもお飾りに過ぎない。 私が教える空手とは ただ技を教えるだけ? 本当に学んで欲しいのは、あきらめないこと。 逆境に打ち勝つ前にあきらめているとしたら、 立ち止まってその子の手を私は引いて一緒に歩いて行きたい。 空手の技はその後。 いくらでも強くなる技は教えられる。 生きる力、あきらめない心が大事なんだと私は伝えて行きたい。 多くの子供たちに。 「With…若き女性美術作家の生涯」というドキュメンタリーはもう12年前のもの。 その主人公:佐野由美さんはもういません。 まだ24歳でした。 そんなドキュメンタリー映画を作っていた会社員が、また映画を作りました。 もうすぐ上映されます。 「うたごころ」 というの映画。 「生きる力」ってどういうこと? 外見の強さなどどうでもいい。 生きるんだよ、いずれ一人で。 脱落しそうな子供がいたら、そこまで戻って一緒に歩んで行こう。 震える心があれば 温めてあげよう。 私の能力はそいうことに活かして行きたい。
エネルギーの循環
私自身が巡らす思いの全てがエネルギーとして外側に出て行きます。 そしてそれは同じような思いを巡らす人の心を 引き寄せたり、周囲の人たちの同種の思いを刺激したりするでしょう。 その思いは、結果として自分の元に何らかの良い 反応や、悪い反応として戻ってくるでしょう。 人の心と心の間には思考エネルギーの絶え間ない交流がなされているようで 自分が気にしていない場所でも、そして遠く離れた場所であっても多くの化学反応を引き起こしているように思えます。 私自身の荒々しい身勝手な思いは、破滅的なエネルギーを生み、他の人たちの心の中にある悪いものに刺激を与え 、それらを増殖させてしまう。 そしてそれはお天道様に吐いたツバのごとく自分の身に混乱を与える為に舞い戻ってくる。 一方、思いやりに満ちた穏やかな思いを抱いた途端、不安と悲しみの荒波に喜びを振り撒き、傷ついた心に癒しの雨を 降らせることが出来るように思えます。 まるで目に見えない暖かいエネルギーが伝わって行くように。 こんな私に何が出来るのだろう? たまにそう思う事があります。 先月31日の木曜のすすき野での稽古のことでした。 9月に入ってくれた3年生が他の子供に比べて基本が出来ていない ことが改めて気になりました。 早速その日の夜に、その子の御母さんに自分の思いお伝えし、「2月の末からでも30分 づつ、稽古が終ってから1対1の個人レッスンをさせてもらいたい」と私の方から申し出ていたのです。2月は昇級審査や 演武会を控えていたので、そのような一人ひとりの些細な出来不出来を気にしていては前に進めないと思う気持ちと、 どうしてもそのままにしておけないという相反する気持ちが交錯し私は立ち止まって居ました。 しかし結論はすぐに 見出せました。 一人の一歩を喜べないで、また一人の成長を見いだせないで指導などする価値はないと。 お母様には率直に感じたことをメールに書かせて頂き、その翌々日、お父様から今までの御苦労の御様子などもお聞かせ 頂き、私からの申し出も快くご了解頂くメールを頂戴したのです。 そして演武会が終わった翌週の23日の土曜のみすずが丘 で17時から17時半までをマンツーマンレッスンとして始めることとしました。これからの土曜日はその子と30分間を一緒に 過ごします。 基本も。そして集中力を高めるための稽古も。また空手以外のことも一緒にやろうと思っています。 私の提案は読書。本を読むことを楽しんで欲しい。本に親しみを感じる子であって欲しい。身体を鍛えて筋肉や骨に刺激を 与えるのと同じくらい、脳に刺激を与えたい。 読書をして感動し感性を磨いて欲しい。そこから何かが生まれるはず。 そんな思いで土曜の17時からの30分をどんな時間にするのか知恵を絞っています。 第1回目の23日。覚えの悪さにキツイ言葉。反復。地味な稽古。しかし1対1なのでやはり集中しているのが見て取れました。 これからどんな有効な時間に出来るだろう? 私にはまったく分かりません。 しかし、演武会も子供たちの顔を思い浮 かべながら工夫をして構想を練ってみんなで練習をやったら初めてにしてはいいものが出来たと思います。 ならば、 どんな成果があるかは分かりませんが、一人の子の成長を見る為の時間に知恵を出してみよう。 今はそんな気持ちで います。 私は優しく輝くその子が、自信に満ちた片鱗を見せてくれる日まで、このマンツーマンレッスンをやり続けようと 思っています。
脳への刺激
児童手当の申請・受給を受け、高校授業料無償(年間約11.9万円)を受ける前提でも、幼稚園から高校まで公立に 通い私立文系を4年で卒業したとすると約900万円。国立大学を卒業した場合でも760万円。これに大学生の高価な 教科書代、下宿代、交通費、生活費が加算される訳です。 5万円の仕送りを4年間すると、それだけで240万円。 ということは国公立・私立を問わず、文系の大学を出るということは子供一人に1千万円ほどの負担はかかるということ。 これだけ見るとウンザリ。しかし毎月の収入と出費を細かく見ながらやっていくと出来るものです。実際には、この費用 に加えて小学校・中学校・高校の間には受験の為の塾代、予備校代も加わってくるということと、家を購入したり、車を 買ったりするので、出費はかさむ方向にあります。 ざっと子供一人につき1千5百万円。しかし、これは16年間の合計。 月々では約7万8千円。 これなら何とかなりそう。 子供が二人でも15万円ほど。 しかし、これだけお金をかけて、 いい大学を出て、いい会社に入ってもリストラされる世の中。 今は荒波の平成。右肩上がりの昭和ではないので、 どの道を選ぶかは迷うところです。 教育費をかけて開成・麻布・双葉に入れて国家公務員? 学校の先生? 教育委員会? 弁護士? 超有名企業? ボートレーサー? 競馬のジョッキー? 将棋の棋士? 消防士? 警察官? 自衛隊? ごく普通の一般企業? カジノのディーラー? マジシャン? 音楽家? 落語家? 漫才師? 保育士? 看護師? 医者? はたまた代議士? いずれにしても、その道に進むには、どの年齢(段階)で何をすべきかをしらないとその道には 入れないということ。 しかし、多くの場合、教育にお金を費やす割りに、自分たちが関わって来た職業以外の選択肢の 情報が少ないために、その子供は親の経験則を超えられないのです。 ならば親が世の中の他の職業選択肢に興味を 持って吟味し、子供の才能・性格などを考慮すれば適切な時期に適切に生きるアドバイスを出来るはず。 まさに、このプロセスが大事。 またもう一方、こういう生き方もあります。それは子供がやりたいことを探すのを待って、 それまで教育資金にお金をかけず、その分をそっくりそのまま子供の為に預金をしておいてあげるのもお金の活かし方 です。 今は過去の日本の生き方や成功パターンから距離を置き、自らの手で起業することも子供の可能性として 視野に入れておくべき時代なのかもしれません。 大切なのは何を考え、どういう一歩を踏んで生きる人間に育てあげるか ということ。 つまり子供の脳のどこの分野に刺激を加え続けるかで、その子の人生設計が決まるのであって教育費用 の大小では決してないのではないかと思えてなりません。
夢
過ぎ去りし日の夢 希望に満ちていたあの頃 とわの愛を夢見て 神もお許しになろうと でも虎は夜やってくる 雷のように低くうなり 希望を八つ裂きにし 夢も恥と変わる 私は夢見る あの人が 共に人生を歩んでくれると でも かなわぬ夢もある 避けきれぬ嵐もある こんなはずじゃなかった こんな地獄で暮らすとは こんな哀れな姿で 夢破れし 我が人生 Anne Jacqueline Hathaway が Fantine として歌う "I dreamed a dream"は Susan Boyle ほど上手く心に響きます。 Susan Boyle の歌で一番いいのは、Britain's Got Talent の予選会で歌った「夢破れて」。 有名になったあとの歌は 洗練され過ぎて、上手いのですが感動はありません。 何かを打ち破るものではなく、綺麗に整った感じ。 あの予選会 で世間をあっと言わせた空気はどこに行ったのでしょう。 人は夢が叶うまでが美しく、輝いているのかもしれないと つくずく思います。 夢が現実のものになる瞬間、私はそんな感激に触れていたい。 神山昌子さんは 何度、夢破れたことでしょう。 世間に埋もれながら 夢を忘れない人が世の中にはたくさんいます。 出産後に離婚。 34歳で法律に触れ、37歳から司法試験に挑戦し、一人息子に背中を押されながら23年目に合格。 すでに60歳。 いったいどれほどの涙を流せば夢はかなうものなのでしょう。 夢の途中で挫折する人がどれほど多い ことでしょう。 でも私は夢はかなうまでの道のりが大事だと思っています。 かなうか、かなわないかは問題ではない。 それを成し遂げようとする姿が尊いのだと思うのです。 そこには輝いてる心があるから。 アン・ハサウェーの歌と スーザン・ボイルの予選会の歌には、そんな心があるように思えます。
サリナス
1962年、ノーベル文学賞を受賞したがアメリカ国内の批評家からの評価は必ずしもよくなく晩年の生活は決してめぐまれた ものではありませんでした。1968年、ニューヨークで心臓発作をおこして66歳で死亡した作家はモントレーのサリナス 生まれでした。モントレーからサリナスまでは車で30分。 1950年、そのサリナスとモントレーを舞台に書かれた小説は 映画化され日本でも有名です。 1955年、ある映画の撮影終了1週間後の9月30日、サリナスで行われるレースに向かうために同乗者の自動車整備士 と共に愛車のシルバーのポルシェ・550 スパイダーでカリフォルニアの道を走行中、午後5時59分にコレームあたりの 46号線と41号線の東側の分岐点で、横からはみ出してきた車と衝突。整備士は車外に投げ出されて骨折、相手の 運転手も軽傷で済んだが、24歳の若者は、ほぼ即死状態でした。サリナスの事故現場にはその後、モニュメントが 建てられました。そこには事故の起こった夕方5時59分を永遠に忘れないために∞で括られた文字が書かれてます。 「James Dean 1931 Feb 8 - 1955 September 30 PM5:59 ∞」 BSで録画してあったその人の映画 East of Eden を久しぶりに観ていたら、夜中の3時過ぎ。アメリカの昔の映画は中身が あって面白い。 日本の昔のものとは大違い。 このアメリカの映画を観ているとサリナスがどんな場所なのか知りたく なって、この原作も読んでみたくなります。 もちろん、その方の書かれた『怒りの葡萄』も、『二十日鼠と人間』も読まず にはいられなくなります。私はこうやっていろんなノーベル文学賞の受賞者の作品を読みふけるのです。 でも今日はもう寝ないと。 明け方の3時39分。 世の中はすでに深い眠りの中です。
のび太
私はドラえもんの気持ちでいつも子供達を看てます。そしてドラえもんに長けておられる横山泰行さんのドラえもん 考察はいじめ問題に対する捉え方としても参考になると思えるのです。 そこにはこうあります。 グズでノロマで無気力な弱い男の子の代表であるのび太は大の泣き虫。おばあちゃんはそれを観て「転んでも転んでも 一人でおっき出来る強い子供になって」と嘆願され、「ぼくダルマになる。約束するよ、おばあちゃん」と幼稚園児ののび太 は答えました。やがておばあちゃんが亡くなってのび太が小学校4年生の時。ドラえもんが未来の世界へ帰らなければ ならなくなりました。帰る前の晩のこと。のび太とドラえもんはなかなか寝付かれませんでした。月の美しい晩でした。 二人は思い出のいっぱい詰まった土管の広場を散歩する事にしました。ドラえもんは未来の世界に帰るにあたって 「ジャイアンやスネ夫にいじわるされても、やりかえせるだろうか」、「一人で勉強できるだろうか」と気になることを のび太に聞きます。するとのび太は胸を張り「ばかにするな! ひとりでちゃんとやれるよ。約束する!」と断言します。 そんな言葉を耳にするとドラえもんはホロリと大粒の涙を流し「ちょ、ちょっと、その辺を散歩してくる・・・」と言って その場を離れます。しばらくするとジャイアンが鼻提灯を膨らませながら寝ぼけて土管の広場あたりに現れました。 ジャイアンはのび太の姿にハッとして「おれが寝ぼけてるところみたな」と因縁をつけ胸倉を掴んできました。のび太は いつものようにぶっ飛ばされました。何度も何度も立ち上がってはのばされました。しかし「ぼくだけの力で君に勝た ないと・・・ドラえもんが安心して・・・帰れないんだ!」と絶唱し執拗に戦いを挑みました。やがてジャイアンは 「やめろってば、悪かった。俺の負けだ」と白旗を上げていました。 のび太が生来持っていた戦う勇気という心は 委縮して眠ったままの状態だったのです。のび太はドラえもんの日々の献身的な子育て愛とダルマさんになる! というおばあちゃんとの約束によって何度も挫折しながら立ち上がることが出来ました。のび太は覚醒して行く闘う心 が一歩一歩強化され、しなやかな男の子へと成長していきました。 私は、こんな子供たちであって欲しいと思っていると、今日、2011年10月に起こった大津市の中学生いじめに関する最終 報告書が大津市長に渡されましたとのこと。 1年と3カ月経って今ようやく。 私は、一人でも多く、のび太のような子供が秘めた能力を覚醒してくれることを願って病みません。 弱い子のために。 グズで、ノロマで、泣き虫の子供たちのためにこの空手クラブはあると思ってます。
F分の1ゆらぎの世界
「私は幸せを自分のものにしようと追い求めてきた。 そそり立つ樫の木や揺れるブドウの藪を横目に。 丘を越え 谷を渡り 野を走り 野原を抜け 私は幸せを追った。 私は急流を必死で渡り ワシが鳴く断崖をよじ登り あらゆる大地と海を旅して歩いた。 しかし私はいつも幸せを取り逃がした。 終いに私は疲れ果てて 目まいがし もはや追えなくなっていた。 そしてうらぶれた岸辺に腰を下し 私は身体をやすめることにした。 ある者が食べ物を ある者がお金を求めてやってきた。 彼らの痩せた手のひらに 私はパンをのせ 金貨をのせた。 そしてある者が思いやりを ある者が休息を求めてやってきた。 私は彼らに可能な限り分け与えた。 するといつしか 私は満ち足りた思いの中に居た。 私の足が踏み入れるのを あらゆる道が待っている。 明るい道 暗い道 生きている道 死んでいる道 広い道 狭い道 高い道 低い道 穏やかな道 病んでいる道 今、私は自分で歩きたい道を歩くことが出来る。 素早く あるいはゆっくりと。 そして 私は知るだろう。 どれが良い道で どれが悪い道なのかを。」 先日、読んだ本にはこんな道の話が書いてました。 今、新幹線で横浜に戻る途中。 果たして良い道と悪い道が分かる人がどれほど、この世にいるのだろう。 そして自分はどうだろうと 考えていたら、うとうとと つかの間の眠りについてしまったのでした。 電車の振動はゆらぎの世界。 私は、いつも このF分の1ゆらぎの世界に浸りながら 深い眠りにつくのです。
がんばる姿
極真空手を始めて9カ月。小学校1年生としたら強くなってきた。そして耐えることも、やり返すことも経験して来たから いじめには抵抗力もついてきたことでしょう。学校で、いじめという言葉を気にしないですむようになってくれればという 気持ちでここまで指導もして来ました。今年の7月、暑い盛りに、すすき野小学校の体育館で内受けが出来ず、 泣きじゃくっていたのを稽古を中断し、体育館の外でなだめたこと。 自分より小さな子供のパンチを受けて、痛さよりも びっくりして泣いていた姿。 女の子の蹴りを顔に受けて泣いていた姿。 そんな日々ばかりが頭を過ります。 何度も何度もいろんな壁がありました。 でも、どんなことがあっても、翌日には、いつも明るく、笑顔でいる1年生。 この先、どんなことがあっても何とかやっていけるのではなかろうかと、ほのかな期待を込めていつも看ています。 短期教室は1月3日から始めたので今日が始まりという感覚ではなかったのですが、多くの子供たちにとっては、5日の 今日が稽古の初日。 そんな初日にまた、この子の泣き顔を見ました。 泣いても何も始まらない。だから打ち返せ。やり返すんだよ。 という思いで見ていたためか稽古が終って泣いてるこの子を 膝の上に抱えて話しているうちに、こちらも涙がでそうになりました。 本当に強い全日本クラスの四年生のミットを持つだけでも大変。その彼のパンチをみぞおちにくらっては泣いてあたりまえ。 なので彼とスパーリングをした三年生も泣く寸前。 しかし、こんな上級生に巡り合えた幸運を感じて欲しい。 こんなにうまく、そして強い四年生は、廻りを探してもいません。 そういう相手が自分を強くしてくれていることを分かって 欲しい。 心を鬼にして、叱咤激励をするのが私の役目。決して涙目は見せないようにしないと。 でも子供たちのがんばる姿には心が動いてしまうのです。