悪いことも、いいことも
1月18日と19日で人生が変わる人たちが大勢います。そのセンター試験は毎年の事。そしてこういう時に合わせる かのようにインフルエンザが流行り出します。しかし、これも毎年の事。 運がよかったのか悪かったのかは、 10年後に考えましょう。 この期に及んで、「落ちたらどうしよう」とは思わない方がいい。そんなことを思っている みすぼらしい顔では、縁起のいい神様は近づかないから。 どうせなら「何があってもあの大学に通るんだ。 それしか自分に残された道はない」と思った方が肝が座って集中出来るはず。 人生には嬉しいことも、二度と味わいたくもない苦い出来事もあります。 偶然そうなったものなのか、それともその方に取って、そうなることに理由があったのかは、誰も分かりません。 しかし、どんな結果でもそれを正面から腹を据えて受け入れ、その意味を見出し、自分の進むべき道を切り開いて 行けばいい。 「人生万事塞翁が馬」なのだから。 折角、生まれて来た人生、一度しかない人生。 そんな自分だけの毎日を楽しんで生きてみようではないか。
カメレオン
You are what you eat. You are what you see. You are what you touch. You are what you hear. あなたは自分が食べたもの、見聞きしたもの、そして触れたもので 出来ています。だとすると何を見るのか、何を聞くのか、そして何を 食べるのかは選んだ方が賢明。 人間はカメレオンンなのだから。
明日を掴むために
自分から逃げないで、しっかり自分の心を見据えて、勇気を持って前に歩を進めようとする人はどんな分野 であっても着実に成長出来る人だと思います。 努力をして結果が出ると、それが自信になることも 分かってくるはずですし、また努力をせずに結果が出るとおごりが生まれることも分かるはずです。 そしてまた努力もせず、結果もでないと後悔だけが心に残ることも分かっている人。そういう人は努力して 結果が出なくとも、経験が残ると肌で分かっています。 そういうことの繰り返しが自分自身の魂の次元を 上げるステップになっているように思えます。 極真の黒帯は誰でも取れます。ただ、多くの人は、 そんな黒帯を取る前に辞めてしまうのです。それには、かなりの努力が必要だからその成就を見る前に へこたれてしまうのでしょう。 極真では5年ほどかけて黒帯になります。何故そこまで頑張れるのでしょうか? それは日常の社会生活の中で、空手が心の支えになり、自分のプライドにもなり、そして生き甲斐である とまで感じる瞬間に出くわすからではないでしょうか。 もちろん、途中で頑張る事に疲れた人は黒帯には なれません。それは極真の黒帯に御縁のなかった方で、ほどほどに頑張ってる方は極真にはそぐわない としかいいようがありません。 気持ちが折れそうな時もある。疲れてもういいかなと思う時もある。 しかしそれでも自分に喝を入れ、それを乗り越えようとしている自分がいて、その結果、自分の心の中に 自信がみなぎっていることに気付く瞬間に出くわす。 だから諦めないのです。 しかし、自分の都合で稽古に出たり休んだりする癖のついている方が、その程度の努力で黒帯になれる程 極真は甘い世界ではありません。 仕事を真っ当にこなし、家庭を守り、もちろんお付き合いも大切なのは 十二分に承知していますが、ただ、だからと言って「時間がないので」、「あれが出来ない、これが出来ない」 と言う人はそもそも武道を習うには無理があるように思えてなりません。少なくとも、人に能書き垂れて やがて先輩面するのなら、出来ない言い訳ばかりが上手にならない様にすべきです。 よもや、 自分自身も精神修行を道場で行っているなどとは恥ずかしくて言えるはずがありません。 一つの事を掘り下げようともせず、あっちにも、こっちにも穴を掘り、結局、何をやっても中途半端で 終えている人が何と多いことでしょう。 少なくとも子供への教育に重きを置いている以上、まず自分自身が明確な目的・目標を持ち、達成するために 困難を乗り越えて行く姿を示し、率先垂範で生徒を引っ張って行く様な道場でありたいと思います。 昨日から逃げて来たあなたは今日からも逃げるのですか? 明日に踏みとどまれる保証はどこにもありません。 明日、踏みとどまる気持ちがあるのなら今日を踏みとどまりましょう。 過去に戻って戦う事など出来ません。ましてやまだ見ぬ未来に戦いを挑むことも出来ないでしょう。 けれど今現在を精一杯戦う事は出来ます。 人は今、この時を戦う事によってのみ、過去に失われて しまった貴重な時を回復することが出来ます。そして未来に展望を開くことも叶うのです。 昨日から逃げて来てしまったあなたがいたとしたら今日を、いや、たった今を真剣に戦う事でしか 明日を掴むことは出来ないのではないでしょうか。 それが人生だと思うのです。
筆
書道がなんなのかよくわかりません。 漢字の書き順もおおよそ正しくないと思います。 自分で丁寧に書いた字でも 見返してみると小学生が描いたような幼稚な字。 という訳で字の上手い人は、それだけでその人を見上げてしまうのです。 関西のお笑いの方で原田伸郎さんという方の筆字もいい。正式な書道の先生ではないでしょう。 でもその字に人柄が 出ていて和みます。 金澤翔子さんの筆も心が伝わってくるようでいい。だからたまに眺めては、その人の素直な心を感じたり しています。それほどこの人の字が好きです。 「お母様が好きだからお母様のところに生まれてきたの」という翔子さんは ダウン症。言葉が少ない翔子さんの言葉には嘘はないようです。 ダウン症の告知を受けて涙にくれて、オロオロと 悲嘆に暮れて、彷徨い生きたお母様が、この子を授かって幸せだと思うまでに二十余年かかったようです。 私はこの金澤翔子さんが書いた宮沢賢治さんの「雨にも負けず」が殊の外好きです。 小さく書かれた一文字一文字に 心が籠っているようで、その素直な字体が気に入ってます。 生きて行く上で苦労もあったでしょう。 こんなはずでは なかったと思う事も何度もあったことでしょう。 期待なんてしない方がましだと思うことも一度や二度ではなかった かもしれません。 何度そんなことを思いながら活きてきたことでしょう。 しかし、どんなことがあっても、いつも前を向いて活きて来たから、その文字に心が反応するのかもしれません。 その字を観て、その方の言葉を通して感じるものがあります。 期待通りに物事が進まなくて却って、その方が 結果的に良かったということが人生にはつきものです。神様なんて信じるものかと思いながらも決して道を外さない、 そして心を投げない生き方があるように思えてなりません。 新たに迎えたこの年、どんなことが起るのだろう。そしてどんな出会いが待ってるのだろう。 いずれにしても、どんなに落ち込むことがあっても、いずれ春は来るのだと思って前を向いて行こうと思います。 「雨にも負けず」の翔子さんの文字を観ていると、人生満更でもないと、いつも思うのです。
二万二千四百九十五日目
私がこの世に生を受けて二万日と百六日となります。 その間、心臓は一日も一時も休まず動いていて くれている。ただただ、そのことに感謝です。 そんなことを考えながら、東京オリンピックまでの日数を 数えてみると二千三百八十九日もあるのです。 なんだまだそんなに先のことかと思わず肩でため息を ついてしまうほどです。 しかし、ある方が「6年半なんてあっけないことだから」という。 そうなのかもしれない。 振り返ればあっという間の出来事なのでしょう。 そうだ2020年、日本はどうなっているのだろう? 2020年は遥か遠くのことでもあり、手を伸ばせば届きそうな頃合いでもあります。 この6年半の間に起こることって一体どんな事なんだろう? そんな事を考えてみると何だかワクワクしてきます。そうだ、まず言えることはこんな事かしらん。 起こり得ること 「原発再稼働始まる」、「憲法改正がなされる」、「北方領土問題が解決する」 「英語ブームが起こっている」、「2019年ラグビーワールドカップ東京開催」、「AKB・ももクロ解散コンサート」 「3年でデフレ脱却し景気回復」、「東京はどこでも工事」、「建設活況」、「雇用増加」、「経済効果19兆円」 「温暖化・暑い夏で熱中症対策品が売れる」、「異常な強さの台風発生」、「異常気象でゲリラ豪雨多発」 「アルツハイマー病克服」、「iPSでパーキンソン病と心不全克服」、「遺伝子治療でがん克服」 「少子高齢化」、「老老介護」、「男性の育児休暇増加」、「若く元気な60歳台増加」 「2020年が目標になって生きる意欲が湧いてくる人が増加」 「アジアの中間層が現在の5億人から17億人へ=アジアの時代」、「アジアから観光客増加」 「中国GDP日本の2倍」、「中国14億人の衣食住関連ビジネスに日本は関与している」、「中国大気汚染」 出来ない事 「地震予知」、「インフルエンザ撲滅」、「禿げを治す薬」、「タイムマシーン」 起こらない事 「中国と日本の戦争」 しかし永い目で見ると、現在とそんなに変わらない日本があって、「あっという間に2020年でした」と振り返る テレビ番組を今と同じように観ている二万二千四百九十五日目の自分がいるのかもしれない。
身体と動きを創る
年末からお笑い番組が多く、飽きてしまった。 それに疲れると身体を動かすしかないということで 最近は型を何度もやっています。 型を続けているとじわっと汗が出てくる。 突きの型~撃塞小~撃塞大~最破~十八~征遠鎮を一つの型につなげて1クールにしてみて、それを 10回も続ければ30分はかかってしまう。 型を究めるのには凛とした冬の寒さはいいものです。 そう思いながら拳の握り方や立ち方を見直しているのです。 大晦日のボクシングタイトルマッチは中身があった。特に井岡、三浦、内山、金子という四人は印象に残った。 何よりもスピードがあって、守りの巧さ。そしてみんなガッツがあって観ていて面白い試合。 久しぶりに 日本のボクシングが攻撃的で強い人が出てきたようで嬉しかった。 すぐにクリンチをするチャンピオンをもてはやして「試合巧者だ」などという強さを感じない試合なんかは 観たくもない。 そう思って観ていたら、この四人は小賢しいボクシングはしなかった。 「逃げない」、「巧い」、そして「強い」がやっぱりいい。 男はこうでなきゃいけない。 クリンチのやり逃げは勝つ為の姑息な手段だと思うので強さを求める人にはあまりやって欲しくはありません。 そして巧さには立体的な巧さが必要。 相手のパンチがあたらない巧さは芸当だ。 空手もそうでないといけない。 相手の攻撃を立体的にさばいてすぐさま立体的に反撃する芸当を磨かねば下手な空手になってしまう。 下段蹴りと中段のど突きあいはシニアの試合。 観ていてまったく面白くないのです。 心の強さが伝わってくる組手、巧い組手、危ない組手。 こういうものを究めたい。 ゆっくりした動作を身体に染み込ませて、それを何度も何度もこなしていくうちに空手家らしい動きが出てくる。 攻撃を当ててみて、また攻撃をさばいてみて初めて、その型の動きの正当性を感じとれるというもの。 この冬はそんな型を究めようと思っています。 ベンチプレスで身体を創り型で動きを創る。 これでいいとは、いつになっても思えない。
オリオン座
また新たな年が明けました。今年もよろしくお願い致します。この1年、ワクワクして過ごしたいと思っています。 ところで「初詣」は日本だけのもの。いつまでも1月1日の真夜中のこの瞬間を大切にしていきたい。 シリウスもオリオン座も、こんなによく見えるものかと思う瞬間。寒さの中、コタツを抜けて来て良かったと思う。 才能は神様が与えてくれるもの。 謙虚に受け入れよ。 名声は人が与えてくれるもの。 喜び感謝して受け入れよ。 うぬぼれは自分で創ってしまうもの。 気をつけるべし。 ≪Fortune teller 2014≫ Talent is God-given. Be humble. Fame is man-given. Be grateful. Conceit is self-given. Be careful.
版画家
地獄の研修なる管理者養成学校が今だに盛況であったとは驚いた。 確かに羞恥心を失くすことは 大事かもしれないし、そのような2週間くらいの宿泊研修も価値はあるのでしょう。 しかし如何にも 日本的な研修であることは間違いない。 外国人が見たらそう思うだろうし、大日本帝国が復活 すると思うかもしれない。 はっきり言って、こういう研修成果は一時的なものであって、本人 の行動を変え社業発展につながるとは到底思えないのです。 もうそういう時代ではないのではないか? 多くの場合戦略や、マーケティングに長けていないと企業の発展は見えてこない。 そこに根性とか意気込み だけでは立ち向かえないものがあるのです。 もちろん「思い」は大事。「目標設定」も。しかし駅前で大声で訓練歌を 歌わされている姿は時代錯誤だと思えてしまう。 個人的には見るに堪えない後継です。 まるで35年前に在籍していた大学の空手部そのもの。 ちょうどその光景を見ていて当時の空手部の良くない風習を 思い出しました。 昔は武道の名のもとの制裁や陰湿な下級生へのしごきなど日常茶飯事。 しかし私はそういうものは 好きではありません。 いや、虫唾が走るほど。 それは下級生の時も上になった時も決して、いいものではないと 肌で感じていました。 だから自分が上になった時には下の人よりも上にいる人が厳しい練習をするように変えていました。 ところが1年生の頃はそれがまるで逆で、そういう間違った文化が世間に蔓延っていましたた。 この地獄の特訓にも いい点もあるのでしょうが個人的には受け入れ難い思いが先に立ってしまいます。 そんな中、2013年12月20日の新聞に96歳になる版画家の浜田知明さんの記事が載っていました。 「戦争を知らない世代の一部の人達の中から、最近勇ましい言葉が聞かれるようになった。出兵 して行った兵士達と白木の箱に納まり戦友の腕に抱かれて帰って来た英霊達の姿がまだ残って いるのに、、という一文がいま改めて心に響きます。最近の日本は戦前を想起させる空気に急速に 傾いています。権力を握った政治家は思い通りの国を創ろうとする。本来はまず国民があって 国つくりをすべきなのに、今は国ありきで、そこに国民をはめ込もうとしている。非常に危ない気 がします」 また以前、「日本には武士道の伝統があり明治以降も立派な軍人がいた。その日本軍が残虐なことを したはずがない」 という主旨の年配女性の投書が新聞に載っていました。何という勝手な思い込みと 甚だしい誤解で固められていることか。 何だかキナ臭いにおいがする、変な方向に、世の中が向いてきているように思われてなりません。 過去、何度も戦いを繰り返して来た日本人がこの先、永遠に戦争をしないとは言いにくい。 必ずやどこかで日本人は 戦争に手を染めるのだろう。 長らく戦いをしなかったのは江戸時代くらいなもので、その前後は50年くらいのスパンで 戦いを繰り返してきた歴史がある。 それを我々日本人はDNAの中に仕舞い込んでいる。 ただ2020年までは 大丈夫。 世界の目を引く催しがあるうちは偏った動きは取れないもの。むしろその晴れやかな催しのあとが 心許無く思えます。 時は粛々と流れ十年一日のごとく年月は過ぎて行く。 そして川の流れに逆らわず精一杯毎日を 生きてゆけば、これが杞人の憂いかどうかは、いずれ分かるのでしょう。
ホドホド
空手教室にどういうことを求めてきているのかは千差万別でしょう。 習い事感覚で空手道に親しもうと する人が増えているのかもしれません。「礼儀正しく」、「強くなって欲しい」、「いじめに負けない子供で あって欲しい」これが本音でしょう。 この空手クラブで最も大事にしてることは「礼節」です。「礼儀」、 「姿勢」をまずは正していくことから始めています。 大人の方もいい年をして何で礼儀なのかと思う人 もいるかも知れません。しかし空手道場には作法や所作があって、それを伝えて行く中で礼節を重ん じる人に目覚めて欲しいと願っているのです。 礼節とは相手を敬い尊重するということであり、相手を 思い遣る心に通じるでしょう。 それが単なる形式に留まっているレベルであれば、それは武道を習って いるとは言えません。 世の中には寝技を含めた総合格闘技、キックやボクシングもあるので、その場 で頑張るのも決して悪いものではありません。 武道だけが素晴らしいという訳ではないのです。 様々なスポーツがあり、一生懸命に努力すればどういう場でも素晴らしい人材へ育成してくれること でしょう。 但しオリンピックに出た選手でも裁判沙汰で結審を待つ身である人もいる訳ですから、 相当指導する人自身の心の姿勢が大事であって、そういう事が一番に掲げられないと喧嘩の強い 荒くれ者の集団を作りかねません。この空手クラブが心の姿勢を正す修行の度合いを重視している のはそういう事からなのです。 「道場に来て身体的強さを求めるだけ」というお考えの方は、いずれ 求めるところが違うという思いになるかもしれません。 もちろんここは極真空手を教える場ですから そこで自分がどれだけ真剣に取り組んでいるかで間違いなく身体的に、また精神的に強くなって行く のは明らかです。痛さ、怖さに耐えて続けるとそういう結果は付いてくる訳ですから。 しかし、私が 伝えたいのはそういうものではなく「心の姿勢」であって「礼節をわきまえた人物」であること。これが 根本にないと活動を継続する意味も薄れてしまいます。 一歩、街に出て殴り合い、蹴り合いをした 途端に、御用で留置所に無料宿泊が可能になる世の中です。 しかし、逆に極真の空手道場の中 では殴り合い、蹴り合いをして相手を倒すと褒められます。 痛い、怖い、苦しい、ましてや、試合など に臨む時には怪我は百も承知であって恐怖感、緊張感は半端ではありません。そんな状況でも 逃げずに挑んで進んで行く姿は尊い。それが結果として心が強くなると言っても過言ではありません。 試合までの「息上げトレーニング」の辛さは、やってみた者でないと分かりません。「心臓が焼ける」 という表現も、その意味は体験した者のみが分かる事。 試合場に上がると逃げる訳には行かないし もう前に向かって突っ走るしかなくなるのです。 こういうことを繰り返していく非日常的な経験が 年輪となり、些細な怪我など怪我で無くなくなる身体が出来上がり、些細な事柄にもへこたれない心 も築かれていくことでしょう。それが極真空手です。そしてその過程で築かれる「心の姿勢」と「礼節」 をこのクラブは最も重要視しているのです。 強い心と心の姿勢を整えることが如何に人生で問われて 来るか、子供達が辿るであろう成長過程で出くわしてくることなので、その大事な部分に最初から焦点 を当てています。 暑い日も、寒い日も、疲れて体調が悪い日も、そして学校の宿題が溜まった日で あっても、それでも稽古を続ける気持ちを養う事。これが実は大事。 稽古を休むのは自由であるし 自分でいくらでも理由を作ることは出来るでしょう。しかし、そう安々と稽古を休むことを覚えた人に 「心」が強くなる道理はありません。 お正月に神社に行って「今年はいいことがたくさんありますように」 といくら拝んでも叶わないのは、日ごろの心の姿勢にあるからです。 それぞれの生き方があって それぞれの事情がある中でも一つの事をやり通す人と、そうでない人との違いは神様が決めることでは なくて、物の道理。 お布施の大小ではありません。 しかし、だからと言って、習い事感覚で道場に来る のが駄目と言っている訳でもありません。 ただ子供が甘えを覚え、ホドホドに生きる処世術を親御さん が教えてしまった環境から脱皮できず、「空手教室にも、ホドホドで行ける時に行きましょう」というホドホド 人生であれば、心の姿勢や礼節をわきまえる観点から程遠い道を進んで行かれているという事です。 世の中を舐めた人間を創るのは外部要因ではなく家庭環境であって、その親の責任である事は認識し なけれはなりません。いくら頑張っても思い通りにいかないのが人生。大して努力もしないで、礼節が 良くなったり、身体や心が強くなったりする筈が無いという事は分かっていて、誰もが我が子には甘い ということも自覚して頂かねばなりません。 空手は武道、そして勝つ事だけが全てではありません。 負けた事によって色々な気付きや、反省、努力、周りの方々への感謝の思い、敬う・感謝の心が育つ のです。 勝つ事より、むしろそういう事の方が大切であり、将来社会に出て役に立つはずです。 社会に出て通用しない空手なら何の意味があるものか。 しかし、努力もせずにホドホドにしか取り組 まない人の逃げ口上になった空手では、武道教育に未来などありえません。勝ち負けが全てではなく、 もっと大事なものが道場にあるのです。 それを実践する為に創ったのが、この空手クラブです。
毒
韓国ではハッキング大会を催している。 ハッキングとはサイバー攻撃に対する能力であると韓国の 軍部は、このハッキング大会で優秀な人材を確保しようとしている。 日本では、そういうことはやっては いけませんよと言うだけで終わってしまうかもしれない。 建前を重視して大きな変化を嫌う民族性が 日本にはある。 これは元々、農耕民族なのだからやむを得ないことかもしれない。 しかし、「いい子、いい子」では済まないのが世の常。 生きている内には様々な問題が起っては 消えて行く。 それらの問題の中で建前を意識しすぎるために、そして、いい子で居すぎる為に 成すことが出来ないこともある。 「法案をあさってまでに終えないように一致団結する」という 野党党首の声は「絶叫戦術」の例えの通りで小手先だけではと虚しさを覚えてしまう。 Bitcoin は日本人の論文を見た海外のプログラマーによってその価値を全世界に広げ1兆円を 超える市場規模になっている。 幻の通貨が投資の対象になっているのは反面恐ろしい事では あるが、カンフル剤であることに間違いはない。 昭和24年 京都で行われた第1回全日本空手道選手権で優勝した24歳の若者は29歳で米国 を空手のデモンストレーションを行いながら異種格闘技を行なった。31歳で牛47頭を倒した。 68歳の時にブラジルの選手がスイスの選手と戦い劣勢で負けが決まりそうであった時に止めが 入ったが、ブラジルの選手が構わず左上段回し蹴りを出して、スイスの選手が失神したのを見て 「止めが入ってたとはいえ、倒された者は勝者にふさわしくない」としブラジルの選手の一本勝ち を認めた。 極真会館とは当時の空手界の毒であり、カンフル剤であったことは間違いない。 その創始者は情に厚く豪快な人間であったが当時の空手界にとっては毒であった。 我はそんな男の後姿を慕う者である。 そんな会話をわが師である浜井代表とたまにする。 このわが師も豪快。そして情に厚い。思えば我はそんな生きざまに憬れていたのかもしれない。 「毒」はまた、そんな男達の生きざまに必要なものであることは是非に及ばず。