占い
金曜の夜は気が緩み朝方までオリンピックを見てしまいました。なでしこは本当に力があるんだなと思いながらブラジル 戦を見てると、押されてるのに勝ってしまう強いチームの戦い方をしてました。そんな「なでしこが決勝まで行く」と2か月前 に言っていたのは占い師の魚ちゃんという韓国人の女性。 それからスペインの占い師も一か月程前に「なでしこは金メダル を取る」と言ってました。 こういう占い師の言うことは、その結果がどうであったか照らし合わせて視ないと信用できません。 その人たちに日本の柔道男子を占ってもらっていて今回の状況を言い当てていたなら信憑性も出てきたでしょう。なでしこは、 果たして決勝まで行くのか? また優勝するのか? 占い師の占った結果を心待ちにしてみるのも面白いです。 守護霊が伝えてくれるという方もいました。確かにそういう方もいるのでしょう。しかし、世の中にまやかしもありますから それを見極める眼が、視て貰う側には必要かもしれません。 私も過去マカオのルーレットで「次に来る数字を神頼み」 しましたが、悉くはずれました。ちょうどその後です、大王製紙の御曹司がマカオに通いだしたのは。確率で見ると全てが 負けることになるので、私は自然の摂理どおりに負けたという訳です。しかし占いでなでしこが優勝すると言うなら 金メダルオッズでここに掛けるべきです。ブックメーカーのスポーツベッティングはスポーツを1000倍おもしろくする というもの。しかし絶対間違いなしと言われた柔道日本はブックメーカーオッズで1.2~1.5倍くらいと圧倒的でしたが 勝負はやってみないとわかりません。今、日本人の多くは純粋に勝ち負けで一喜一憂しているでしょう。しかし海外では 番狂わせを喜びます。オッズがあるからです。こんなオッズの番狂わせも吹っ飛ばす勢いがないと金メダル最有力も そのとおりには行かないのでしょう。いろんな思惑、いろんな作用、いろんな賭けてる人達の思いがその場に交錯している からいつもどおりに行かないのかもしれません。特に個人種目は多くの人の感情の高ぶりが起こす感情の台風の中で一人 で競技をするようなもの。 内村選手のあん馬は普通ならあり得ません。背中を押してもらえる人と、足を引っ張られる人。 +と-がいつもより、大きくぶれるという状態なのでしょう。そんな中で平常心を保つのは至難の業。金メダル候補が金メダル を取るのはそれほど難しいのでしょう。そんな勝手な想像で、番狂わせを自分なりに楽しんでオリンピックを見ています。 しかし、なでしこは本当にスペイン人の占い師の言うとおりに金メダルを取るのでしょうか? もし、取ったら何故それが 分かったのか聞いてみたいものです。ただ、スペインの何処にいる誰だったか覚えてませんから、身近なところで新大久保 にいる魚ちゃんに聞くしかありません。準決勝はなでしこが全く勝ち目のないフランス。到底決勝に行けるとは思えませんが。 私は占いというものを信じてませんから、占いが外れて欲しい気持ち半分、なでしこが勝って決勝に行って欲しい気持ち半分。 占いどおりに行くか、そうでないかは、8月6日 3時にわかります。
奇跡の予感
極真の試合は顔面へのパンチや急所への蹴りなどは禁じ手になってます。しかしそれ以外は実際に当てます。ですから 稽古では、どこを、どうすれば、人を倒すことが出来るのかを研究します。実際に日常生活で人を倒す為ではありませんが 実践で通用しない突きや蹴りをいくら練習で繰り返しても意味がありません。突き一発で倒せる自信があれば、また蹴り一発 で自分より大きな相手を倒せる自信があるだけで、どんな場面に出くわしても冷静でいられるのです。極真カラテは弱い人が 強くなるために習得する技です。最初は弱い人でも繰り返し繰り返し極真の基本を稽古し、型を稽古し、それをスパーリング で活かしていく中で自分でも想像できないほど強い人間に成長していきます。また逆に言うと、試合で強い選手ほど基本が 出来ているということです。基本が出来て、その応用に入るという過程がないと強くなりません。強いということは、もちろん 攻めも上手いのですが、それ以上に守りが上手いということです。相手の強い蹴りやパンチをさばいて、攻めに転じること が出来れば相手に勝てます。蝶のように舞って蜂のように刺すのはボクシングも空手も同じこと。それが出来るには基本。 基本が出来てないと我流の形になり、いくらやっても上達せず、スパーリングで余裕を持てなくなります。基本をマスター して相手の攻撃を自由にさばけるようになればミット稽古が活きてきます。 このことは極真の試合を見に行けばわかる ことです。いつか稽古に来てる子供達を極真の試合に連れて行ってあげようと思います。小さい人が大きな人の重い蹴り やパンチを受けながら起死回生の上段蹴りで相手を倒すシーンはよく見ます。しかしパソコンの動画ではなく試合会場で 見る極真の試合は迫力が違います。上手い組手をする人の余裕ある姿に刺激を受けるでしょう。身体の大小は関係あり ません。余裕あるカラテに大事なのは基本のマスターなのです。子供たちに基本を伝えるのは大変難しいことですが、 辛抱強くやっていくしかありません。繰り返し繰り返しやる過程が人を変えると信じて、そして子供達が一つ一つの峠を 越えられるよう見守って行こうと思います。時には厳しく、時には優しく。子供たちに何かを残して行きたいといつも思い ながら指導をしてます。そう思って今日もみすずが丘に行きましたら、稽古の前にある子供からおみやげをもらいました。 沖縄の「星の砂」。 何だか気持ちが嬉しかったです。この子達が成人するころには空手はオリンピック種目になっている でしょう。空手は世界的に広がっているのですが柔道と違って、寸止め空手や直接打撃系、また極真も松井派、浜井派、 新極真、連合会など多岐に分かれているのが実態です。それが昨年あたりからJKJO、新極真を中心に一つにまとまる 動きが出てきたのです。 今、ロンドンではオリンピックが開かれてます。 いつの日にか空手がオリンピック種目に なればと思いまがら見てました。それを目指すくらいに努力していたら、「いじめ」という言葉とは無縁の環境になっている はず。目標がある人には「いじめ」という寄り道もなくなるのでしょう。 環境は自分で創るもの。そして過去は変えられない けれども明日は自分の思い通りに方向転換が出来ます。そんなことが注目もされてなかった日本の男子サッカーに見る ことが出来ました。優勝候補のスペインを切り崩し、予選も突破。日本の若者の突破力と荒削りさが妙に新鮮で、何かを 成し遂げそうな予感が湧いて来ました。 そういう若者たちの物怖じしない度胸に、人知れず努力した結果が備わった瞬間 、何かがはじけて奇跡が起きるように思えます。 逆に金メダル確実と言われる人たちが早々に負ける試合を女子柔道に 見ました。相手を見すぎて攻めが一歩遅く、何もはじけるものもない。そんな試合でした。力負けと言えるかもしれません。 捨て身になっていない行儀の良さに奇跡は無縁なので何となく試合前に本人たちは何かを感じているはずです。 「いっちょやってみるか」という奇跡の予感なのか、ただ漠然とした空回り感なのか。 日本の若者には綺麗ごとや 行儀の良さよりも 荒削りな度胸を見たい。 サッカー男子には迷いはなく、2日目までの柔道女子二人には迷いが あったかも。 オリンピックは心の迷いを規準に見てみると勝敗の予想は外れないかもしれません。 明日を信じて 活きる人。奇跡の予感の人。世界を食ってしまう番狂わせの人。見せて欲しい。 そんな物怖じしない姿を!!!
2050年
社会に出て30年。日本国内でもいろんな場所を訪れました。思えば行ったことのないのは北海道と沖縄だけ。あとは すべて訪れましたのですが、行く先々で不思議なことに、初めて訪れた場所の方々でも以前にお会いしたような馴染み のある感覚、風貌などに出くわすことがあります。これを前世記憶という方もいるのでしょう。しかし私自身はいつも、 それは単純に当然のことと割り切って見ているのです。 日本の歴史を見ると約1000年前に源氏物語が出来たこと は周知の事実です。しかし、この1000年というのが自分から数えて何世代前の人が生きた時代かと考えると 約40世代前。これは1世代を約25年と計算し100年で4世代という計算から出たものです。 そうすると自分の 1世代前の人数は両親だけなので2名、2世代前は4名、そして3世代では8名、100年の4世代前は16名という 具合に私が生まれるに至る過程で関わった人数はネズミ算的に増える訳です。そうすると40世代前の人数は 8兆7960億人となってしまいます。 当然日本の人口は、平安時代では550万人~650万人しかいませんから、 日本国内で何度も混ざり合った血縁の中で今の自分がいるということが分かります。 ということはDNAの形が近い 人も当然日本の中でも多数いるということになるのだろうと、勝手な個人的理論を作り上げて、先ほどの「馴染みの ある風貌」に対して、安易な納得を加えているのです。 日本は鎌倉時代でも684万人、関ケ原の戦いの時でも 1227万人、享保の改革の時代でも人口は3128万人。多少人口が増えたと想える明治でも3330万人ほど。 それが第2次世界大戦の時は8390万人に増え、今は1億2千万人。 それが今を境に日本の人口は減るという 予測があります。2030年では1億1千5百万人、2050年では9515万人になるらしいです。 「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しく とどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」 1212年のこの文章は、ちょうど33世代前 の方が書かれたもので、当時の日本がどんな国であったのか薄っすらと見えて来くる書物です。 夏の夜空を見なが らの読書の時間が、ちょっとした空想の時間にもなり、その当時に生きていた方の血が今の自分にも受け継がれている という奇跡に近い事実にも辿り着いたりも致しました。 しかし大事なのはこれから先の事。 2030年は今の小学1年生 が25歳の時です。このHPの写真の子供達がちょうど社会に出だした頃。そして2050年は、その子供達が45歳の時。 日本は少子高齢化真っ只中。いったいどんな社会になっているやら全く想像もつきませんが、よりよい日本であることを 願うばかりです。なでしこの初戦を見ながら、そんな空想をしていたら気が付けば3時。今朝は少々つらい朝になりました。
心の目を看る
「弱い者をいじめることは人間として絶対に許されない。いじめる側が悪い。また、いじめを傍観したり する行為も同様に許されない」というのが文部科学省の見解。それを子供たちと保護者に徹底させる ことが必要だというのです。また学校の断固とした姿勢も必要だということも書いてありました。いじめ は決して許さないという断固とした姿勢を学校が示し、場合よっては停学などの厳しい措置をとること を知らせることが必要だというのですが、私にはこのような第三者的な言い方は大津教育委員会の 対応と大差ないように感じられました。公に省の見解を提示するとなると、このような表現になるのも 、やむを得ないのでしょうが。 しかし、学校の教育現場で、そういう対応があったとしたら、現場の 改善には至らないように感じます。子供たちに距離感がある言い方では何も解決は出来ません。 全ては自分の子供に対するのと同じです。目を看て褒めて、やらせて、また褒める。 泣くこともあるでしょう。でも出来ないことを何度もやらせて、また褒めてあげます。子供の純真な 気持ちは目に現れているから私もあきらめず、そうし続けます。もちろん文部省や学校が唱える 建前に異論がある訳ではありません。 しかし大事なのは、子どもの名前を呼んで、目を看て、 語りかけること。そういうことを繰り返す中で、次第に微かな灯りが見えてくるように思えるのです。 子供たちに空手を教えながら心の目を看るようにしているとかなり疲れを感じる時があります。 幼稚園から小学校低学年の子供たちが集中出来るのは、せいぜい30分くらい。 それはどんな 子供でも同じです。 そういう子供たちを飽きさせず、しかも自信をつけさせるように時間を使うには 、工夫が必要になってきます。一人一人の顔色と目と動作を看ながら気持ちを感じて、それに応えて 行く訳ですから、気を抜くことはできないのです。 稽古の最後には 道場訓を唱和して黙想をします。私はこの時間が一番好きです。黙想の時の一瞬 の静寂。汗が静かに伝わる時間。心が満足する時間。道場訓の唱和から、ほんの2-3分の時間の 為に、昔から稽古に参加してました。 仮病で休もうとした時でも勇気を出して稽古に出た時などは、 この最後の静寂の中の黙想で、いつも心の垢が落ちたように感じました。 まだわからないと思い ますが、いつの日か子供達にも、そのことを感じて欲しいと思っています。 今日もこれで貴重な 1日を終えることが出来たという実感が子供たちの心で感じられる頃には、いじめられた思いは、 頭から消えているでしょう。そして子供の成長を感じられるのは、たぶんその頃からだと思うのです。
見て見ぬふり
先生も見て見ぬふりや、一度、先生は注意したけれどその後は一緒になって笑っていた。また先生もいじめのことを 知っていたけど、怖くて言えなかったらしい。一方、男子生徒が先生にも泣きながら電話でいじめを訴えたが、あまり 対応してくれなかった ーーー 。 去年10月に起こった滋賀県の中学2年生の自殺の全容がようやく明らかになって きました。 今回のことは一体誰が悪いのでしょうか? 原因を作った生徒は当たり前。しかし、それ以上に悪いのは 先生達であるのは事実。 また、そういう先生に限っていじめは良くないと胸を張って言うのでしょう。 世の中には 確かに、素晴らしい先生もいます。が、しかし、そうでない先生も少なくありません。子供を教える資格のない人や、 物事の本質を見極められない人もいるでしょう。 では、子供達を救うにはどうしたらいいのでしょうか? それは親が真剣になること。これ以外にありません。 子供の声、態度の変化に敏感になって、変な何かが 起こっていないか視る目が親には必要です。何かがあれば学校に飛んでいって、相手の生徒に真意をしゃべらせる くらいの気迫も時には必要です。きれい事で済まそうとしたり、いじめる生徒が暴力的であるからと言って先生や親も 怖がって何も言えないなど言語道断。子供が亡くなってから、いくら警察や学校に対応を迫ったところで、何もならない ことは誰も分かっているはずなのに、大人達に勇気がないのです。 身を呈して子供を守ることを、子供が生きている うちに何故しなかったのか疑問でなりません。見て見ぬふりをする先生、亡くなってから警察と学校に問題の原因を迫る親。 みんな大人の仕業です。 力なき正義は無能なり。正義なき力は暴力なり。 私は今、稽古に来てる子供達に身をもって 正しいことと、そうでないことをはっきり伝えるようにしてます。 ですから、もし、同じことがその子供達に起きそうならば、 私はその子たちを守るでしょう。 当たり前のことですから。 私の追及する空手は単なるスポーツでも、また空手ダンス でも、はたまた暴力集団育成クラブでもありません。 一人の人間として、逃げない心を創る修練の場であると考えてます。 ですから「見て見ぬふり」などということはあり得ないのです。
ギザ10
どうしても昭和33年と昭和34年の10円玉に出くわすことがありません。 ちょうど去年の春から自分と同じ年代のコインを なんとなく集めようと思い立ち、1円、5円、10円、50円、100円コインを年代ごとに集めだしたのでした。5円は昭和24年 、25年、26年、27年、28年と出くわすことがあり、余すところ昭和29年、30年、31年、32年。それとどういう訳か、その先 10年も飛んで、昭和42年がありません。 1円は33年、34年、35年。 10円の33年、34年と同じですが100円玉は 32年~41年までがどうしても出くわすことがありません。 この年代は製造枚数も10万枚にも満たないから稀なの でしょう。 最近は こういう稀なコインに出くわすことがめっきりなくなりました。 しかし、コイン取り扱い店に行って買う というものではなく 生活の中で出くわしたり、知り合いから貰い受けたりするに留めたいだけの自己満足のもので、 その偶然の出会いに期待するのです。 昭和32年の5円玉、昭和33年の10円玉、昭和35年と昭和62年の50円玉、 そして昭和32年~36年までの100円玉は可能性が低いので、かえって出くわしてみたいと思います。 たまにコンビニ の支払いで小銭入れの中を覗き込む時間が長くなったりして お金に困ってる人のように10円と5円を何度もひっくり 返しながら支払ったりしていると、何か怪しいオジサンのようですから、これは止めないと。 先日 そんなことを気にせず、たまたま受け取った10円玉の中に昭和28年のものがありましたので、よくも、まあ、 58年間も色がちょっとくすんだくらいで、世間のお役に立っていたものかと関心し大切に家に持って帰って来ました。 自分より5歳も年上の10円玉がまだ現役だったなんて凄いな、とつぶやきながら、早く収集箱に入れてあげようと思って いたのですが、凄い物を手に入れたと勇んで収集箱を覗いて見ると確かに稀には違いないのですが、すでに1枚確保 済みでした。 な~んだ。それ以上に古い昭和26年の現役60歳のものもあったじゃん。 一気に喜びも冷めました。 が、しかし、それでもギザ10のギザギザが薄れて、酷使されて働き続けた昭和28年の10円に違いありません。 出くわすことは稀なのです。たかが10円玉です。 されどーーー。なのです。 私の同級生でコメディアンをやっている 嘉門達夫が万博のバッジを集めていましたが、何とバカなことをと鼻で笑ってました。 大したことではないものを。 でも今は分かります。その頃の思い出を大切したいという気持ちが。 そうだ同窓会、ここ数年やってないや。 たまに懐かしい顔に会いに行こうかな。 中条小学校と養精中学校の昭和33年生まれの同窓会に。
乞巧奠(きこうでん)
大場みすずが丘地区センターの入り口には笹に願い事 が書かれた短冊がいっぱい。 子供達の願いと家族の幸せを願う思いに心が温かくなりました。 七夕はもともと中国から 伝わった風習です。 乞巧奠(きこうでん)と言って 七月七日に湖南省の女性達が針に五色の糸を通し庭に酒や 瓜の実などを供えて裁縫の上達を願ったことが始まり。 日本では平安時代に宮中の年中行事の一つだったようです。 でも旧暦の7月7日だから今の暦では8月19日ころ。 昔は梅雨があけて暑さも峠を過ぎたころに行っていたのですね。 中国の湖南省の8月中旬の気候は酷暑そのものです。街は日本の田舎とそっくり。でも湿度≒80%、気温40℃にも なるから盆地特有の暑さの街です。6世紀の中国で始まった夏の行事が日本に伝わって、織姫と彦星が天の川を越えて 再会できる年に1度の日になりました。中国では針仕事をなりわいとする女性たち(織女)が裁縫の上達を願うための お祭りでした。 そのため習字を含め、裁縫、工芸などの芸事が上達しますようにというお願い事にはごりえきが ありそうですがーー、と思いながら一つ一つの短冊を眺めてみますと、そこには純粋な子供達の心がいっぱい。 「早く人間になりたい」、「ウルトラマンゼロになれますように」ーーー。 でも残念ーーー。ウルトラマンゼロは難しいかも。 たぶん書いた子供はウルトラセブンの子供じゃないだろうし、それは無理です。それに5900年も生きないといけない から止した方がいいです。 それに、そういう願いは、そもそもかなわないかも。 45年前に同じようなことを書いた私が 、まだウルトラマンになれてませんから。
高学歴
私は書く衝動にかられたときに ここに思いを書くようにしてます。 先日はジェームス・アレンが余生を過ごした イルフラクームとエミリー・ブロンテ、シャーロットブロンテが眠いっている北イングランドに行ってみたいなと思って そのことを英文で書いたのです。 その後は、書きたいものもなく今日もテレビや新聞を見ていました。すると何やら 高学歴でいい就職がないというニュースに出くわしたので、何故かな?という気持ちで視ていたのです。明治大学 大学院卒で政治学の修士を取ったという31歳の方、14年前に17歳で千葉大に日本で始めて飛び級で入学した 物理の天才と持て囃された31歳の方。二人とも手取り20万円にも満たない給料だと言うのです。何を誤解してるのだろう。 今時、「修士」という肩書きがどれほど世の中で役に立つものか何故、親、兄弟がそういうことを伝えてあげなかった のか疑問でなりません。 勉強のし過ぎなのか、また高学歴であれば世の中を渡っていけると勝手に思い込んで しまったのでしょうか。今や日本でも中国でも、アメリカでも、そんな甘さは残っていません。 その二人に共通 していることは壁にぶち当たっても高学歴と過去の栄光にしがみつく、後ろ向き人生を歩んでるということです。 企業は役に立つ人材が欲しいのです。会社の社運を隆盛させるような若さあふれる人であり、エネルギー、そして チャレンジ精神旺盛な人。 失敗してもへこたれない明るさのある人。最後に協調性のある人。 決して頭のいい人を 欲しいのではありません。東大・京大出身者が仕事が出来るとは限らないからです。 では どうしたらいいのでしょう。 今日の昼の番組では 将棋で団体優勝を果たした岩手高校の特集がありました。名だたる高偏差値の高校を 破っての優勝です。前年に灘高校に決勝で敗れた以外、ここ数年、連覇を続けている高校です。偏差値は54。 灘や開成の偏差値は常に75~77です。勝負あったと言っても過言ではありませんが、悉く予測を覆す結果を 導き出すのです。この生徒達にとって偏差値は関係ありません。将棋が好きな上に、負けないための努力をして 、そして下級生は先輩に、先輩は下級生に鍛えられてるのでしょう。 自分たちで考えながら何とかするコツを体得 したのでしょう。 これが大事だと思うのです。考えて、悩んで、やってみて、自分の道を切り開き、それを育むんで 行く事。これが大事だと思うのです。学歴で飯が食えるとは、岩手高校の将棋部のメンバーは誰も考えていないでしょうし、 どうやって行けばいいのか考える知恵とタフさが備わった以上、動じることもないでしょう。 対照的な映像でした。 今、私は週末に子供達に接して空手を教えています。 子供なのでしようがないのですが集中力が欠けている子供 、またふざけ出す子供、そして泣いてしまう子、スパーリングで相手に強くしないでとお願いする子。子供達は、 それぞれです。私は子供らしくて、それはそれでいいと思ってます。極真で稽古を続けていれば、そのようなことは、 いずれ解決することだからです。 しかし、大事なことは、壁を乗り越える精神的な強さを養うこと。そして親や周り の人が、その子供の進路に真剣であることです。高校生・大学生だから自分の好きにさせるというのも人生です。 しかし自由にさせた挙句に30才を過ぎて、就職難に出くわし20万円にも満たない給与では、取り返しがつきません。 これから先が暗い闇ならランプを用意してあげるのは親の仕事。人生の壁にぶつかった時にどうすればいいか 分からない子供に適切なアドバイスをしてあげるのは親の責任です。 今、空手で接してる幼稚園児、小学生もいずれ 社会に出ます。その時に出くわすはずの壁に、その子達が対処 できる大人になって欲しいと願いながら、基本稽古やスパーリングや補強練習を見詰めています。 大人になる前に直さねばならないこと、褒めて、褒めて伸ばしてあげること、名前を呼んで頭をなでてあげながら 一人一人の目の輝きを確認してます。 空手に強くなるためだけに時間を使ってる訳ではありません。子供達が 社会に出て苦労しない人になるために目を看て、頭をなでながら、よくやったねと褒めるのです。 ふざけ癖が直らない時には、「言うことが聞けないなら帰りなさい」と言うこともあります。しかし、稽古が終わる頃 には最後は頭を撫でて、褒めて帰してあげます。 この子供達の明るい将来を思いながら。 また来週の土日には、元気な顔を見せてくれるでしょう。 そしたら、見せ掛けの高学歴などに惑わされない人に育って 欲しいと願いながら、また御まじないをしてあげようと思います。 すくすく育ちますように。
ILFRACOMBE
Riches, I hold in light esteem. And love, I laugh to scorn. And lust of fame was but a dream. That vanished with the morn. And if I pray, the only prayer. That moves my lips for me, Is "Leave the heart that now I
プリンセス
6月17日 土曜日の練習の時に マオちゃんから 素敵な絵をもらいました。 いつも練習の合間に近寄って 来てくれて 何も言わずに絡まってくれる可愛い子ですから 毎週顔を見るのが楽しみなのです。 土曜日は そんなマオちゃんが「ハイ」って言いながら紙を差し出してくれたのです。 その時は 他の子供達としゃべって いしたので ゆっくり紙の中身を見ることが出来ず、ただ「ありがとね」 とだけ言ってすませてました。 綺麗な服と髪飾りには青の色鉛筆が。そして「プリンセスがだいしゅうごう」 と書いてるのです。 しかし、面白いもので、先週から今日にかけて3人の可愛いプリンセスが入会してくれたのです。まるで この絵のように。 レナちゃん、マコちゃん、リコちゃん、そしてマオちゃん 集まってくれて、ありがとう。この絵 大事にします。